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「あなたは、わたしを何者だというのか」

2022-02-13 14:11:29 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ8章27~38節 

 

本日の聖書箇所において、主イエスと弟子たち一行はフィリポ・カイサリア地方に向います。そこはユダヤの地でありますがバアルの神々などが祀られ、偶像に満ちていました。 

その近くにはヘロデ大王が建てたローマ皇帝アウグストゥスの神殿があったのです。ローマ・ギリシャ文明とパレスチナ文化が入り混じるカイサリアの地。2000年にイスラエル旅行をした折、ガリラヤ湖東岸から西岸を眺めると、美しい山間に臨むこのカイサリアの街並みを見たときの事が思い起こされました。主イエスは弟子たちとその方々の村々にお出かけになるのです。

 

その途中、主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか?」とお尋ねになります。

弟子たちは口々に、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。民衆は、主イエスのことを神から遣わされた遣わされた旧約の預言者たちと重ねて見ていたということであります。それは又、ローマの支配下による抑圧から解放してくださるダビデ王のような勇ましい政治的統治者を待望する民も多くいたのです。

 

そこで主イエスはがお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」

みなさま方の中でご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、家の宗教が仏教や神道であったり、様々な背景のなかでご自分だけが教会に行き始めるようになってキリスト教の福音と出会い、主イエスを信じるようになられたという方も多いのではないでしょうか。

日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントくらいと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、こうした異教的な環境の中でキリスト教と出会うわけであります。

そういう日本においても多くの人がキリスト教への関心や興味を持っていると思えますが。本当にイエス・キリストを信仰の対象として信ずるに至るその道のりは狭い門といえるのかも知れません。今も世界で一番読まれている書物のベストセラーは聖書であり、世界中の人に読み親しまれております。日本でも聖書に対する世間の人たちの見方やキリスト教会への印象はそんなに悪くはないと思います。どこの本屋でも聖書をはじめ、キリスト教についての様々な入門書や信仰書も書棚に並び、手にすることもできます。又、ギデオン協会のご尽力により、実に多くの聖書が学校、病院、ホテルにも配布されてきました。日本のミッションスクールで聖書を読み、学ぶ機会があったという方も多くおられます。

それでも、「では、あなたにとってイエス・キリストはどのようなお方か」と言う、まさに聖書の核心的な問いかけに対して、答えを持ちあわせている人は少ないというのが現状であります。

世間がどうこう言っているキリスト教、本や参考書に書かれているような一般的な知識としての答えではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか?」という、天地万物の創造主、救い主なる神が私に向けられた個人的な問いかけが、ここには語られているのであります。

本日は、フィリポ・カイサリアの人々と同じように異教的な文化の中で暮らす私が、どうこの問いかけに応えて生きるか。本日はこのところから御言葉に聞いていきたいと思います。

 

さて、弟子の筆頭格であったペトロはそのイエスさまの問いかけに対して、「あなたは、メシア(救い主)です」と答えます。彼は「わたしにとってイエスは救い主です」と、そう言い表すのです。

ところが、主イエスはなぜかここで、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。それは実に不可解に思えます。だれもが「イエスはメシアである」と知ったほうがよいはずです。しかしそこには訳がありました。

 

31節にあるように、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、ペトロはじめ弟子たちにはっきりと、御自身の受難告知をなさいます。

すると、それを聞いたペトロは「そのイエスさまをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)とういうのです。「いさめる」とは、主イエスに対して「あなたは間違っていますので改めてください」と、そう忠告したということです。

 

先ほど、「あなたは、メシアです」と告白したペテロでしたが。主イエスが言われるようなことは決してあってはならないという自分の強い心情による思いからでしたが、それはイエスさまのご意思を否定するようなことであったのです。

この後、主イエスはエルサレムに入城し、十字架の贖いの業を成し遂げられることによって神の御救いをうち立てられるのですが。ぺトロはじめ他の弟子たち、さらにユダヤの民衆は解放をもたらす強い統治者としてのメシア像を持っていたのです。

 

33節で「主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。

当然ながらこの時はまだ十字架の苦難による救いなど到底理解できないペトロはじめ弟子たち、又群衆であったのです。

だから、主イエスはペトロに対して、ご自分がメシアであることについて「まだだれにも話さないように」とおっしゃったのです。

 

この後の24節以降においては、主イエスは弟子たち、さらに群衆をも呼び寄せて、ご自分が神からお受けになろうとしておられる十字架の道に重ねつつ、神の御心に生きる心構えを説かれます。

「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

ここでは自分「捨て」と訳されていますが、岩波訳は自分自身を「否み」と訳されています。けれど、どちらにしても人にはなかなかできないことです。なにか自分の命がすり減っていくような気さえする。

そんな人の思いを見抜かれる主は続けて、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と、諭されます。

 

ここでは2つの「命」が語られていますが。その1つはこの地上の命であり、もう1つは永遠の命であります。ここを読んだとき、殉教ということを思い浮かべる方もいるかも知れませんが。大切なのは、死ぬことそのものにあるのではなく、人の思いに優る神の御心に従うことにこそ、永遠の命に至る幸いがあることが、ここで語られているのです。

 

さて、ペトロは先ほど申しましたがこの時点で、救い主(メシア)がどのような形で救いの業を成就されていくのかまで知るよしもなかったのです。だからこの主イエスの受難告知に躓いてしまうのです。

ペトロといえば確かにイエスさまの愛弟子、筆頭格の弟子でありましたけれども。その彼のあゆみを辿って観てみますと、彼の実直な性格とともに弱さや優柔不断さ、又失敗や挫折までも赤裸々に容赦なく福音書には記されています。

今日のこのペトロの信仰告白というのも岩のように頑丈であるとはいえず、むしろもろく砕けやすい不完全なものであったと言えます。口でいくら立派な主告白をしても、自我の思いを優先させ、神の御心を受けとめることができないとんちんかんな過ちを繰り返すようなペトロと弟子たち。

けれど彼らを決して笑うことは出来ません。私の中にもそういうところがあるからです。

しかしそのペトロは、主イエスの十字架を前にして本当に自分の無力さ、優柔不断さ、弱さに打ちのめされるのです。

主イエスは、そのようなペトロが立ち直ったら他の弟子たちを力づけ、神の福音のために力強く働く者となるようにと望み、信じ、執り成し祈られていたのです。

さらに、十字架の死よりよみがえられた主イエスはこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」と、使徒として新たなる召命に招かれました。こうして彼は神の御心こそなるようにと、自分を捨て、自分の十字架を負って生きる人生を歩き始めるのです。

このペトロの新しいあゆみは、まさに主イエスの十字架上の愛とゆるしの執り成しによるものでありました。ペトロ同様私たちも又、この「主イエスがいなけば」、人の思い、肉の思い、罪に滅びる外ない者であります。

人の思いに優る神の御心に従うことにこそ、永遠の命に至る幸いがある。私たちもまた、主の永遠の命に向けた歩みを日毎に選びとって、主に従い行きたいと願うものであります。

唯、主イエスの十字架こそが、私たちに神の御心に生きる道を示し、神に従い行く永遠の命に至る歩みをなさせたもう生ける力なのです。

今週もこの主の招きに聞き従いつつ、喜びと希望をもって主の命の道を歩み続けてまいりましょう。

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