礼拝宣教 ヤコブの手紙3章13~18節
インターネットの普及で某サイトに「知恵袋」というものがあります。何か困ったな、と思った時、この知恵袋に尋ねてみると、いろんな人からの知恵が寄せられてくるというものです。私も時々利用させて頂いていますが、皆さんの中にも「知恵袋」を使った方もおられるかも知れません。その知恵袋について、これも知恵袋からですが次のようにありました。「『おばあちゃんの知恵袋』という本が出版されました。内容は、おばあちゃんが知っている衣食住の様々な経験上のノウハウを披露するというものでした。 昔は何世代もの世帯が同居しその間に様々なノウハウを伝授されていましたが、現在のような核家族では教えてもらう相手さえおりません。それらのニードにこの本がマッチし、大変好評を博しました。おばあちゃん的存在としてインターネットで気軽に教えてもらえる仕組みを『知恵袋』と名付けたようです」とありました。
専門知識ばかりでなく、先人の知恵や人の体験や経験から出てくる知恵ってとてもゆたかですよね。そうして得た知恵を自分のためだけだけでなく困っている人やどうしたらよいのかわからない人と共有し、生活に活かしていけるとしたら素晴しいですよね。
さて、本日は聖書が示す知恵についてのお話であります。
先ほど読まれました3章の箇所には「上から出た知恵」と言うことが書かれていますが。他の聖書、柳生直行さんという方が訳されたのは「天から下ってきたほんものの知恵」という言葉です。「天から下ってきたほんものの知恵」。ヤコブはこのいわば「天来の知恵」について次のようにいっています。
13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」
聖書のほんものの知恵はそれにふさわしい柔和な行いと立派な生き方によって証明されるということです。この「柔和な行い」というのはどういうものでしょうか。それは態度や性格が優しく穏やかであるということだけでなく、「謙遜」や「謙虚」なあり方を表わします。自分に知恵があり分別があると思っている者がいるなら、クリスチャンのそのような柔和な行いや言動、また立派な生き方によってこそ、それがほんものであることを示しなさいと、ヤコブは言っているのです。ヤコブがわざわざそのように言ったのは、教師や指導者、又そのような立場を志そうとする人たちに、そのあり方を今一度自己吟味してほしいと願ったからです。それは3章の始めのところに「あなたがたのうち多くの人が教師となってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることなると、あなたがたは知っています」と記しているとおりです。主イエスも公の場で先生と呼ばれることを好む人たち、又人に教えてもその行動が不正と偽りに満ちている人たちを非難され、弟子たちには「あなた方は先生と呼ばれてはならない」と注意を促されました。
ヤコブはここで、続けて「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」と言っています。「わたしたちは皆」というのですから、ヤコブほどの人であっても言葉による過ちを犯し、又どんな立派に思える人も過ちを犯すことを見てきたのでしょう。だから「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分を全身で制御できる完全な人です」とまでいうのでしょう。いや耳が痛いです。私自身も幾度となく「言葉による誤りを犯してきた者である」ことを深く悔い改めないわけにはいきません。日々御言葉の教えによって気づかせて頂く以外ない者であります。クリスチャンとされたのだから過ちを犯さない、というのは高慢なことです。日々、主のみ救いがなければ、如何に救い難い者であるかということを覚え、謙遜な者とされたいと願います。
さて、ヤコブは教会の中で、自分は知恵があって賢いと誇り、高ぶっていた人たちに対して、次のように指摘します。
14-16節「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的あるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」
人を見て人と比べ、良く思われたい、認められたいと思うと、ねたみや利己心から人は罪を犯します。「それは正しくないよ」という良心の声に逆らい自己正当化して、自分と他者をおとしめてていくことにもなります。
ヤコブは「そのような知恵は上から出たものでない」、正確に原語に沿えば「上から下って来るのではない」と訳されます。(口語訳、岩波訳、岩隈直訳)
その知恵は第一に「地上的もの」、第二に「この世的もの」、正確にはサルクスという原語に沿えば「肉的もの」です。第三に「悪魔的もの」だとヤコブは言います。特に三つ目の「悪魔的な知恵」とは、偽りと欺き、そして自分と相いれない人を排除するための謀略に満ちた知恵のことを示しています。排除や分断を招く利己的知恵は天からのものではなく悪魔的な知恵だと、厳しい言葉ですが、ヤコブは強く戒めます。
それでは、この「上からの知恵」とはどういうものかを具体的に見てみましょう。
第一は「純真」。それは不純や邪念、私欲がなく、きよらかなものということですが。クリスチャンはもとより自分の中に罪を認め、主の信仰に与ったものであります。その信仰に生きており、きよさが上より与えられます。命があります。主は全ききよさをもって私たちに臨み、日々主とつながって生きる続けるように招いておられるのです。そこに純真という上からの知恵が与えられているのです。
第二は「温和」。原語に沿えば「平和的」とも訳せます。それは神と人間の正しい関係。又人間と人間の正しい関係であります。党派心や分断は世から出たもの、肉から出る知恵ですが、ほんものの知恵は私たちを神に近づけ、人間同士を互いに近づけるものです。平和を造り出す者は神の子と呼ばれる。そのような「温和」という上からの知恵が与えられています。
第三は「優しさ」、それは「寛容」とも訳せます。自分がそうして欲しいと願うことを、他の人にも配慮をもって行うことです。主がゆるしてくださるからゆるす心が生まれます。主が愛してくださるから愛す心が生まれます。福音の喜びが私たちをおおらかにしてくれます。このような「寛容」という上からの知恵が与えられています。
第四は「従順」。これは「温順」とも訳せます。喜んで聞き、それに懸命に応じる態度です。しなければならない、ではなく恵みに対して喜びをもって応えて生きる。いうことを聞くではなく、最善をなしてくださる主に信頼して従う。温順の温かいは、そういった信頼や安心のもとに従うということを言っているのです。温順という上からの知恵が私たちに与えられています。
第五は「憐みと良い実」。主の御憐みによって救われていると知っている者は、苦しみ、悩んでいる人の思いに共感し、寄り添う者とされていくのです。
第六は「偏見がない」こと。主が人を分け隔てなさらず、人を愛されたことを知り、体験して、人を偏り見、人を差別することの愚かさに気づきます。
第七は「偽善的でない」。主イエスの教えはいつも心の根までも問われます。表面的な取り繕い、偽善は神の前には明らかです。
このように、上からの知恵は単に知識をもっているということではなく、文字通り主から与えられた知恵なのです。
「上からの知恵」とそうでない「地上的な知恵」「肉的な知恵」「悪魔的な知恵」の業とその実に明白な違いがあることがわかりますね。
だれでも賢く生きていきたい。立派な人生を送りたいと願うものです。確かに人間の倫理としてそのように努めて生きることは尊いことです。しかし先に見ました「この上からの知恵」は倫理ではありません。倫理は人が判断し、良かれと思う者であるがゆえに、時代や社会の状況によって変化するため、時に自分と人を失望させます。それに対して上からの知恵は使徒パウロが記したコリント一13章の愛の賛歌と重なるところが多いように思います。そのコリント13章の「愛」のところにキリストの御名を入れてちょと読んでみますね。「キリストは忍耐強い」「キリストは情け深い、妬まない」「キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず」、真実を喜ぶ。キリストは全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
今日のこの「上からの知恵」も「知恵」のところに、キリストの御名を入れて読みますと、「上から出たキリストは、純真で、更に、キリストは温和で、優しく、従順なもので、憐みと良い実に満ちています。キリストは偏見はなく、偽善的でもありません。このキリストこそ、天から下ってきたほんものの知恵なるお方であることがよくわかります。先に「上からの知恵」の7つの特性について触れましたが。主イエス・キリストこそ、この知恵を体現なさった方であり、私たちはこのキリストへの信仰、すなわち主を信じ、仰ぎつつ倣い、従うことによってそのご性質に与る者とされるのです。
最後に、18節にありますように「義の実は、平和を実現する人たちによって平和のうちに蒔かれるのです。」
この平和は先ほども申しました神と人との正しい関係、又人間と人間との正しい関係であります。その関係性を造り出そうとする人、この地上に実現しようと努める人によって、義の実は蒔かれ続けるのです。その尊い務めのために、私たちも又「上からの知恵」、「天来の知恵」を賜っているのですね。ヤコブの時代も、そして今も、様々な世の力が働き地上的な知恵、肉的な知恵、悪魔的な知恵が神との関係、人と人の関係を激しく揺り動かしています。天来の知恵である主イエス・キリストにあって義の実を結ばせる種を蒔く者としてクリスチャンは立てられているのです。主は平和のうちに義の実を実らせる種を蒔き続ける者として心新たに、御言葉の招きに応えて今週もここから遣わされてまいりましょう。