礼拝宣教 マタイ16章13-26節
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今日は主イエスの十字架の苦難を覚える時節、レントに入って最初の主の日を迎えましたが、本日の聖書はレントにまさにふさわしい箇所であります。
イエスさまと弟子たち一行はフィリポ・カイザリア地方を訪れました。そこはユダヤの宗教家たちから異邦人との境の地とされており、ローマ皇帝をはじめ、バアルの神々、ギリシャ神話の神々などが祀られてきた多神教と偶像に満ちた地でありました。
そこでイエスさまは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」とお尋ねになります。それに対して弟子たちは口々に「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。それは人々が様々な奇跡の業を行うイエスさまの力を、旧約の預言者たちと重ねて見ていたということでした。
けれどもイエスさまを預言者の一人だと言う者はいても、メシア・救い主であると口にする人はいなかったということであります。民衆にとって救世主と呼べるのは、政治的支配による抑圧から解放してくれる勇ましい指導者でした。
柔和で権威的には見えないイエスさまは、民衆の持つメシアのイメージと大きく違っていたのです。
そこでイエスさまは弟子たちにお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」
それは民衆や人がどういっているとかではなく、「あなたにとってわたしは何者か」という個人的問いであります。
ところで皆さま方の中にご家族がクリスチャンであるという方もおられるでしょう。
しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか別の信仰をもっていて、自分だけが教会に行きキリストを信じるようになった、という方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントにも満たないと言われています。
日本では異教的な環境、文化の中でキリスト教と出会い、信仰を守ってゆかねばなりません。それはある意味大変なことです。
聖書は世界のベストセラーであり、世界中の人々に読み親しまれている書物であります。
けれどキリスト教圏ではない日本の人がやっと聖書のページを開いても一人ではなかなか読めるものではありませんし、「じゃあ、あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という、まさに聖書の中心的な問いかけに対して、答えを持ちあわせている人は実に少ない、極少数というのが現状ではないでしょうか。
世間がどうこう言っているキリスト教、本や参考書に書かれているような一般的な解説ではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか?」というイエスさまと私との個人的な関係性への問いが、異教的な文化の中で暮らす私たちにも同じように投げかけられています。
さて、今日のところではイエスさまのこの問いに対してシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。ペトロは「あなたは救い主であり、生きておられる神の御子であられます」と、そう言い表したのです。
するとイエスさまはペトロに答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
イエスさまはペトロを幸いだと祝福します。しかしこのことを現わしたのはペトロの理解力や知性によるのではなく、天の父によるのだとおっしゃるのです。
ペトロはイエスさまが実際どのような形でメシアとしての御業を成し遂げられるのか、この時点でまだ知るよしもありませんでした。
ペトロもまた、イエスさまがそのうち偉大な力と業でユダヤの民を解放してくださるという期待をもって従っていたのです。
それは次の記述からもわかります。
21節「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることになっていると、弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。
それはあってはならない、メシアであるあなたがそんなことになるなんてありえない、と言うのです。
ところが、イエスさまはそのペテロの方を振り向いて言われます。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず。人間のことを思っている。」
ペトロはこのイエスさまのお言葉にきっと動揺したでしょう。なぜそんなことをおっしゃるのか、わからなかったでしょう。
ペトロはまだイエスさまのお言葉を聞いても、どのようなあり方で御神の救いのご計画が成し遂げられるのか理解できなかったからです。ペテロがそれを知ったのは十字架の後の復活の主イエスと出会ってからです。
ペトロはその時になって初めて、主イエスがメシアとして「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」とお語りになった神のご計画とその御救いを理解できたのです。
今日のところではまだそのことがわからなかったペトロでしたが。しかしイエスさまはペトロの「あなたこそ生ける神の子キリスト」という信仰告白に対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。
あなたは「ペトロ」。それはアラム語で「ケパ」、岩という意味です。
福音書を見ますと、ペトロは岩と呼べるほど不動の人、堂々とした人であったかというと、そうではありませんでした。むしろ、そそっかしく、突飛おしもないような言動もあるいわば人間らしい人でした。そして十字架を前にして、イエスさまを置去りにし、否み、後悔と自責の念にかられ、自分の弱さをさらすほかなかったペトロ。
彼は神の前で如何に自分が不完全なものであるかを思い知らされ、打ち砕かれます。けれど、それだからこそ神の救いの愛と恵みの深さを知り、岩のような信仰、主への愛をもって福音を分かち合う者とされていったのです。
教会はまさしく、神の前に心砕かれた者の群れです。だからこそ、主に救いを見出し、「主イエスこそ生ける神の子、キリスト」と互いに信仰の告白をなすそのような私たちの上に、主は教会を建てられているのです。
私たちの教会堂正面右側の壁面には「定礎 マタイ16章18節」と刻まれてありますが。時は移れども、この主のゆるしと愛を心に刻んでまいりたいものです。
さて、本日の箇所には、もう一つ大切なメッセージが語られています。
24節、それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
同じマタイ福音書の10章のところにも、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とのイエスさまのお言葉が記されています。
この「自分の十字架を担う」とは、どういう事でしょうか。
イエスさまは、私たちが意識、無意識に拘わらず神と人に対して犯した本来は断罪されなければならない咎や罪を、主イエスが大きな苦しみと痛みを代償にしてゆるし、贖いとってくださった。それが主イエスの十字架です。
この主の十字架によるゆるしと贖いの恵み、その愛を忘れることなく、主イエスに学び、そのお姿に倣って生きる。それが自分の十字架を背負うということではないでしょうか。
同じマタイの11章28節以降のお言葉には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。
イエスさまは無条件で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいます。なんとありがたいことでしょう。
しかしイエスさまのくださる休みは、続きをよく読みますと「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。そうするときに与えられるとおっしゃるのです。
軛というのは牛舎を引かせ、畑を耕す際に家畜の首にわたす横木のことですが。2頭いればその首にこの軛をわたして働かせるのです。
何だ軛を負って働くのなら、ちっとも休みにならないと思われるかもしれません。けれども大切なのは、この軛が柔和で謙遜な主イエスとつながれ一緒だということです。
「柔和で謙遜な者」というのは「低みにおかれ、苦しみを与えられている者」という意味です。それは私たちの救いのために咎や罪を負わされ、あざけりと暴力をうけ、十字架にかけられているイエスさまであり、その主イエスが、疲れて、へとへとになって、あるいはどうしようもなく重い問題と状況につぶされそうな私、私たちと軛を共にしていてくださる。生きる労苦を共にしてくださる。
この主の愛の中で私たちは、ほんとうの安息を得ることができるのではないでしょうか。
また、イエスさまのご生涯とそのお姿に学びつつ生きる時、ほんとうの平安、安らぎを受ける私たちではないでしょうか。
今日の「自分の十字架を負って」という御言葉は、単に苦しみを負えとか、我慢しろという根拠のない無理強いではありません。主イエスご自身がその生涯をかけた究極的寄り添い、まさに同伴者なるキリストが私と軛を共にし、十字架を担っていてくださるのです。
主のご受難を覚えるこのレントの期間、より深く御神の愛と招きの言葉を覚える平安に満ちた歩みとなりますよう、お祈りいたします。