礼拝宣教 マルコ13章32~37節
この13章の始めで、エルサレムの神殿を目の当たりにした主イエスの弟子の一人が、「ご覧下さい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と主イエスに言います。すると主イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)とおっしゃいます。
この主イエスのお言葉を聞いた弟子はいったい何のことを言われているのかと、ちょっと不安になったのでしょう。主イエスに、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんなしるしがあるのですか」と、尋ねます。
すると、主イエスはその弟子たちの質問に対して、終末、世の終りを前にして起こる数々の諸現象や苦難についてお語りになります。「キリスト(救い主・メシア)の名を騙る者が大勢出現するので、「人に惑わされないように気をつけなさい」。又「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるにきまっているが、まだ世の終りではない。民は民に、国は国に敵対してたちあがり、方々に地震があり、飢餓が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」とも仰せになります。
まあそれらは歴史の上で幾度も繰り返し起こってきたことであります。近年強いリアリティーをもって響いてまいります。けれども大事なのは、「そういううわさを聞いても慌ててはならない」「まだ終わりではない」(7節)ということであり、その結語として「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)とおっしゃっていることです。キリストと一対一の関係性こそが重要なのです。
24節以降においては、その終末についての核心を主イエスは次のようにお語りになります。
「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。
終末や世の終りというと人類の破滅や滅亡の絶望的状況ばかりが頭に浮かんでくるかも知れません。しかし聖書は、その時こそキリストは再びお出でになり、神の支配と権勢が現わされるというのです。ここにキリストにある希望が語られているのです。
かのすばらしい石で築かれたすばらしい建物、エルサレム神殿は、それから数十年後の「ユダヤ戦争」におけるローマ帝国によって主イエスのお言葉どおり、石の上に石が残ることがないほど壊滅し、ユダヤの民は離散することとなってしまうのであります。
さて、本日の箇所は32節以降の世の終り、主の再臨の日時について主イエスが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(主イエス)もしらない。父(神)だけがご存じである」と仰せになったところからでありますが。
ここで最も強調されているのは、「目を覚ましていなさい」という事であります。主イエスがここで「目を覚ましていなさい」と4度も繰り返し強く命じられている、それはいったいどういう意味があるのでしょう。
そのことを説明するために主イエスは例話をお用いになります。
34節「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておいたようなものだ」。
「家の主人」は主イエス。「旅に出て」とは主イエスが地上の御業を成し遂げられて天に昇られたことを意味し、その間、僕たちや門番である聖徒たちは家の主人が再び帰って来るまで、それぞれの任務を託されます。
ところが、いつ家の主人が帰って来るのかわかりません。夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、それはわからないのです。目を覚ましていなければ「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」と、主イエスはおっしゃいます。
この例話から「世の終り」すなわち「主の再臨」についてのポイントが2つあります。
1つ目は「その日、その時は誰も知らない」という点であります。
驚きますのは、主イエスは「その日、その時は『子』も知らないと。つまりイエスさま御自身ですら知らないとおっしゃっているのです。
先日ニュースで、海底火山の爆発はこれほど科学が進歩してもまったく予想がつかないと言っていましたが。この終わりの時は、だれしも、イエスさまであってもわからないのです。
先のところでも、世の終りの前兆、しるしとしてキリストや救世主を騙る者が多く出現するので、人に惑わされないように気をつけなさいと、主イエスは言われていますが。ここでも主イエスは最初に、「気をつけて、目を覚ましていなさい」とお命じになっています。
それは、如何に世の終りの前兆と思えるような事があったとしても、まず一人ひとりが主の御前にあって、主を見失うことのないように気をつけて、目を覚ましているように努める、ということなのであります。
2つ目のポイントは、「その日、その時」が「夕方」「夜中」「鶏の鳴くころ」「明け方」とあることです。その4つの時間帯に日中はありません。これは夜を4つに分けたローマ式の時間配分だそうですけれども。まあイエスさまの住まれたユダヤの日常において、旅行者たちがそんな暗い中に帰宅することはまずないことなので、本当におもいがけない時に帰って来られるということを言い表しておられるわけです。
では、それならばずっと目を覚まして生き続けなければならないのか。いつも緊張し続けていければいけないのか。それはしんどくて疲れると、思われる方もおられるかもしれません。
けれど人生の暗闇の夜に思える中で、やがて主なるイエスとお会いできる時を思うとき、その信仰によって私たちは世にはない希望を見出すのです。
本日は後ほど主の晩餐がございますが。主が再びお出でになるまで、キリストのからだなる教会は代々に亘り、その主の救いの希望に対して目を覚まして記念し続けているのであります。
私は今日のこの箇所から、文字通り「目を覚ましていなさい」という宣教題をつけました。復活の主イエスは今、天に昇られておられますが。私たちに主の霊、聖霊をお送りくださり、時空を越えて、私たちとつながり、共にいてくださるお方なのであります。
やがて来るべき主の日、主と顔と顔を合わせるその日を待ち望んでいる私たちにとりまして、その日に向けた1日1日が、すでに終末であり、その希望に生きることができるのです。
主イエスは、最後に弟子たちにこう言われます。
37節「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。
この主イエスのみ約束とみ教えは、世界中のすべての人、この日本に住む私たちにも与えられた大いなる希望なのです。
先にS・Kさんの証しを伺いました。ウルグアイにおいて救われ、遠い異国のこの日本に住む人たちと主の福音を分かち合っていきたいとの、宣教のビジョンをもって誠実に歩んでおられる姿に本当に励まされています。
私たちも日々主のみ教えに聞き、たとえ人生の暗闇の夜におかれましても、目を覚まして、どのような時も主が共におられる希望の信仰を戴きつつ、歩んでまいりたいと願うものです。