礼拝宣教 マルコ9章14~29節
本日はマルコ9章14-29節の御言葉から聞いていきます。
ペトロとヤコブとヨハネの3人を連れて高い山に登っていた主イエスが他の弟子たちのいるふもとに戻って来られます。すると、待っていた弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していました。群衆は皆、主イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶します。
主イエスが「何を議論してしているのか」と、弟子たちと律法学者たちに尋ねますと、彼らではなく、悪霊に取りつかれた息子の父親が代わりに答えます。
彼は息子のいやしを求めて主イエスのもとを訪ねたのですが、肝心の主イエスは山に登られてそこにおられなかったので、残っていた弟子たちに悪い霊を追いだしてくれるようにと願ったのですが、この時弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったのです。
この時はと言いますのは、その前の3章にありように、主イエスは弟子たちの中から12人を任命し、「彼らを自分のそばにおくため、又派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる(3:14-15)のであります。実際その遣わされた村々で弟子たちは主イエスから受けた権能をもって多くの悪霊を追い出すのです(6:12-13)。けれども今回それができませんでした。
そこで、そこに居合わせた律法学者たちが悪霊を追い出すことができなかった弟子たちに議論をふっかけ、あわよくば主イエスなど信用できないと群衆を説得しようとしたのかも知れません。
律法学者たちから議論をふっかけられた弟子たちは、自分たちには非がないことを主張し、自分たちの正しさや立場を守ろうとすることに必死であったのではないでしょうか。山からお帰りになられた主イエスのことなど気づくことなく、ひたすら律法学者たちと議論に熱中していた弟子たちがそこにいました。そこには悪霊を追い出すことが出来たというような自分の経験を誇りたかぶり、頼みとしていたからです。その周りにいた群衆は、山から帰って来られた主イエスを見つけて駆け寄り、挨拶したとあります。そのひたすら主イエスにより頼もうとする姿は、弟子たち対照的でした。
さて、ここで父親の説明をお聞きになった主イエスは、「なんと信仰のない時代なのか」と投げかけられます。
それは、その場にいた人たちみながそれぞれの立場で問われることであったでしょう。それは私たちも又、そこにいた人同様問われているのです。
その根本的な問題は「信仰がない」ということだと、主イエスは指摘されます。
弟子たちはさぞかしドキッとしたことでしょう。けれどもその次の主のお言葉にこの親子だけでなく、弟子たちも救われるのです。それはさらに私たちも又救われるのであります。「その子をわたしのもとに連れてきなさい.。」
1月23日の礼拝では、ユダヤの地で5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人たちを主イエスが養われた記事(6章)を読みました。さらにその後、今度は異教の地において7つのパンと少しの魚で4千人以上の人たちを主イエスが養われた(8章)記事が続きます。僅かなパンと魚とを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて配るとみんなが満腹し、残ったパンの屑をかごに集めてもまだ有り余るほどあったあった、その主イエスの養いの出来事を弟子たちは目の当たりにします。
そして、その直後の8章14節以降に記される、次のようなエピソードが報告されています。
「弟子たちはパンをもって来るのを忘れ、舟の中には1つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められます。ファリサイ派やヘロデのパン種とは、人の力を誇りそれを頼みとする高慢と言ってもよいでしょう。そのような人間の罪を膨らます思いにあなたがたは気をつけなさいと、おっしゃっているのです。
ところが、弟子たちは「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。まあ、弟子たちはそのファリサイ派やヘロデのパン種の意味する事がわからなかったのです。本日の箇所においても、悪霊を追い出すことが出来なかった弟子たちは律法学者たちと議論し合っていますね。
イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのかと、これまた嘆かれるのですが。主イエスはここでも忍耐強く弟子たちを諭して、「覚えていないのか。わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは『12です』と言った。『7つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか』『7つです』と言うと、イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた」。そのように主ご自身をとおして顕される神の御業に信頼するようにと導かれるのです。まさに主イエスへの信仰が問われているのです。
「自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」弟子たちの姿は、本日のところでも、主イエスがそばにおられるのに気づきもせず議論に熱中しているというように、何ら変っていないのです。どれほどの体験をしても、たとえしるしを目にしたとしても、人は弱く目の前の状況に揺れ動かされ、流されてしまいやすいものなのです。自分の力、自分の知識、経験、持てるもので何とかせねばともがき、泥沼でもがけばもがくほどずぶずぶと沈んでいく、それが私たち人間です。そのような私たちに主イエスは愛と忍耐をもって、固く信頼するようにと諭し、招いておられるのです。その恵みにまっすぐに応えていきたいと、私自身日々願い祈るものであります。
さて、主イエスがその子を御自分のもとに連れて来させると、悪霊は子どもを地面に引きつけさせます。父親の心境はいかばかりであったでしょう。主イエスはその父親と一対一で向き合われます。
並行記事のマタイやルカの両福音書では、父親との対話は記されていません。このマルコの福音書は父親と主イエスとの対話をとおして、「信仰」とは何かを丁寧に解き明かしているのです。
この父親は主イエスに、「おできになるなら、わたしどもをお助けください」と言います。幼い時からずっとそのようであったということですから、父親はどれほどの思いで神に願い続けて来たことかと想像します。自分が罪深いからか。自分はどれほど神の恵みからほど遠いことか。律法を何とかして守るだけ守れば神は顧みてくださるだろうか。しかしどんなに頑張ってみても悪霊は出て行きませんでした。何とかして頂けるかも知れないと連れて来たものの、弟子たちでは状況は変わらず、何もできなかったのを見た彼は、「おできになるなら」と言ってしまう思いになっていたのかも知れません。
その父親の願いに主イエスは厳しい語調で、「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」と宣言なさいます。
「~たら、れば」は信仰ではありません。不可能は主イエスの側にではなく人の側にあったのです。そのように厳しく言われたのは、主イエスがこの父親の信仰を立てるためであったのです。それは又、主イエスのそばにいた弟子たち又、その場にいたすべての人の信仰を立てるためでもあったのです。
今の時代も主イエスが仰せになられた不信仰な時代といえますが。国内外に目を向けますと罪と不信による憎しみ争いは未だに絶えません。ほんとうに主イエスの時代も今日の時代も何も変っていません。私たちも又、この主イエスのお言葉に目を覚まされる思いです。
すると、父親ははすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。
一方で「信じます」といいながら、一方で「信仰のない」という言葉は相反しているようにも読めますが。最初の「信じます」は主イエスに全幅の信頼をもって依り頼んで行くということです。又「信仰のない」とは、自分を救い得る力が自分にはないということです。
この父親は、そんなわたしをお助け下さいと叫ぶのです。実はそれが「信仰」なのです。私たちも今日主イエスと向き合い、信頼をもって一緒に叫びましょう。「主よ、信じます!信仰のないわたしを助けてください。」
最後に、弟子たちが主イエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねると、主イエスは次のようにお答えになります。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」
この種のものとは、神への不信を起こさせるような私事をはじめ様々な世の事象や物事のことです。
祈りなくして主への信頼、信仰は得られません。又主への不信仰は祈りなくして追い出すことはできません。この「祈り」はまさに「信じます」に基づいた信仰の祈りなのであります。
主に信頼をもって願う祈りを主は聞いておられます。主は今も生きておられます。
信仰に基づく活き活きとした祈りを日々捧げ、主により頼みつつ、主と共に歩んでまいりましょう。