礼拝宣教 マタイ5章17-20節
今日は未曾有の阪神淡路大震災から26年目をむかえました。又、3月は東日本大震災から10年目となります。様々な災害に見舞われて今も苦しんでおられる方がたを覚えつつ、祈りと教訓を新たにしてまいりましょう。震災の出来事を風化させることなく、祈り、覚え続けてまいりましょう。
さて本日は「神の救いの完成者」と題し、マタイ5章17-20節より、御言葉を聞いていきます。
この個所は5章から7章まで続く、山上の説教の中の一部分に当たります。小見出しには「律法について」とつけられています。
ユダヤの人々にとって律法は、単なる法律ではなく神に従って生きるための決まり事でした。又、預言者は、神の御心に従って律法を守り行うようにと促し、いましめたのです。それは民が罪を犯して滅びを招くことがないためでした。
イエスさまは、当時の律法学者などからすれば型破りで、その律法をないがしろにしているように映り非難されていました。だから今日のイエスさまのお言葉は意表を突くものであったことでしょう。
17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
この「律法」や「預言者」は先に申し上げたとおりですが。これを旧約聖書とその時代として捉えることもできます。イエスさまは旧約聖書を廃止するどころか、完成するために来られた。しかも18節「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃいます。
ユダヤの社会と生活は律法を重んじ、律法に従うことで成り立っていました。けれど神からモーセを通して与えられた戒めは人の手によって細分化され、数えきれないほどの決まり事になっていったので、だれもがすべてを守ることはできません。
そうなると、それを守る人は守れない人を「罪人」と見なし裁きます。まあ私たちが「罪人」と聞きますと、何か極悪人とか社会的危害を加えた人を思い浮かべますが。ユダヤの社会ではそれら悪事を働いた人と同様に、律法の掟を守ることができない人をも罪人、悪人とみなされたのです。
では、イエスさまは律法をどのように捉えておられたか他のところを見てみますと。
たとえば、マタイ福音書12章で、イエスさまの弟子たちが安息日に空腹のため麦の穂を摘んで食べた時、熱心なユダヤ人たちは安息日に働いてはいけないという掟を破るのかと罪人扱いします。その時、イエスさまは「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。もし、『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』という(旧約聖書)の言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかったであろう」とおっしゃるんですね。律法というものは、そもそも罪のために滅びることがないように戒めるものとして神さまが与えて下さったんです。
イスラエルの民が昔エジプトの地で奴隷のような状態であったとき、主なる神さまが彼らの痛み、苦しみをつぶさに聞かれ、モーセを遣わして出エジプトさせ、イスラエルの民は自由と解放を与えられます。その折、主なる神さまはモーセを介してイスラエルが神の民としての祝福に生きていくため「十戒」をお授けになるのでね。
ですから、そもそも神の戒めは人を断罪したり、優劣をつける目的のためにあるのではないのです。
このコロナ禍でマスク警察という言葉が出ましたけれど。まあ故意に不安感をまき散らす人は論外ですが、様々な事情からマスクができない人、持ち合わせていないという人にとって、冷たい目線は針のむしろ。つらいですよね。様々な法案も上がってきていますが、人のいのちを守ろうという取り組みが、威圧的、強制力となって社会不安や排除につながらないようにと願います。
何度か申しましたが、十戒の多くは~してはならない、という否定命令形のように書かれていますが。実はその原文大本の言葉の本来の意味は、あなたは価なしに神の救いに与ったのだから、自由と解放を得た者として「~しないであろう」との呼びかけなんですね。神の民として救いの喜びにあずかったあなたは、もはやそのように生きるだろう、そのようにはしないだろうと言う、それはもう救いの神さまがどこまでも人と信頼関係を結ぼうとなさっておられるということです。唯、その神さまのいつくしみ、御心に応えて歩んで行きたいものです。
さて、今日のこの箇所にはもう一つ気になります事が書かれています。それはイエスさまがおっしゃった20節、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とのお言葉です。
ここでイエスさまは弟子たちに対して律法学者やパリサイ派の人々以上のものをお求めになっています。律法学者やファリサイ派の人々の義とは、戒めや律法を守るように努めて生きるということです。
律法学者やファリサイ派の人々のように敬虔に律法を守り、神に忠実に生きようと努めることは尊いことであります。しかし、どうでしょう。律法や戒めを守ろうとすればするほど、神の律法の前に如何に罪深い者であるかを思い知らされるばかりではないでしょうか。あるいは高慢になり他者を裁いて偏った考えに囚われてしまうかもしれません。
使徒パウロはローマの信徒への手紙7章7節以降で次のように言います。
「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかった。」
パウロという素晴らしい人であっても、正しく生きようと思えば思うほどそうは生きられない自分を知らされたのですね。
「律法学者やファリサイ人たちの義よりもあなたがたの義まさっていなければ天の国に入ることができない」と言われた、この「あなたがた」というのは言うまでもなく、イエスさまの弟子たち、広くはイエスさまを信じて従うキリスト者のことでありますが。私たちも又、そのパウロのように罪責感に囚われたことが少なからずあるのではないでしょうか。
この山上の説教には今日の箇所の後、律法学者やファリサイ派の人たちの教える義にまさるイエスさまの教えが語られていきます。それはものすごいチャレンジとして迫って来る心情としては到底無理だと思えることばかりです。「腹を立ててはならない」「敵を愛しなさい」「ゆるしなさい」「与えなさい」「裁いてはならない」云々
イエスさまは、本日の5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。なるほど、これらすべてを守ることができるのならまさしく完成形でしょう。
けれどもここでイエスさまは「このようになさねばならない」と、律法学者やファリサイ人と同様厳格に指導しておられるのでしょうか。いいえ、イエスさまの教えは戒律のための犠牲を強いる教えではありません。
それは、この山上の説教の最後の7章の締めくくりといえる12節のお言葉である「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」との、この隣人愛によって完成されるのです。
私たちは神の義と愛を知りました。主イエスが私たちの罪の身代わりとなって十字架におかかりになって裁きを負って下さったことによって、私たちは神の愛といつくしみを知る者とされたのです。このみ救いを知り、与った私たちは唯感謝と喜びをもって、もはや悪から離れ、神の御心に従って生きる者となるであろう。そうです、あの旧約の戒めの神髄と言える神の愛に信頼をもって応える新たな歩みへと招かれているのです。
神の義を満たす唯一の方法として、独り子イエスさまが十字架上で私たち罪の裁きを受け、贖ってくださったその愛に満たされて、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との呼びかけに、主のみあとに倣いつつ従ってまいりましょう。