宣教 ヨハネ2章1-11節
この2章から主イエスの公での宣教活動が始まっていくのですが、そこから主イエスは7つのしるしを行うのであります。
その最初のしるしがカナでの婚礼で、「水をぶどう酒に変えた」この出来事であります。
主イエスは弟子たちと共にその祝宴に招かれていました。そこには母マリアも一緒でした。
当時の婚礼の宴は一週間も続くことがあり、時が経つうちに婚礼に付きもののぶどう酒が底をついてしまいます。
マリアは世話役の様子を察知したのでしょう。
イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と、伝えるのです。
すると、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、マリアに答えました。
このイエスの言葉はなんだか冷たいように思いますが。
この時、マリアの関心事と主イエスの関心事は異なっていました。マリアの関心事は婚礼の祝宴が滞ることなく守られることでした。そのためにイエスなら何か出来るのではないか、と期待したのです
一方の主イエスの関心事は、父なる神の御心とその計画に向けられていました。
「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃったものの、まだそれを公に顕す時ではないということであったのです。
この主イエスの「わたしの時」とは、苦難と死をその身に負われる時であったのです。
バプテスマのヨハネがイエスのことを、「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しているように、イエスはまさに、そのためにこの世界においでくださったのであります。
しかし人々は、目に見えるしるしを求めます。
主イエスはそのようなしるしを求めようとする人々に対して、他のところで旧約聖書のヨナ書から、「預言者ヨナのしるしのほかには与えられない」(マタイ12:39他)とおっしゃいました。
神から悪名高いニネベーの町に行って人々に悔い改めるよう呼びかけよ、と命じられた預言者ヨナはそれを拒み大きな魚に呑み込まれてしまいます。しかしが3日目に魚の腹から吐き出されて彼はニネべで人々に御言葉を伝えるのです。すると人々は深く悔い改めて救われた、というエピソードであります。
主イエスが「ヨナのしるし」とおっしゃったのは、十字架の苦難と死、さらにその3日後に死からよみがえらされる出来事こそ、最大で唯一の神の救いのしるしであるという事です。
この十字架と復活の救いに勝るしるしはありません。それは、信じる者にいのちを得させる神の大いなる恵みの御業です。
話は変わりますが、昨年末から今年に入りまして、私たち大阪教会のSさん、そしてOさんが天に召されました。1月2日と11日にそれぞれの告別式が当教会で、ご遺族ご近親、教会の方々が集われる中、主のお導きとお支えを頂き、行われました。
Sさんは上宮学園高校1年の16歳時に大阪教会でバプテスマを受けられ、その後藤井寺の教会にも出席されていたようですが。天に召される前に、最期は主に救われてバプテスマを受けられた大阪教会で告別式を希望すると、私宛にお手紙を残されていたということ、又未信者であるご家族にもその事を予め伝えておられ、ご家族もご本人の信仰とその遺志を尊重してくださったことで、1月2日Sさんが望まれたキリスト教式の告別式を行うことができました。「帰る家がある」ということは幸いなことです。
又、Oさんは93歳までは一人暮らしをなさって居られ、遠方の高槻から徒歩、バス、電車に乗り継ぎながらお一人でこの天王寺の大阪教会まで足を運ばれ、大阪教会の毎週の主日礼拝に出席し続けておられました。
私がOさんと初めてお会いしたのが2005年3月末の大阪教会の礼拝であったと思います。当時Oさんは80歳であられたのですが、聖歌隊の一員としてしゃんとお立ちにって賛美されていたお姿が今も思い浮かんでまいります。Oさんが最後に喜ばれる表情を私に見せてくださったのが、Oさんの愛唱讃美歌である「いつくしみ深き」をスマホからですが耳許に近づけて聴いて頂いた時でした。Oさんはこの讃美歌がほんとうに大好きだったのですね。
姉妹は40歳の時に大井バプテスト教会において主イエスを信じて救われ、バプテスマをお受けになられました。
私たち人間はこの地上に生を受ける第1の誕生日があります。バプテスマは第2の誕生日であります。それは主の救いによって新しく生まれ変わる新生の出来事を表します。その新生のいのちは、主なる神さまの永遠のいのちにつながる命であります。
聖書は、決して朽ちることのない「希望」を伝えます。その希望は「十字架の苦難と死をとおって復活されたイエス・キリスト」にあります。神はキリストが死から復活されたのと同じように、キリストを信じて眠りについた人たちをも、キリストと一緒に導き出してくださるのです。主なる神さまは、生も、死も、滅びも、新生も、すべて治め、司っておられるお方であられるのです。私たちはその希望によって今日も生かされているのです。
話を戻しますが。
イエスの母マリアは、毅然たるイエスの言葉を聞くと、驚きながらも召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言うのですね。
マリアはイエスを信頼していました。一方のイエスも又、そのマリアの関心事に対して、「水をぶどう酒に変える」しるしをもって、答えてくださるのであります。
私はこれまで、この「カナでの婚礼」の記事を読む時、イエスの母マリアが「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」とイエスに言われながらも、イエスを信頼し、又、召し使いたちもイエスの言葉に忠実に聞き従った、そこに神の御業が顕わされたという視点で読むことが多かったのですが。
今回、イエスさまはどのようなお気持ちでこの場に御業を顕わされたのかということを考えた時、新たに気づかされたことがあったのです。
それは、主イエスが「わたしの時」というご自身の大きな使命を抱えておられたにも拘わらず、人の喜びや悲しみ、心配や必要といった日常のいわば悲喜こもごもに関わりをもってくださるお方であられるということです。お姿に神の愛を新鮮な気持ちでおぼえることができました。それが何ともうれしく、新年早々から大変励まされたわけでありますが。
私たちの日常には大小様々な問題や気がかりな事が山積しています。自分の事、家族の事、隣人の事、ほんとうにキリがないほどです。やらなければならないことは塵のように積もってゆくばかり。また、どうしたらいいかわからない状況が起こる時もあります。
けれども、どのような時も、主は私どもの訴え、助けを呼ぶ声を、決して素通りなさるお方ではありません。私たちの些細でありふれた祈りさえもお聞きになり、おぼえ、人の願望だけでは終わらない最善を顕してくだるのであります。
さて、そのマリアのとりなしとも言える言葉を受けて、主イエスは水をぶどう酒に変える最初のしるしを行われます。
ここには6つの水がめとあり、それはお風呂の水のだいたい3回分はあったようですが。その水が上質のぶどう酒になったのです。
律法の規定のもとで生活していたユダヤ人たちは、食べ物、衣服、器も住まいの物すべてを、水がめに溜めた水で洗い清めました。それは単に洗うというのではなく、神の前に自らを清めるということでありました。ですから、人によっては何度も手や身体を水で洗わねばと思ったり、人に対しても洗い清めるべきだと裁いてしまうことが起こったのです。
そのような律法的なあり方は、一方で人の心を萎縮させていきます。又、水も生活するために貴重でしたから、水を得られない人たちは汚れた者と見なされ、見下されました。
この多くの清めの水は、本質的に人を罪から清めるものではなかったという事であります。
しかし、主イエスはこのカナの婚礼でその不完全な清めの水をぶどう酒に変えられました。
それはとても象徴的なことでした。
このぶどう酒とは、主イエスが神の小羊として人の罪のあがないのために流された血を表すものです。その主イエスによってもたらされる全身全霊のきよめによって全き救いが実現されるのです。
本日は婚礼の祝宴において主イエスが水をぶどうに変えられたしるしの記事ですが。
6章の5千人を養われた主イエスのしるしの記事では、このパンが主イエスご自身であること、十字架で裂かれた主イエスのからだを表すものとして伝えられています。
私どもは主の晩餐のたびに、神の小羊として私の罪の贖いのために主イエスが十字架で流された血と裂かれたからだを表すぶどうの杯とパンを戴きつつ、新しいいのちと全き救いに与っていることを心に刻み、確認するのです。
主イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちを集めて最期の晩餐を行われました。
地上での最期の別れを前に主イエスは弟子たちと食卓を囲まれるのです。それは確かに告別に際しての時でありました。しかし主イエスはこのように語られるのです。「今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪う者はいない。」(ヨハネ16:22)
先に天に召されましたお二人はじめ、又先に天に召された多くの主にある方がたと私たちはいずれ天の御国で主のもとにあってお会いする時を、大きな希望として与えられていることに感謝します。
さて、水がめの水がぶどう酒に変わったことを何も知らない料理長は花婿を呼び、言います。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(10節)
料理長が感心したのは、世で行われることとは正反対のことがなされたのを知ったからです。味わい深い良いぶどう酒を先に出して尽きる頃には酔いが回り味もわからなくなってきますから、まあ上等でない予備のぶどう酒があれば十分に対応できると考えます。これが世の常識であります。
けれども主イエスが出されるのは、酔いが回って我を失うかのように生きる人を目覚めさせ、まことの喜びを与える最上のぶどう酒なのです。
今日私たちは、主イエスが「最初のしるし」を行った箇所を読みました。
「祝宴のぶどう酒がなくなるようなことがあってはならない」と、執り成したイエスの母マリア。ここにキリストの教会の姿があるように思います。
今年度も教会とそれぞれの場において、イエス・キリストによって救いと喜びにあふれる神の栄光があらわされますよう、共にあゆんでまいりましょう。