礼拝宣教 テサロニケ一2・1~13
先週から礼拝と祈祷会が短縮というかたちではありますが再開され、今日もこうして顔と顔とを合わせて主を礼拝することができる喜びは何にも替えがたい恵みであります。
先ほど今日の聖書の箇所が読まれましたが、その後の17節以降にこう書かれています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですがーなおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」
これは私たちが経験した2か月間の状況と重なって来るような思いで読まされました。
礼拝が休会となった間、礼拝の音声データや宣教原稿の送信を行い、場所は離れていても礼拝が共有できるように努めました。
それも意義があったと思うのであります。ただ、こうして主イエスが復活された主の日に共に集い、神を中心にした私たちの交わりの基となる礼拝に共に与ることができる。これはやはりネットや文書では得ることのできない喜び、幸いです。
本日はテサロニケの信徒への手紙2章から「生きて働かれる神の言葉」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
まずこの手紙ですが。パウロらは迫害のためにテサロニケの地を追われコリント地方に逃れます。彼らはテサロニケの教会にテモテを遣わし、その報告を受け書き送ったのがこの手紙であります。
ここには1章3節にあるように「信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐している」テサロニケの信徒たちへのパウロの愛が満ちています。
パウロはテサロニケを離れた後、テサロニケの教会が自分の受けたものと同等の迫害や妨害に遭っていないか、又福音宣教に敵対する勢力に牛耳られていないか、という心配があったのでしょう。
しかし、先週1章を読みましたように、テモテからの報告を受けたパウロは、テサロニケの教会の信徒たちが、6節「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者となり、そして主に倣う者なった」そのことを知り、神に感謝して、その思いを綴ったのです。
本日の2章のところも感謝の言葉があふれています。
何よりここでパウロが神に感謝していることは、13節にありますように「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」という点です。単に人の教えや教訓としてではなく、生ける神の言葉と信じ、受け入れた。
パウロは続けて「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と書き記しています。
テサロニケ教会の信徒の中に神の言葉が現に働いている様子をテモテから知らされたパウロの喜びが伝わってくるようですが。
パウロは2節で「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしがそちらに行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中で(テサロニケの)あなたがたに神の福音を語ったのでした」と言っていますが。
このように神の言葉の働きは苦難の中で語られました。
苦しみや攻撃に遭いますと、人は口を閉ざしたり、語り伝えることをやめてしまうのではないでしょうか。
しかし、厳しい苦しみの中でも、神の言葉はパウロらのうちに働いて福音を大胆に語らせ、神の恵み福音を分かち合う力として働き続けたのです。そして、その生ける神の言は2千年を経た今も変わることなく力をもって働き続けているのです。
パウロはコリント一1章18節で、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と記しました。十字架の言葉は、救われる者には生きた神の力なのです。この十字架の言葉は神の力の「力」は原語で、
デュナミス。それはダイナマイトの語源となった言葉で、爆発的力を示すものです。
同2章4節には「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力と証明によるものでした」とも言っています。
テサロニケ1章5節にも「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったかです」とあります。
パウロが語った宣教は、主イエスの十字架の苦難と死を通して啓示されたものでした。
フィリピでの苦しみや辱めに遭いながらも、彼が福音をテサロニケにおいてなおも語り続けることができたのは、彼が人の知恵や力に依り頼まず、神の知恵と力に依り頼んでいたからです。
先に、パウロはテサロニケでの宣教について、「わたしたがそちらに行ったことは無駄ではありませんでした」、さらに8節で「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう」とも言っていますが。
これらの無駄、労苦や骨折りというのは、出来れば避けて通りたいことです。
けれどもパウロは、一見無駄に見える労苦や骨折りの中に実は神の言葉が生きて働いていたという神さまの恵みとお働きを見出すのです。
人間は見える成果や働きに目が向きます、それはある意味自然といえましょう。けれども主を信じる者は神さまの恵みとお働きを見ていく霊の眼が備えられているのですね。
先週礼拝宣教の中で、教会の恵みや喜びは単に活気があるとか、教会に人が増えたというもので決して計ることができるものではないし、かえって困難や課題の中で「信仰によって働き、愛のために労苦している」一人ひとりが主にあってつながり、祈り合い、主イエス・キリストにある希望をもって忍耐している事が、キリストの教会の恵みや喜びの証しとして立てられていくのではないでしょうか、と申しました。
先週の再開された最初の祈祷会に出席なさったある方が、この2か月間教会に集うことができないことを通して「忍耐と希望について学ぶ機会となった。又、自分は一人ではない、支え合い、祈り合う関係があることはどんなに大きな支えや慰めになるかを再確認した」とおっしゃっていたことが心に留まりました。
労苦や困難も決して無駄ではない。無駄でないどころか「生きて働かれる神の言葉」が私たちのうちにも現に働いているという証しとなるのですね。
益々主にある交わりが、昨今の困難な状況の中でゆたかにされていくように祈り努めたいものです。
さて、パウロはまた「神の言葉の働き」について7節以降で次のように書き記します。
「わたしたちは、キリストの使徒としての権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。」
パウロは使徒という立場を得ていましたので、その権威によって指導者として立つこともできたわけです。実際テサロニケ教会に哲学を持ち込む者や雄弁家が権威的にふるまったりすることもあったようです。
けれどもパウロは使徒的権威を用いず、かえってテサロニケの信徒たちの間で「幼子」のようになったのです。
4節のところで、パウロは「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくために」と、神に対する純真な思いを語っています。
それは、主イエスの福音をまあ幼子のように一途に実直に語り続けたということです。
ユニークなのはパウロが幼子のたとえの後に、母親、さらに父親をたとえに用いているのですね。
「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちにとって愛する者となったからです。」
「愛する者となった」この「愛」は、原語でアガペー、神の愛ですから、まさしく神の言葉の力によって生じた愛なのです。
神の言葉の第二の働き、それは人の教えや雄弁家とは異なる神の愛によって人を愛する働きであります。
さらに、パウロは「神の言葉の働き」について、11節以降「わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。」
パウロは父親の気持ちで、神の御心にそって歩むための励まし、慰め、強い勧めを愛をもってなしたのです。
もう言うまでもなくその母の愛、父の愛は人から出たものではなく、アガペーの愛、すなわち神の愛によるものです。
私どもも又、その神の愛から働く信仰によって互いに励まし、慰め、勧めをなす関係を築いていくものでありたいと願います。
最後に、神の言葉がテサロニケの信徒たちの中にパウロが絶賛するほど生き生きと働くようになったのは、パウロの宣教の言葉を聞いて、信じ受け入れたという事によります。
単にパウロが一方的に宣教の言葉を語っても、テサロニケの信徒たちが心を開いてそれに耳を傾け、神の言葉として受け入れて信じなければ、その信仰がテサロニケの信徒の生活の中に現に働くということはなかったのです。
13節の「信じているあなたがたの中に現に働いている」の、「働く」という原語はエネルゲイタイ、エネルギーの語源ですが。そのように神の言葉を信じて生きる交わりの中に、神の愛が爆発的力となって働かれるということです。
それは具体的には先週1章6-10節で読みましたように、ひどい苦しみの中でも聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたパウロに、何より主に倣う者となり、すべての信徒の模範となるような実を結んでいったということです。
礼拝も信仰の生活も宣教者が一方的に御言葉を語るものではなく、一人ひとりがそれに心を開いて聞き、神の言葉として受け入れ、分かち合われていく中で、神の生きた力となって働かれるということであります。
使徒パウロは宣教するにあたり、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくために」(4節)と書き記しました。
生ける神の言葉、救い主イエス・キリストこそが語られ、聞かれ、現に私たちの間に力を発揮してお働きくださるように、宣教のため、又それを共に聞くお一人おひとりのためにお祈りください。
今日から始まりました新しい週の一日一日も「神に喜んでいただくために」、愛と感謝をもって一切が捧げられていくように、神の言葉とそのお働きに共に与ってまいりましょう。
祈ります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
主なる神さま、今日こうして主の日の礼拝に私たちを招き導いてくださり、ありがとうございます。
あなたの御言葉は愛の力であり、あなたを信じる者のうちに生きてお働きくださるメッセージを今日頂きました。
今私たちを取り巻く世界、社会はほんとうに先行きが見えず、不安と恐れに満ちていますが。どうか、いのちの御言葉である主イエス・キリストに聴き従い、益々主への信仰によって希望を見出し、主の愛によって互いに愛し合い、慰め支え合う世界となりますようお導きください。今日の礼拝を感謝して、主の御名で祈ります。