礼拝宣教 ヤコブの手紙2章1~13節
先週は残念なことに、スペインの有名サッカークラブチームのメンバーがアジア人に対して蔑視する動画をSNSで投稿していたというニュースが報じられました。多様性が尊重されてきたはずの現代にあっても一向に差別はなくなりません。差別は創造主なる神の御手をもって造られた人の尊厳を侵し、貶める行為です。それは差別する側自身の尊厳をも貶めているのです。
本日は先ほど読まれました2章の箇所から「人を分け隔てする罪」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
ヤコブは1節で「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と命じます。
イエス・キリストを救い主として信じる者は、この地上にあって主の栄光をいつも仰ぎ見つつ、歩む者とされています。その主ご自身は人を分け隔てなさらないお方でした。
ヤコブは2節で「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」と、このようにただします。「誤った考え」というのは、見た目や肩書きだけで人を判断するということですね。この当時のヤコブが手紙を宛てた教会には、貧しい人々が多かったようですが。一方で、金の指輪をはめた立派な身なりの富んだ人も礼拝の場に訪れていたのです。
ヤコブは「あなたがたは、自分たちの中で差別をし」と言っていますが。ほかならぬキリストの教会の神の栄光を信じ望むものたちが、この世の栄光を重視して人を分け隔てしている光景を彼は礼拝の場で目にしていたのです。
ヤコブは差別することが「誤った考えに基づいて判断を下した」ことになると語ります。
この「判断を下した」の原語の本意は、裁判官になった、判決を下した、ということです。それが誤っているのですから、誤った考えに基づいた判決を下している、ということです。
当時ローマが管轄していた裁判所・裁判官の大方は、富む者、裕福な者に有利な判決を下していたと言われています。そこには利権がからんでいました。そして世に富む者、裕福な者は社会的に自分より貧しい者を賄賂で都合のいいように裁判所に訴えることができたのです。しかし貧しい者は裕福な者の不正を訴えることができなかったのです。
ヤコブは「あなたがたは、貧しい人を不当に辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所に引っ張って行くではありませんか」と語ります。つまり貧しい人を分け隔てしたこと、見た目や肩書で偏り見たことは、富める者が不当な告発をして裁判所へ引っ張って行くのと同じことだ、と指摘しているのです。
そうですね。不当に訴えられて裁判所に連れていかれて有罪判決を受けるとは理不尽です。同じように、差別というのは全く不当で人に苦痛を与えるものです。
ヤコブはさらに7節「また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」と言います。「あなたがたに与えられたあの尊い名」とは、主イエス・キリストの御名のことです。
主イエスは、どんな立場の、どんな状況にある人にも手を置いていやし、罪のゆるしの宣言をもって神のみもとに招かれました。今もそうです。人を分け隔てすることは、とりもなおさず主イエス・キリストの御名を汚すことになる。ヤコブは教会の「あなたたち」も又、人を分け隔てするのであれば、彼ら不当に人を貶めようとする者らと、同様というのです。
ヤコブは5節で次のように語りかけています。「わたしたちの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者とされたではありませんか。」
ここには「神の選び」の計画と祝福の約束が説かれています。それは貧しい者の救いと祝福によって神の恵みの業が証しされるというご計画です。
ヤコブが手紙を宛てた教会では、ユダヤ人も異邦人も共に礼拝を捧げていましたが。ユダヤ人には神の選民という誇りがありました。信仰の父祖アブラハムの祝福の約束を受け継ぐユダヤの民、その一つの基となる申命記7章6—8節にはこう記されています。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに。」この主の愛は、憐みといつくしみの愛です。
主がユダヤ人たちを宝の民として選ばれたのは、彼らが誰よりも優れて立派だったからではありません。彼らはむしろ貧弱で憐みを受けるほかない存在でした。ただその彼らを主は愛しご自身の宝の民とされたのです。そして今や主イエス・キリストによって異邦人である私たちもその祝福に接ぎ木されたのであります。いずれにしましても、ユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者も又、主の前に何も誇れるべきものがない。罪と世の力に滅ぶほかないような者であった。
しかし、神はその憐みのゆえに御子イエス・キリストを罪を贖う供えものとして十字架に送り、その血潮をもって滅びから免れさせ、ご自身の宝の民としてくださったのです。
もはやそこには分け隔てはなく、どんな人も、神の祝福のうちに招き入れられているのです。この神の救いは、人の血筋、人の能力、人の地位、人の業績といった人が誇りとするようなものによるのではありません。逆に、如何に自分が主イエスの救いがなければ神の御前に到底立つことのできない者であるかを知る者に与えられた神の一方的恵みなのです。この神の憐みによる選びは今も変わることはありません。
8-9節で、ヤコブは次のように語ります。「もしあなたがたが、聖書に従って「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行するなら、それは尊いことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。」
この「隣人愛」は最高峰の律法の一つでありますレビ記19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を基としたものであります。律法の根本精神であります。主イエスご自身「律法と預言者はすべてこれにかかっている」と言われました。また、使徒パウロはローマ13章10節で「愛は律法を全うするのです」と語っています。
ヤコブは、どんなに努力して「律法全体を守ったとしても、一つの点におちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となるのです」と、極端とも言える例を出しますが。それ程差別というのは人殺しと同じぐらい人を不当に痛めつけることと言いいたかたのかもしれません。いずれにしましても、ここで「隣人愛」が問われているわけです。
祈祷会の聖書の学びの時にも出ましたが。福音書に律法学者やファリサイ派の人々が主イエスを試し、訴える口実を得るために姦通の場で捕らえられた女性を引っ張ってくる場面があります。その時に主イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われるのです。すると、それを聞いた者は年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきます。長く生きてきた者ほど自分の胸のうち、罪深さをさぐられたのです。
主イエスはこの女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたとあります。
このゆるしと憐みにあって罪に打ち勝って生きるようにと、主イエスはお奨めになられたのですね。ここが主イエスのすごいところです。神の正しさを担われつつ、神の憐みによって人を生かす。主イエスはまさにここで、隣人愛無き律法の虚しさと、神の愛、憐みによる救いこそ人を生かす律法の本質であることをお示しになられるのです。その集大成こそが、神の義と愛による救いの宣言、贖いの十字架であったのです。
12節「自由をもたらす律法によっていずれ裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。」この自由をもたらす律法こそ、主イエス・キリストなのです。
十字架の愛の主のみまえに立ち得るか、主の救いに与った私たちは問われています。
ヤコブは最後に言います。13節「人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです。」
キリスト者となって信仰生活が長くなりますと、自分が主の憐みによってのみ救われたということを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。改めてその主の憐みと救いとを思い起こすとき、人の立場や弱さまでも思いやることのできる者とされるでしょう。 「憐みは裁きに打ち勝つ」。私たちに与えられた信仰の恵みの賜物は、ただ主の愛、憐みによって与えられたという原点に立ち返って、喜びと感謝をもって主に仕え、あらゆる人たちとその恵みを分かち合っていくべく、主イエスにある信仰の真の勝利をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。