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永遠の命の泉

2024-01-21 18:37:38 | メッセージ
主日礼拝宣教 ヨハネ4章1節-30節 

本日の箇所には主イエスがユダヤ地方からガリラヤヘ向かわれる折、4節「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と記しています。
通常多くのユダヤ人がガリラヤへの最短コースであるサマリア経由を避けていました。
わざわざ遠回りしてガリラヤ地方に入るルートを選んでいたのです。
元々ユダヤ人もサマリア人も一つのイスラエルの民であったわけですけれども、紀元前722年北王国イスラエルとその首都サマリアはアッシリア帝国によって崩壊し、その占領政策の下5つの異民族がサマリアに移植され、異教の神々が持ち込まれることになったのです。そういうことで血統性を重んじるユダヤ人は、サマリア人をイスラエルの民とは認めず蔑視してきたのです。そういうわけでユダヤ人たちはサマリアを迂回したのです。
しかし、主イエスはそのユダヤ人たちの蔑視する「サマリアを通らねばならなかった」。
そこに主の救いのご計画があったことが示されています。

さて、主イエスがシカルの町に入ると、そこにヤコブの井戸がありました。
旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスはその井戸のそばに座っていました。一日で一番暑い正午頃でした。
その時サマリアの女が一人で水を汲みに来ました。
水汲みは通常涼しくなる夕暮れに行われていたようです。しかし彼女は真昼にしかもひとりで水を汲みに来たのです。それは実に奇妙なことでした。焼きつくような暑い時間帯にわざわざ井戸に水を汲みに来たというのは、通常女性たちがやってくる時間帯を避ける事情があったのです。
主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と言われます。
すると、「ユダヤ人であるあなたがサマリアの女であるわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と女は答えます。
当時は男の人が見知らぬ女性に声をかけるなど普通なかったことでした。ましてや自分の前にいるのはその服装や様相からユダヤ人であります。なぜユダヤ人が蔑視するサマリア人の私にわざわざ声をかけ、頼むようなことをするのかと、彼女は驚き理解できなかったのです。                            

すると主イエスはこう言われます。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるのか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」
彼女はきっと思ったでしょう。「まるで自分のことを預言者のように言うこの人は、いったい何者だろうか」と。

こうして主イエスとサマリアの女との問答が始まり、その話題が「喉の渇きをいやす水」と「決して渇くことのない命の水」へ移っていくのです。
彼女はこのお方が「生きた水」を与えることができると言われた事に対して、汲み出す道具も無いのにどうやって水を手に入れるのですか」と尋ねます。さらに「この井戸はイスラエルの父祖ヤコブが私たちに与え、彼自身も、その子孫や家畜も、この井戸から飲んだのです。ヤコブよりあなたは偉い方なのですか」と問います。

それに対して主イエスは言われます。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
これを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と訴えます。
主イエスはこのサマリアの女の心の「渇き」をご存じでした。
人目を避けて井戸に水を汲みに来ていた彼女が一番欲していたのは、まさにこの「渇くことのない命の水」であったのです。
彼女は5度の結婚と離婚を繰り返し、現在も夫でない人と同棲し、心の満たされる関係性を持てる相手をずっと求め続けてきたのです。しかし、その心の「渇き」は満たされるどころか益々渇ききっていったのです。

すべてを言い当てられた彼女は、主イエスに「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と尋ねます。
彼女は自分が如何に神から遠く離れたところにさまよっている者であるか。又、自分の魂が本当に必要としているのは何かを見出しかけていました。
彼女がこう問いかけたのは、自分自身が神に立ち返るべき者であることを意識したからでしょう。だからこそ彼女はほんとうに礼拝すべき場所を尋ねたのでしょう。

けれどもこれはサマリアの女の個人的問題のみにとどまるものではありません。
先程ユダヤ人とサマリア人の歴史について触れましたが。民族的な純粋性を損ない独自な礼拝の場を作ったとユダヤ人から蔑視されてきたサマリア人。その積年に及ぶ神の民としての存在に関わるそれは問いかけだったのです。
この女性にかつて5人の夫がいて今も本来の夫がいないというのは、かつての入植政策により5つの異民族が入り混じった歴史。異教の神々が入り混じるサマリアそのものでした。
彼女が今連れ添っているのも本当の夫とは言えないというのも、サマリア人が独自に建てた神ならざるものを拝む神殿であったことを表していたのです。
この彼女の渇きは、サマリア人の神の民としての「真の礼拝」への渇きに外ならなかったのです。サマリアの人々は主なるお方との生きた霊の交わりの回復を切望していたのです。

主イエスは言います。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。」
ここには礼拝する場所が、サマリア人が主張する聖なる山や、一方ユダヤ人が主張する聖なる都エルサレムという特定の場所に限定されない。それは国や地域、民族や立場の違いも超えてあらゆる人たちが父(神)を礼拝する時と場所が訪れるということです。

又ここで、「あなたがたは知らないものを礼拝している」とあります。
創造主なる神は創世記にあるように、人を命あるものとして生きるために神の息(霊)を吹き入れられました。ですから人はだれもその心の奥深いところで霊的な渇きをおぼえ、神との交わりの回復をひたすら求めて生きる存在として造られているのです。
しかし混沌とした世にあって多くの人は、その「渇き」を満たすために神との交わりにではなく、神ならざる物や偶像を頼みとして生きようとしています。これを聖書は「的外れ」「罪」と言います。主によって造られ、生かされているだれもが実は心の奥深いところで、このサマリアの女のように全人的な「渇き」をおぼえながら解放と救いを求めているのです。

主イエスは、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理とをもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われます。
実に、神の御子イエス・キリストが、この世にご自身を明らかにされた。その「今」。
今日の箇所のように人が避けて通るような所に主イエスは足を運ばれ、心の奥底に「渇き」をおぼえている人らと出会い、さらにその人が神の前に取り戻された者として解放と救いに与れるように関わり、招かれるのです。
この主イエスとの交わりにこそ、罪からの解放と救い、全人的な渇きを満たし潤す神の力であります。この真理なる主イエスとの霊の交わりこそ「まことの礼拝」なのです
これは人の力によるのではなく、まさに神の恵みにほかなりません。

話は変わりますが。
11日に98歳で天に召されたOさんの告別式が教会で行われましたが。先日そのお孫さんであられる方から丁寧なお礼のお手紙を戴きました。
そこには、告別式から帰って来た娘が告別式で歌った讃美歌「いつくしみ深き」を口ずさんでいたとのこと。一年前にお連れ合いのお父様が亡くなられたその時の葬儀と全然違うので驚いておられたようで、「ひいばあのことが沢山お話しに出てきてお話しが楽しかった」とおっしゃっていたそうです。
主が告別式をとおして、このご一家に働きかけてくださったことを知ることができました。

また、ある方は、年の瀬に近しい方を突然亡くされ心が渇ききって何もする気が起らなかったそうです。そして「Oさんまでが、、、」というお気持ちで告別式に参列されたとの事ですが。そこで不思議に心が安らぎで潤される体験をなさったそうです。「今まで長く信仰生活を送って来たのに一体何をしていたのかしらと思うような、平安にあずかることが出来た」とお証しくださったのです。
地上における別れの時は寂しくつらいものでありますが。魂の「渇き」を覚えるような時、キリストにおける永遠のいのちの希望、その真理と聖霊より与えられた、まさに生ける命の水にあずかる出来事は起こされている事に、主の御名をほめたたえることができました。

さて、聖書に戻りますが。
サマリアの女は主イエスに言います。。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
彼女は確かにキリストと呼ばれるメシアが来られ、一切のことを知らせてくださる、と頭では理解していたのですが。それはまだ先のこと、自分とはどこか関係のないことのように思っていたのでしょう。けれど、今、目の前におられるお方と話をする中で、今まで伝え聞いてきたことが、聖霊の働きのもとで期待へと変えられていったのです。
そこで、主イエスは彼女にこう言われます。
「それは、あなたと話しているこのわたしである。」
その主イエスの宣言とも言えるお言葉を聞くや、彼女は水を汲む当初の用事も忘れ、水がめをそこに置いたまま一目散に町へ行き、人々に「わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。この方がメシアかも知れません。さあ、見に来てください」と伝えます。
主イエスのお言葉がいかに彼女のうちに変化をもたらしたかということが読み取れます。
主イエスとの出会いと対話を通して心開かれ、聖霊のお働きの中で彼女は「この方が救い主、キリストである」と確信しました。彼女の魂は満たされ、潤され、その水は泉のように彼女の内側から湧きあがり溢れ流れていきます。
同じヨハネ7章には次のような言葉が記されています。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:37‐38)
まさに、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃったことが、サマリアのこの女のうちに起るのです。
彼女は預言者が伝え、待ち望まれて来た救い主、キリストのことを人びとに伝え、証しする者とされるのです。
主イエスのお姿は肉眼で見ることができなくても、主イエスは今も確かに地上に真理の霊である聖霊を送り、その聖霊を通して私たち一人ひとりに主は語りかけ、御心を示しておられます。
今年は「まず、礼拝から」という標語を掲げ、新しいあゆみが始まりました。
まず、真理であるお方、主イエス・キリストとの出会いの日々、聖霊の親しき交わりにあずかり、霊と真理をもって礼拝を捧げてまいりましょう。
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