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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスとの出会い

2024-01-07 13:17:53 | メッセージ
新年礼拝宣教 ヨハネ1章43節-51節 

新しい年を迎えて最初の主日礼拝をお捧げしています。
元旦礼拝を捧げ帰宅後一息ついているその時、床からゆっくりと船揺れのようなものを感じて急いでテレビをつけますと、能登半島を震源地とする大きな地震が起こり、津波が来ているという報道でありました。徐々に被害の大きさが明らかになるにつれ胸が痛み、祈るばかりであります。
その翌日には、羽田空港でご存じのように大きな事故が起こりました。激しく燃えあがる日航機の映像と地震による被災地の様子が映し出されて、正月気分など吹き飛んでしまいました。「乗客・従業員全員は無事救出された」と聞いて、胸をなでおろす思いでした。
いったい何時何が起こるか、わからないと思いました。引き続きお祈りに覚えてまいりましょう。
今年は年間テーマに、「まず、礼拝から」。聖句として「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8章10節)を掲げております。
どのような状況にあっても決して揺るがない神のことばとその救いを確信しつつ、力の源である主なるお方を共に礼拝してまいりましょう。

先程、ヨハネ1章43-51節のところが読まれました。
この前のところには、人びとに悔改めのバプテスマを授けていたバプテスマのヨハネと2人の弟子が出てまいります。バプテスマのヨハネが主イエスを見て、2人の弟子に「見よ、神の小羊」と言うと、この2人はイエスさまに従って行くのであります。
ここで最初の弟子となったその一人はアンデレで、もう一人は恐らくゼベタイの子ヨハネだとされています。
イエスに従ったアンデレは兄弟のシモン・ペトロに会って、「わたしたちはメシア、神が油注がれた者に出会った」と伝えて、シモンをイエスさまのところに連れて行きました。
まあ、主イエスと「出会った」人が、また次に、さらにまた次にと、主イエスのもとに連れて行き、
主イエスと「出会い」、主イエスに従って行きます。
彼らはみな何か難しい言葉や説明によったのではなく、主イエスと「出会う」ことによって、主に従うようになるのです。

本日の箇所に登場するフィリポは、先のアンデレやシモンがいたベッサイダの町出身でした。
主イエスはそのフィリポがガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポと出会って、「わたしに従いなさい」と言われ、フィリポはイエスの弟子となるのであります。
今度はこのフィリポが、ナタナエルと出会います。
フィリポはナタナエルに、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と、自らの体験を語ります。
それに対してナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えます。
彼は旧約の預言者たちが示したメシアは偉大なお方で、都エルサレムに近いベツレヘムでお生まれになるとはあるが、ナザレなどという小さな村、異邦人も混在するガリラヤ地方から出るはずはない、と考えていたのです。
この時もしフィリポが、その事でナタナエルと議論していたなら、おそらくナタナエルは主イエスと出会うことはなかったでしょう。かえって心を頑なにして、心閉ざしたかも知れません。
フィリポはいろいろと議論するより、ナタナエルが主イエスとまず直接お会いすることが一番、それに勝るものはないと判断したのでしょう。
とにかく、「来て、見なさい」と誘い、彼を主イエスのところへお連れしたのです。
こうしてナタナエルは主イエスと直接出会い、「神の子、イスラエルの王」と言い表す事になるのです。
フィリポは自分の役割を十分に周知していました。彼は道先案内人に徹したのです。あとは主がなさることと委ねたのです。
それは、私たちが主イエスの福音を証ししたり、伝えていくうえでよいあり方でしょう。
牧師も同様ですが、相手と議論して説得しようとしても、なかなか伝わるものではありません。
肝心なことは、その人が直接主イエスと、その福音に出会われることが大事ですね。

このフィリポの「来て、見なさい」という言葉ですが。
これはまさにフィリポ自身が主イエスとの出会によって与えられた体験から出てきたもの、その揺るがない確信から出たものでした。
同時にフィリポはナタナエルが主イエスと直接出会ったなら、彼はイエスがメシアであることを知るだろう、という確信があったのです。

私共も主イエスとの出会いは、それぞれにそのきっかけとなったあの人、この人がいらっしゃるのではないでしょうか。教会にお誘いくださった方。聖書の言葉をおくって下さった方もおられるでしょう。クリスチャンホームであればそのご家族であるかも知れません。他にも自分に福音が届くまで祈りをもって神に仕える様々な方がいて、主イエスとその福音に出会うことが出来たし、現に主の救いに与り、主に従う者となった今も、主イエスにある教会、兄弟姉妹を通して、救い主イエス・キリストにその都度出会いを与えられているのです。感謝のほかありません。

さて、47節以降には主イエスとナタナエルとの出会いが記されています。
ここで、まず主イエスが、自分の方へ来るナタナエルを「見た」とあります。
この「見た」とは単に視覚的に見るということではなく、その彼の存在を受容し、認められた、ということです。
そうしてイエスは一緒にいた弟子たちに、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人に偽りはない」と言われます。ここでの「見なさい」も、ただ視覚的に見なさいということではなく、「感知」すると言いますか、気づきをもって心に留める、そのように注視せよ、と言っているのです。

その「まことのイスラエル人」と評されたナタナエルでありますが。「イスラエル」という名称の由来は、信仰の父祖アブラハムの子、イサクの子ヤコブが神に対して「わたしを祝福してくださるまで離しません」と、神と格闘し、神から祝福を勝ち取って、その際に神から与えられた名でした。ところが、エルサレムを中心に偽りのイスラエル人がいた、偽善に満ちた選民意識をもった人たち、自分たちこそ選ばれた者とおごりたかぶり、かたくなに分け隔てする排除する人たちがいたのです。

主イエスがここで、「まことのイスラエル人」と、ナタナエルを呼んだのは、そういった偽りのイスラエル人が多い中にも、主イエスは神を畏れ敬い、御心を尋ね求め、その教えと戒めを慕う彼の姿を、いつくしみ深いまなざしでご覧になっていたのです。

それを聞いていたナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになりました。
見えるはずもない自分の行動を言い当てられたナタナエルはさぞかし驚いたことでしょう。

日差しの強いユダヤの地では、大きな葉が茂るいちじくの木の下は安らぎの場所でした。ラビをはじめ律法を学ぶ人たちはよくその木陰で律法の書を朗読し、祈り、黙想したようです。
ナタナエルもその一人でした。
ここで主イエスがナタナエルに、「あなたがフィリポから話しかけられる前に」と言われる「前に」とは、単なる時間的な事をおっしゃったのではありません。実はそれ以前から、神の救いを切望し、祈っていたナタナエルのことを、主イエスは知っておられたというのです。
衝撃を受けたナタナエルは、ためらうことなく、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と答えます。
そのナタナエルに主イエスはさらに、「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」とおっしゃいます。
この時、ナタナエルは主イエスがどのようなかたちで、メシアとしてのお働きをなさるのか、ということがわかってはいませんでした。
ナタナエルは、主イエスが不思議なしるしや能力を使ってお働きになると、おそらくは期待していたようです。それは他の弟子たちも同様であったでしょう。
けれども主イエスは、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」とおっしゃるのです。

主イエスは続けて言われます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。
「はっきり言っておく」は、原語では「アーメン、アーメン、レゴウ、フュミン」。「まことに、まことに、あなたがたに言っておく」ということです。それは主イエスが、神の権威と聖霊のお働きによって主の救いと解放をもたらされる、という宣言です。
主イエスは、ナタナエルらが思い描いていたこの世的な王としてではなく、神と人との間を隔てている罪を取り除き、滅びの死から解放をもたらす救い主、キリストなのです。
まさに、このキリストを通して天と地を天使が上り下りする、神と人、人と人、人と世界(全被造物)をつなぐ、和解、平和の君、神の子としての栄光をナタナエルは見ることになるのです。

本日は主イエスとナタナエルの出会いを通して聖書のメッセージに聞いてまいりました。この主イエスとの出会いの経験は、私たち一人ひとりにも与えられています。
それは様々な人との出会いを通して、又礼拝においていつも主ご自身が招き続けてくださっておられるのです。そこで共に読む御言葉、メッセージ、聖句の一言、或いは讃美歌。それが「自分に語られたもの」「主が与え、用意して下さったもの」「主は私のことを知っていてくださる」「主は私と共におられる」。そういう経験を与えられることを通して主が出会ってくださるのです。
それは又、日常の生活においても主は私たちに語りかけておられるのです。
私たちも、ナタナエルのように新しい年いろいろな出来事や状況においても、如何におかれようとも、主が私たちに見せようとしておられる「神の偉大なこと」、その救いの御業を見せて戴く一日一日の証し人とされていくよう、今年一年主を仰ぎつつ、歩んでまいりましょう。
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