主日礼拝宣教 マタイ4章12~22節
先週から大きな寒波の襲来で非常に寒い日が続いております。どうかご健康が守られますように。ニュースをみますと各地で大雪が降り、この時期としては記録的な積雪で様々な被害が出ているようです。一方、米カリフォルニア州ロサンゼルス一帯で記録的な山火事が発生し、未だ鎮圧が15%と大変な事態が続いているようで心配です。「乾燥した気候による山火事と時速100キロ前後にもなる強風が被害を拡大させた要因だ、と指摘されていますが。この乾燥化は二酸化炭素を排出すればするだけ進んでいく人為的な要因があり、それを抑えれば乾燥化を減らすことができると言われております。いずれにしろ温暖化による気候変動はもはや国境を越えたすべての人類にとって逼迫の課題です。目先の利益を優先し、戦争や環境破壊を繰り返して温暖化を加速させるのは愚かな事です。この地球をお造りなられた創造主への畏れを持ち、神に立ち返って生きることが、今すべての人に問われているといえましょう。
さて本日は、イエスさまがガリラヤの漁師たちを、「人間をとる漁師にしよう」と招かれる箇所であります。このエピソードですが、マルコによる福音書にもほぼ同様のことが記されております。
その目的は、ユダヤ人にも異邦人にも「悔い改めよ。天の国は近づいた。」との良き知らせを宣べ伝える働きのためであります。イエスさまはその良き知らせをまずガリラヤ地方から始められました。
エルサレムというユダヤの中心都市、神殿がある場所からでなく、ユダヤの人々からすれば辺境の地、異邦人のガリラヤと言われていたそのガリラヤから「天の国が近づいた。」と語り始められるのです。
このガリラヤは古くはアッシリアに続くローマ帝国の植民地政策の直接的な影響もあり、人種・民族・文化・宗教観も混在している地でありました。そのためエルサレムに住むユダヤ人たちからは、異邦人だと見下され、「ガリラヤからいったい何のよいものが出ようか」などと否定的に言われていたのです。しかしイエスさまはそういったガリラヤの地で、「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣べ伝え始めるのです。世はガリラヤの人を見下し、偏り見るけれど、「天の国はそうしたガリラヤの人のもとに近づいた。神の方向に向きを変えて生きなさい」と、解放の宣言がイエスさまによってなされるのです。
この解放と救いの良き知らせは、このガリラヤからユダヤ全土、さらに世界中にもたらされるその働きのために弟子が招かれるのであります。
大阪教会の今年度の標語を「キリストの福音を伝え、証しする教会」と掲げましたように、私ども一人ひとりも又、神のご計画の下、家族、友人知人、住んでいる町のために祈り執り成しつつ、キリストの福音を伝え、証しする存在として招かれているのです。教会のホームページ、ブログ・大阪教会へようこそ、さらに教会のゲート前に設置しています教会案内、今回「新しく作られたチラシ」や漫画版のトラクトはすぐ無くなるので随時補充していますが。キリストの福音がさらに拡がっていきますよう願っています。
さて、イエスさまは宣教を開始されてから、ガリラヤの漁師たちを弟子として招かれます。
イエスさまはお一人でもこの宣教のお働きをなさることがおできになられるでしょう。けれどもこのよき知らせを告げ知らせ、病人のいやし、悪霊からの解放の業をなしていくうえで、弟子を招き立てられるのです。
同じマタイの9章で「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れま」ます。そこで弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収獲のため働き手を送ってくださるように収獲の主に願いなさい。」とイエスさまはおっしゃるのです。きっと今も私たちの生活の場を見渡され同様におっしゃっているのではないでしょうか。
さてそこで、この4人の漁師が弟子として招かれていく記事をお読みになられて皆さまは率直にどうお感じになられたでしょうか。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエスさまの呼びかけに、「二人の漁師がすぐに網を捨てて従った。」とありますが。これは人の決心や思い入れを超えた神の霊(聖霊)の働きであることを知っていただきたいのです。
年齢、性別、学歴、立場、特性を問わず、必要となされば神の霊・聖霊が働かれるのです。漁師であった彼らは祭司でもなく、律法を特別に学んだわけでもありませんでした。彼らは漁師を生業とし、彼らの獲った魚をガリラヤ地方の人たちの殆どが食べていたということで、きっと自分たちの生業に誇りと生き甲斐を持っていたのではないでしょうか。
ところが、イエスさまの呼びかけに「すぐに」答え、仕事の最中に網を捨てる。漁師にとって命ともいえる網を捨てるというのは常識的には考えられません。けれど彼らは結果的にそうしてイエスさまに従っていくのです。それは単に思いつきということではなく、どうやらこの漁師たちはその前にも何度かイエスさまについての噂を聞いていたり、あるいは多くの群衆に語りかけていたイエスさまを見かけていたのかも知れません。それまでは群衆の一人に過ぎなかったのが、この日イエスさまと彼ら漁師たちは、個人的に出会うことになるのです。
16節にはその時の様子が記されています。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。」
この「御覧になった」というのは、単に見たということではなく、観察し、見極めるという意味です。おそらく彼ら漁師たちもイエスさまのその視線を強く感じ取ったのではないでしょうか。ここでイエスさまと一対一の魂の出会いが起こるのです。そういう中で、彼らはイエスさまの「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」との呼びかけを受け、まさに身も心も圧倒され、捕らえられるのであります。
「すぐに網を捨てて、イエスさまに従った。」それは人間的な思いや決断によるものではなく、イエスさまの迫りによってもたらされるのです。今そうせずにはいられないという力が腹の底から湧いてくる。溢れ出てくる。それがイエスさまとの出会いによる彼らの体験であったのです。
私は20年間、このところでお一人おひとりの主イエスとの出会いと証を見聞きさせて頂いております。それはお一人お一人のオリジナルですばらしい証言であります。大阪教会にとって特に大きかったのは2013年に遂に適った会堂建築でありましょう。どれほどの祈りと献身、奉仕と献げものがなされたことか。それは主の霊の働きとしか言えませんでした。私たちは溢れる期待と喜びがありました。神さまの介入というしかない出来事が個々人に、教会に起こり続けました。会堂建築のために大きな回転資金をお借りしましたが、それも不思議な形で早期返済することができました。さらに念願のグランドピアノまで据えられるという恵みにも与かりました。その後、3年以上コロナ危機が続きましたが、そこで改めて共に教会の礼拝を捧げる尊さや恵みについて知らされました。主の慈しみによって、私たちはこうして生きて働かれる主を礼拝する喜びと感謝に満たされています。主のみ名を賛美します。主イエスとの日々の出会いを大切にしていきましょう。
さらにイエスさまは、19節「すこし進んで、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼべタイを雇人たちと一緒に残して、イエスの後について行った。」とあります。
おそらくこの二人も以前からイエスさまのお言葉を群衆の一人として聞いていたのでしょう。ところが、そのイエスさまが、舟の中で網を繕う仕事をしていた彼らを御覧になり、個人的に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と呼んでくださった。彼らも又、先ほどのシモンとアンデレ同様、父を雇人たちと一緒に舟に残して、イエスさまの後について行ったというのですね。
このような記事を読みますと、イエスに従う者は何もかもすべてを投げ捨て、絶ち切ってしまわねばならないのか、と構えてしまいそうになる方もおられるかも知れませんが。これは捨てるということより「一旦置く」という方がふさわしいのでしょう。
一旦神の前に置く。今まで自分の握りしめていたもの、それが物であれ、自分自身であれ、何であれ、まずは神の前に置いてみる。キリストと対話してみる。そのことが大切だと思います。
続く29節に、イエスさまは弟子となったシモンとアンデレの家を訪ね、シモンのしゅうとめの熱を去らせて、いやされました。すっかり元気になったシモンのしゅうとめは食事を作ってイエスさま一同をもてなす、そのほのぼのとする情景が描かれているわけでありますが。
シモンら兄弟は、それまでの生き方、仕事、家族とのつながりを最優先として握り生きてきたことでしょう。けれどもイエスさまと出会った時、それらを一旦神の前に置いて、主に従って生きてゆくのです。そのイエスさまは家族のつながりを断ち切って従って来なさいと、強要や命令をされているのではないことがわかります。むしろシモンの家族を尊重し、イエスさまもそのつながりをいつくしんでおられるのです。ヤコブとヨハネの場合も同様だったと思いますね。
以前にもお話したことがありますが。私に献身の思いが与えられた時、私は北九州の小倉に母一人を残して大阪に来ることに対し、後ろめたさを感じた時も一時ありました。母はクリスチャンでなかったのですが。「としぼう。それは人のために苦労する、犠牲を払う道だよ。」と心配しながらも送り出してくれたのです。母も私のことを一旦置いて、見守ってくれていたのではないかと思えるのです。その後大阪で2年間、そして福岡で4年の神学の学びの時を経る中で、母は私のことを喜んで応援してくれるようになったのです。イエスさまに従い行く道は、何もかも捨て去り、絶ち切ってゆくこととは違います。それまでの自分や他者を否定したり、分離するということでもありません。その途上において神さまの祝福がいっぱい用意されて来たことを今、思い起こします。
イエスさまは彼らを、「人間をとる漁師にしよう。」と招かれました。それは神の前に失われた者のようになっている魂が、神の慈愛のもとで新しくされる出来事に共に与ってゆこう、という招きであります。私たちにとってのガリラヤ。イエスさまの「天の国は近づいた。」との宣言。そして、イエスさまの強い眼差しとその招きは、今日も私たち一人ひとりに臨んでいます。今週もここから主と共に私たちのガリラヤへ遣わされてまいりましょう。
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