新年礼拝宣教 マタイ3・13-17
今年最初の主日礼拝において私たちに与えられましたのは、「主イエスがバプテスマをお受けになられた」と伝える聖書の箇所であります。古代より神の前に身を清めるため水につかる、水をかけるということは至る所で行われてきました。日本的に言えばみそぎがそうです。ヨハネのバプテスマがそれ以前と大きく異なっていたのは、そこに招かれた人たちがいわゆる宗教家や修道者ではなく、一般大衆であったということです。神殿の中に入ることも許されなかった女性たちや罪人と呼ばれる人たち、都エルサレムの人たちからよく思われていなかったガリラヤ地方やその周辺に住む人たちにもヨハネは分け隔てなくバプテスマを施し、神の前に立ち返って生きるようにと説いていました。そこへイエスさまがやって来られるのです。
13節「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。彼からバプテスマを受けるためである」とここに記されていますが。「そのとき」というのはイエスさまにとって大変重要な意味を持っている「時」であったのですね。
なぜなら、そのときはまさに「神の時」カイロスであり、神のご計画された時、いわば必然であり、イエスさまは「そのとき」ヨハネと出会い、バプテスマをお受けになるのです。イエスさまはこの「時」によって神の召命、使命を受けられ、天の国の福音を宣べ伝える活動をすべく公の人生を歩みだされるのです。
すでにクリスチャン、キリスト者となられたお一人お一人にもそのような「そのとき」というのがおありだったのではないでしょうか。 私にとっての「そのとき」は高校1年生のイースター礼拝において、「主イエスを私の救い主として信じます」と信仰の告白をして、バプテスマを受けたそのときでした。恐らくこの機会を逸していたら、主イエスを信じる決心、信仰の告白もバプテスマを受けることもなかったのだろう、主の救いに与るクリスチャンになることも、ましてや牧師になることも、そして今もこういう仕方での福音に生きる人生も、主にある皆さんとも出会うことはなかっただろうと思うのです。まさに「そのとき」は「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)とつながっているのです。
高校生になる前に母にバプテスマの決心を初めてした時は見事に反対されましたが、高校生になるとその母も許してくれるようになりました。又、その私のことを祈って支えてくれていたのが、教会の同世代の友や教会のお父さんお母さんたちの存在でした。神さまはこういう方々を私に送り、備えてくださっていたのです。まあ、当時の私の信仰は少年少女なりの本当にちっぽけな信仰でしたが、そのありのままの自分を神さまは受け入れてくださっていることに信頼することができ、バプテスマを受けることができたのですね。バプテスマは信仰生活の本当にスタートラインに過ぎません。しかし信仰者の大事な出発点なのですね。その後の人生における信仰の歩みにおいて様々な試練に遭い、たとえ信仰を失いそうになった時にも、その出発点に立ち戻ることができ、またそこから主と共に歩み出すことができる。そのバプテスマを受け信仰の出発点をもっているかいないか。それは単なる形式を超えた神の招きと導きの始まりの時となっていくのです。
さて、イエスさまがバプテスマを受けようとヨハネのところに来られると、「ヨハネは『わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られるのですか』と、それを思いとどまらせようさせます。しかし、イエスさまは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになられるのです。
ここでは「今」という時が強調されています。この「今」とは、イエスさまがユダヤの辺境の地ガリラヤのナザレ人イエスとして、救いを求める人々に連なって共に悔い改めのバプテスマに与る「時」を示しているのです。イエスさまは御自分に与えられている栄光や栄誉の一切を捨て、一人の人となられた。そして世の人々に仕え、共に生きる人として大衆にまみれながら一緒にバプテスマを受けられるのです。
ところで、このバプテスマは頭の上に水滴を垂らすような洗礼ではなく、その全身を水に沈める浸礼、バプテスマでした。イエスさまがバプテスマを受けられたヨルダン川の湖面の海抜は何とマイナス430mと、まあ地表で最も低い場所なのですね。その最も低みでイエスさまは沈めのバプテスマをお受けになるのです。これはイエスさまご自身が、この混沌とした世において低みにおかれ、苦しみうめく者たちと共に生きるお方であることを示しています。又、全身を水に浸す沈めのバプテスマは、単に水滴や洗い流すといった清めの儀式とは異なります。それは死を象徴する「水に全身を沈める」という行為を通して、古き罪の肉の身に死に、水から生まれて新しい霊の人となることを意味しています。
イエスさまは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3:5)とおっしゃいました。イエスさまは、正にその初穂として、ヨハネからバプテスマをお受けになり、その公生涯を通して人類の裁きを身に受けて死なれ、復活の命によみがえられたのです。それが、イエスさまの受けられたバプテスマに先取りされているのです。私たちがバプテスマを受けるという事は、このイエスさまの死と復活によって与えられた新しい命に与って主である神と共に生きていくという事なのです(ローマ6:4)。
私たちの教派はそのまま「バプテスト」大阪教会を名乗っているわけですが、そこには私たち自身が罪のないイエスさまを十字架に磔にし、死の底にまで沈めてしまうほど罪深い者、神のみ救いにほど遠い者であることを心から自覚しているという悔い改め、神の方へ向きを変えて生きていくという意志が込められているのです。それは、いつも主にあって心砕かれ、悔い改めと救いの感謝をもって日々新たにされて生きる。そこにバプテストたる意味、そして意義があります。
さて16節、「イエスがバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。
この神の霊が鳩のように降るという事については、様々な説があり、これだという答えは分かりません。聖書から鳩ということで私が思い浮かんだのは、ノアの箱舟のエピソードです。人間の罪の深さを嘆かれた神さまが、洪水によってそれを滅ぼされ、ただ救われたノアとその家族は水が完全に引いたかどうか確認するべく、箱舟から鳩を放つのです。すると、鳩は大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってくるのです。そこで、神さまは空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃるのであります。そのように聖書は鳩を愛と平和の象徴として用いているのですね。そしてイエスさまが神の御心に生きる決意表明のバプテスマを受けられたとき、イエスさまによって神の愛と平和の新しい契約の時代が訪れることを、この鳩のようにお降りになる神の霊(聖霊)を通して告げられたのです。
そして17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。
この天からの声によって、イエスさまは神の愛する子であるという自覚を強く与えられるのです。ここで天の神がイエスさまをわたしの愛する子、すなわち神の子と言っているのは、何も神がイエスさまを、人間のように子を産むように産んだということではありません。わたしの愛する子と言っているのは、神さまと同じ心、神さまと同じご本質をもつ者という意味であります。そのようにイエスさまの心は神のお心と結びつき、後の十字架刑に至る日のような試練を神の御心として成し遂げられるのです。このように、イエスさまをして天の神は「これはわたしの愛する子」と言っておられるのであります。
イブの礼拝の時に読まれましたが。クリスマスの記事では天の軍勢が羊飼いたちに現れて神を讃美して、「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ」と告げております。そこに「御心に適う」という共通する言葉をみつけることができるのでありますが。「わたしの心に適う者」という原文の直訳は、「神は彼を喜んだ」ということです。そうすると随分ニュアンスが違ってきますね。「神さまが喜ばれる人」。イエスさまはそのようなお方であられるということです。それはまさに、イエスさまのバプテスマがナザレのイエスという個人から、神の御心に全身全霊をもって従っていく神の子としての表明であったからだと思うのです。
先にもふれましたように、それは、すべての人の罪を背負い、贖いの業を成し遂げられる十字架の受難と死へと続くいばらの道であります。しかし、神の御心を歩みぬいて行かれるイエスさまは、「御心に適う神の喜び」であられるのです。
ヨハネは罪の悔改めを表す水のバプテスマを授けました。私たちのバプテスト教会もバプテスマは水に全身を沈めて行われています。しかし、そのバプテスマは、人の側の決心を超えた神の霊によって与えられるのです。水の中に沈められる時、イエスさまが私の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったその罪の死に私が与り、水の中から起こされる時、イエスさまにあるよみがえりの新しい命・永遠の命を共に生きる者とされるのです。
肝心なのは、「そのとき」から私たちは神の御心に生きる者として、日々新たにされるのです。「神の喜び」となる人生が始まるのです。クリスチャン、キリスト者の歩みは、まさに日々新たにされていくものです。
私たちは主の救いを得ているとはいえ、自らの罪深さや欠点や弱さをたくさんもっています。しかしイエスさまのあゆみに倣って、従うことはできます。信仰の実生活、体験を通して自分の弱さや罪深さの中に、神のゆるしと主の恵みのゆたかさにあずかるのです。聖霊の慰めと導きを知り、その喜びを分かち合える人生は本当に日々新たにされていくものです。
今の状況は確かに以前とは大きく異なっています。困難も覚えます。しかし、それも私たちから「神が共におられる」喜びを奪うことはできません。
今年一年、益々主にあって互いに祈り合い、励まし合いながら、共々に日々新たにされて歩んでまいりましょう。