礼拝宣教 ヤコブの手紙1章19~25節
本日より礼拝では4週に亘ってヤコブの手紙から御言葉に聞いていきます。
この手紙の著者はイエスさまの実の兄弟であり、エルサレム教会の働きのために仕えていた長老のヤコブだろうと言われてきました。しかし研究が進む中で、その長老ヤコブの死後、ヤコブの影響を強く受ける者が書いたのではないかとも言われています。又、この手紙の書かれた年代についても、使徒パウロや長老ヤコブが迫害の中で殉教の死を遂げた後に書かれたというのが有力です。
いずれにしてもこの手紙は1章の冒頭にありますように、激しい迫害よってユダヤから「離散せざるを得なかった主の民であるキリスト者」に向けて書かれたものであります。彼らが散って行った先々のそのおかれたところでしっかりと信仰に踏みとどまり、信仰の養いと実りを得て、キリスト者として生き抜いていくことをこの手紙を通してこの著者は強く訴えているのです。
ある注解者は「ヤコブの手紙全体が108節ある中で、その半分の54節が命令形で書かれている」と指摘しています。著者にとってそれだけ強く訴えなければならないような危機感があったからなのでしょう。
本日はその1章から御言葉を聞いていますが。ここでは、離散し移住した地、その異邦の地において、信仰が試されているキリスト者に向け、試練を耐え忍ぶ人の幸いと誘惑に打ち克つ勧めとが説かれています。
私共も、心ならずも礼拝に集い参加することの困難な状況が繰り返されています。それぞれの生活の中で霊的な飢え渇きとともに、神の愛から引き離そうとするような世の力や働きにの吞まれてしまいそうになることがあるかもしれません。今を生きる私たちに向けた神からのメッセージとして真摯に受け取っていきたいと願います。
それでは先ほど読まれました箇所から御言葉に聞いていきましょう。
ヤコブはまず19節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と命じています。
まあ、ここを読みますと、これは自分自身のこととして心に刺さります。自分の予定や考えが先にきて相手の言葉を落ち着いて聞けなかったり、何気なくつい口走ってしまったことに後で後悔したりします。
特に怒りの感情がぼおーと燃え上がりますと、理性をコントロールすることは大変難しいことです。
「話すのに遅く」に対しては、旧約聖書の知恵の書である箴言に「口数を制する人は
知識をわきまえた人」(17:27)「秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな」(20:19)とあります。さらに「怒るのに遅いように」については、コヘレトの言葉に「気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの」(7:9)と耳が痛くなるような指摘の言葉があります。
そしてヤコブは、「人の怒りは神の義を実現しないからです」と述べます。
ユダヤの人々が「神の義」と聞くと、まず頭に浮かぶのは「神の律法と戒め」です。そして律法は「神への愛と隣人を自分のように愛することに要約される」と教えられています。「人の怒りはその神の義を実現しない」(20節)、ということです。
一方で「義憤」いう言葉があります。正義の義に憤りと書きますが。それは真の正しさ、正義が脅かされ、侵害されることに対する憤りです。
あの柔和なイエスさまが「憤られた」場面がいくつかあります。その中でも特に思い浮かんできますのは、「主イエスの宮清め」と言われる箇所です。神に捧げる犠牲の献げものに法外な値段をつけて貧しい人たちからお金を騙し取っていた神殿の商人たちをイエスさまは追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒され、次のように言われました。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである、ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と。それは彼らが貧しい人たちの信心を食い物にしていることへの義憤を露わにされたのです。
イエスさまご自身はその祈りの家において、目の見えない人や足の不自由な人々を深く憐れんで、おいやしになり、罪に悩む人にゆるしと解放の宣言をなさったのですね。神の正しさにおける憤りは、人を真に生かし救うのです。
このヤコブの手紙のいう「怒り」は、利己主義や身勝手さから起こる感情であることを押さえておく必要があります。
ヤコブはさらに21-22節で、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と命じます。
ここに「心に植え付けられた御言葉」とありますが。それは言うまでもなく主の福音を私たちが聞き続け、心にとめ、反芻してきた、その神の言葉です。
よく知られているイエスさまの種まきのたとえ(マタイ13章)があります。
種は神の言葉であり、土地は私たち人間の心です。このたとえでイエスさまは4種類の人間の心を描写しています。御言葉を聞いても、素直に受け入れない道端の心。御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、深く根をおろせないためすぐに枯れてしまう石地の心。御言葉を聞くが、世の中の心遣いと富の惑わしにふさがれて実を結ぶことのないいばらの心。そして、御言葉を聞いて耕され、柔らかくされた心で素直に受け入れ、光と水を日ごと注がれて実を結ばす良い地の心であります。
ヤコブは御言葉を受け入れる人として、「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去りなさい」と言っています。これは自分の力や業で除き去るということはなかなか出来るものではありません。「素直」にとあるのは、日ごと主の御前にあって自分の罪深さ、至らなさに気づかされ、悔い改めと主の十字架の救いを確認して与り、感謝と決意をもって御言葉に聞き従っていくことであります。心かたくなに自分を正当化するなら、それはもはや主の愛も救いも御言葉も締め出しているのです。
ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけません」と指摘します。
「御言葉を聞いて行うこと」については、イエスさまが「家の土台」のたとえ(マタイ7章)で次のようにおっしゃっています。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである。」
信仰とは降って湧いてそれで終わりではありません。信仰とその証しの人生は建て上げられていくものなのです。私たちは何を土台として自分を、その人生を建て上げていくのでしょう。御言葉です。そして、「御言葉を聞くだけでなく、御言葉を行う人」、それを実践して生きていく人は、人生に必ず起こって来る雨の日、風の日、嵐の日にも倒れないと、主はおっしゃるのです。
23-24節「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に
映して眺めるのに似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのような顔であったのか、すぐに忘れてしまいます。」
当時の最も良い鏡は青銅で作られていていたようです。それでも銅製ですので自分の姿ははっきりと映らなかったようです。
ヤコブは御言葉を聞いて行わない者について、青銅の鏡の前での自分の姿のように、どんなに素晴らしい聖書の御言葉を聞いても、実生活で一つも思い出さず自分のこととして心にとめないのなら何になるのか。せっかく御言葉を聞いても、実際の生活に活かされていないのなら、いろんな試練や誘惑の雨風に押し流されてしまう。神の救いを必要としているその自分の姿さえを見失い、罪の働きのもとでさまようことになる、と指摘しているのです。
25節「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」とあります。
「自由をもたらす完全な律法」。マタイ福音書5章でイエスさまは、律法について「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃっています。先にも申しましたが、その律法の柱は「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことにあると、おっしゃいました。イエスさまはそれを聞くだけでなく、又おっしゃるだけでもなく、その神の愛と隣人愛を行われました。まさに十字架の上でその御言葉を体現なさったのです。私たち人間にご自身を献げるまでに愛しぬかれる生ける御言葉、主イエス・キリスト。このお方こそ、「自由をもたらす完全な律法」です。このイエス・キリストを一心に見つめ、これに聞き従う者は「その行いによって幸せになります」とヤコブは言うのです。
主イエス・キリストと出会い、主を信じ従って生きる決意を表明した私たちキリスト者は、世にあって罪の力や働き、いざないがあっても、罪の滅びに打ち克つ信仰を頂いています。それはまさにどんな時も、どのような事があっても主に聞き、主に従う証しの日々、「命の御言葉を生きる」ところに私たちの幸い、祝福がある。それは御言葉の真理であります。
最後に、本日は「命の御言葉に生きる」と題し、聖書に聞いてきました。ヤコブは「御言葉を行う者になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と命じています。地上でのご生涯、その歩みを全うなさり、自由をもたらす律法の完成者となられたイエス・キリストを一心に見つめつつ、今週もその命の御言葉を生きるものとされてまいりましょう。