礼拝宣教 マタイ4・1-11
先週はイエスさまがヨハネからバプテスマを受けられた箇所を読みましたけれども、その後にイエスさまは荒れ野へ導かれて、悪魔の試みに遭われます。
水から上がられたら天が開けて霊が降り「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」と神さまは宣言なさるのです。けれども、そこからすぐに試みがあるのですね。
ここを読んで思い出しますのは、先週もお話しましたが、私が高校1年の時に主イエスのみ救いを受け入れる信仰の告白をしてバプテスマを受けるのですけれども、それはもう勘違いと思い込みの連続の未熟な、まだ何もわかっていなかった赤ちゃんのような信仰者でありました。バプテスマは霊の人として生まれる時のいわば産湯であって、その日は信仰者として歩み出した第一歩にすぎないのです。実はバプテスマの後こそ、信仰者の歩みは大事なのです。バプテスマを受けるともう問題や悩みはなくなり、ラッキーなことばかりが起こって、すべてが順風満帆にいくかというとそうではありません。むしろ自分の願いや思い通りに行かない事や思ってもいないような出来事に心揺さぶられたり、人の言動にがっかりしたり、傷ついたりというような試練や誘惑が起こってもきます。実はそれはその後のキリスト者としての歩みもそうですが、むしろ、それらの様々な試練や試みを通して私たちの信仰は試され、銀が精錬されるように練られていくのであります。
「荒野の試み」の箇所でまず注目すべきことは、イエスさまを荒れ野へと導いたのは悪魔ではなく「霊」である神であったということです。つまり、この荒れ野でのすべての出来事は神の御手のうちにあって、その導きとご計画のもとでなされているということです。
神御自身が主イエスを荒れ野へお導きになり、悪魔が試みることを許可された。それはあのヨブ記も同様でありました。イエスさまはこの試みを通して、神の子として歩むべき道が整えられていくのであります。
さらにここでは、イエスさまが「悪魔から誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。イエスさまが単に受け身的に悪魔の誘惑に遭われたのではないのです。水曜祈祷会の聖書の学びの時にもでましたが、この誘惑という言葉は「テスト」という意味がより原語に近く、イエスさまが神の御業を成し遂げていくものとして立ちゆくため、自ら積極的に荒れ野に進み行かれたということであります。
さて、そのイエスさまは、荒れ野で「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。この40という数字は、イスラエルの民が出エジプトして荒れ野を旅した40年を思い起こさせるものです。
申命記8章には次のように記されています。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。
荒れ野において民は主に不平不満をぶつけ、偶像礼拝を行い、罪を繰り返しました。それにも拘らず主なる神は、その罪深い民に天からのマナを降らせて与え、荒れ野の旅路に先立って進み、昼は雲の柱をもって照らし、夜は火の柱をもって彼らを照らし、導かれました。こうして神の民は荒れ野の40年の旅路において主なる神の守りの中、その信仰が試され、練られていったのです。
本日の、40日という試みの荒れ野もまた、神の導きのもとで神の御心、神の召命にひたむきに従いゆくかという、試みを受けられたのであります。
荒れ野といいますと、私たちは殺伐とした何もない虚無な世界、それは遠く神からも人からも忘れ去られたような世界、そういう光景を思い浮かべます。しかし、聖書はそのような荒れ野とも思える状況の中で、神さまが最も近くおられ、育んでいてくださることを示すのです。繰り返しになりますが、この荒れ野での悪魔の試みは、神の召命に応えようとするイエスさまが誘惑や試練と向き合いながら、如何に「神の御心」に生きるか、が実に試されているのです。
へブル書12章に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」と記されているように、神さまは私たちをご自身の子として愛しておられるからこそ鍛錬なさるのです。そのように荒れ野は神との信頼関係を確認していく場となるのです。
もう一つ注目しますのは、イエスさまは荒れ野で40日間断食された後に、悪魔の試みに遭われたという事です。それは断食中でなく断食という一つの目的を果たした後、まあ言ってみれば緊張がほどけたその時、空腹を覚えられ、悪魔の誘惑を受けたのです。
私どもはこの日曜日をすべてにおいて主の日として聖別するのですが、月曜から始まる日常の生活の中においてこそ実は私どもの信仰は試され、鍛えられていくのですね。
さて、イエスさまはいよいよ悪魔の誘惑を受けるのでありますが。それは3つでした。
第1の試みは、パンの問題であります。パンは日常的な、地上で生活するためのすべての必要物を表しています。人が生きる肉的な必要です。
ここで、悪魔はパンを「神に求めよ」とは言わないのです。悪魔は「イエス自身の力」で石に命じてパンに変えてみろ、と試みるのです。それは、神に願い求めることなく、「あなた自身の手でそれを作り出せるだろう、どうだ」という挑発です。自分の生活を自分の望む通り、欲しいと思いものをほしいままに、神との対話無しに求めみたそうとする、そんな誘惑が私たちの社会にはゴロゴロとあって、テレビやスマホからも垂れ流されています。
それに対してイエスさまは悪魔に答えます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
このパンの問題は私たち人間にとって最も日常的なことであります。教会に集い、信仰生活をする者にとっても、いつも問題になることです。私どもは「人はパンだけで生きるものではない」と思いつつも、その一方で「人は神の言葉だけでは生きられない」という事を言ったり、聞いたりしていないでしょうか。人が、パンなしで生きられないことは言うまでもないことです。だからイエスさまは「パンだけでは・・」をおつけになったと思うのです。しかし最も重要な事は、日々の生活において神のご采配と神の祝福を覚えることがなかったら、ただ欲望や願望を満たそうとするばかりの虚しい人生になりはしないかということです。
「神の口から出る一つひとつの言葉」によって人は真に霊肉ともに満たされる日々を生きることができる、ということをイエスさまは示しておられるのです。
その霊の糧であるいのちのパンとは、天から降り、私たちの人間の姿をとって、私たちの救いのためにその御からだを割いて下さった主イエス・キリストとそのことを証する御言葉であります。
イエスさまはマタイ6章32節以降で次のようにおっしゃいました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。主のお姿に倣い、御神に信頼しつつ、御言葉に生き、本物のゆたかさを見出す者とされたいものです。
さて2つ目の悪魔の誘惑は、イエスさまが神殿の屋根の上から飛び降りて、神が救いにくるかどうか試したらどうか、という「神を試す」という高慢の罪へいざなうものであります。いわば自分の利のためなら神さえ利用させようとする誘惑です。サタンは実に巧妙に誘ってきます。それは、まさに自分の利のために神の御言葉を利用するのです。
旧約聖書の詩編91編から「主の使いがあなたの足が石に当らぬように守ってくださる」と書いてあるじゃないかと言うんですね。
使徒パウロは、「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」と(コリント二11章14節)記しています。
サタンは如何にも信仰的に思える表現で巧みに誘惑してきます。
「あなたが神の子であるのなら、神が守ってくださるでしょう」「信仰しているのだからいいことが起こって、何をしても必ず守られるはず」「これだけ祈ったから、これだけ働いたから、これだけ奉仕をしたから、ものごとがうまくいくはず。だって神さまだから」。それは一見信仰が強いようい思われますが、本当にそうでしょうか?これは私たちの内外に絶えず聞こえてくる試みる誘惑の声ではないでしょうか。
ある人のお兄さんが重い病気を患い入院したそうです。病室に入り、そのやつれた姿を見た弟は心を痛めながら、「神が必ずお兄さんの病気をもいやしてくださると信じます」と祈ったそうです。そうするとお兄さんは苦しさにあえぎながら、「やめてくれ、おまえの願望を神に押しつけるのではなく、御心が適うようにと祈ってくれ」と言ったというのです。その弟さんは金槌で殴られたようなショックを受けたそうです。お兄さんのその言葉に、それから「神の御心を求める祈り」について本当に考えるようになられたそうです。
私たちは時に神に対して、自分の願望を押しつけ、あたかもそうなることが当然であるかのように祈ったり、振る舞ったりすることはないでしょうか。それは「信頼」とは別物であり、神を試すこと、利用し従わせようとすることなのですね。
ところで、ここで重要なこととしてイエスさまが真に試されているのは、イエスさまのメシヤ性ということであります。
悪魔は信仰的な言葉を利用してはイエスさまを誘惑してきます。「あなたが神の子であるのなら、そのしるしを見せるときっと栄光をあらわすことが出来るでしょう」と誘ってくるのですね。
イエスさまは後に十字架刑に引き渡された最期の場面で、いろんな人たちから「あなたたが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう」(マタイ27章40節)などと罵声を浴びせられていくのであります。神の子ですから、天の軍勢を12軍団までも呼び寄せて勝つことができたかも知れません。しかし、イエスさまはその最期まで「目にみえるしるし」によらず、どこまでも神に従い続けることで「神の御心」を行われました。もしイエスさまが悪魔の誘惑のように、目に見えるしるしによって神の子の栄光を表そうとされたとしたなら、神の救いのご計画は実現しませんでした。
イエスさまは悪魔に答えます。「あなたの神である主を試みてはならないと書いてある」。
私たちも日々、この御言葉の前に身を正されつつ、主の御心を生きるものとされてまいりたいと願います。
最後の3つめの悪魔の誘惑ですが。それは、悪魔がイエスさまを非常に高い所に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったというのであります。これは高慢の誘惑、世の支配欲や権力欲の野心に働きかける誘惑といえましょう。
悪魔がイエスさまに「すべての国々とその繁栄ぶりを見せて」とは一体どういうものを見せたのか興味を覚えますが。正月にはよく五穀豊穣、商売繁盛などと謳われるわけですけれど。しかしそれらは如何に繁栄いたしましても、やがては朽ち果ててゆき、金も銀も財宝も神になりかわることはできません。
もし、イエスさまがここでこの悪魔の誘惑話を受け入れていたなら世界はどうなったでしょう。一時は繁栄に満ちた世界になったかも知れません。イエスさまも十字架にかからずに済んで、偉大な権力者として世に大きく名をとどろかせたかもしれません。しかしそこには創造主、主なる神さまとの和解と平安、真の救いと愛は決して人類にもたらされなかったでありましょう。
イエスさまはその悪魔の魂胆を見抜かれていました。
「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。
まさに、イエスさまはこのお言葉をもって、ゲッセマネの園での祈り、そして十字架の道を自らお進みになられるのです。
ただ主にのみ仕えて生きる。これこそ主イエスが私どもに示してくださった神の子としてのお姿であり、そこに主によって救いを与えられた私どもの真の依り所があるのです。
世界的な困難が続く今の状況の中で、試みと思える時があっても、主イエスのお姿に倣い、主の御心を真の依り所として今週から始まりました一日一日を大事に歩んでまいりましょう。