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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

忠実な主のしもべ

2013-02-25 10:17:53 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ25:14-30 現会堂最終礼拝

いよいよこの現大阪教会での礼拝は最後となります。三十三年間ここでもたれた礼拝、祈り会や諸集会、又それらに伴って与えられた数々の出会いと主にあるお交わりを心から感謝しながら、このひと時を捧げてまいりたいと思います。教会のブログでお世話になっている福岡のU兄から、「現会堂の解体工事の前に、隅々のお部屋を写真に残し、また新会堂建築工事の進行状況、そして完成までの様子を写真に撮って、新会堂完成の暁には大阪教会のブログで紹介できるといいよ」と素敵なアドバイスをくださいました。
私たちの教会は来週から仮会堂での礼拝と祈祷会が始まりますが。今の会堂で過ごしてきた者にとっては、3月からいろいろなことや不自由な面が何かと生じることもあるかとは思いますが、アドヴェントの後には大阪教会三代目の新会堂でクリスマスを迎えることができるというビジョンを描いて、又それが具体化していくプロセスをご一緒に見守りながら、熱い祈りをもってあゆんでまいりたいものです。

さて、本日は「天の国」についてのたとえの最終回となります。
24~25章にかけて、特に今日の箇所の前の「十人のおとめ」のたとえなどを読みますと。「天の国」はどこか遠いところにあるのではなく、私たちがこの地上で「主の再臨・終末の日に如何に備え、迎えるか」というそのあゆみの中に関係づけられていることがわかります。
本日のたとえに登場する「ある主人」とは主ご自身のことであり、財産を託されているのはまさに私たち自身であります。主人は旅行に出かけますが、やがて帰ってくる時というのは、主の再臨における終末のときを表しています。その時私たち一人ひとりは各々に委ねられた主人からの預かりもの、財産を如何に管理し、用いたかということが問われるのであります。
主人は、3人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、自分の財産を預けて旅に出ます。一人には五タラントン、一人にはニタラントン、もう一人に一タラントン。
このタラントンというのは、もともとは重さを表す単位だそうです。それも一番重い私たちが使う1トンとか2トンとかそんな重さの単位であり、それがこんな風に貨幣であらわされる時は、もう大金とかお宝ということですね。一タラントンは、この当時で言えば6000デナリオンに相当し、1デナリオンは先週読みましたように1日の労働者の賃金にあたりますから、6000日分の日当(おおよそ16年間働いた分のそう賃金)に相当することになります。
主人は、それぞれの力に応じて、そのような自分の財産を3人のしもべに、5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けますが。このタラントンはあくまでもしもべのものではなく、主人の財産として一時的に預けられたもの、託されたものであります。
主人が力に応じてといっていますが、それは何かそのしもべ個々人に能力や力量があって、それに応じてとも読めなくはありませんが。そういうことではなく、ただ主人の意向でそれぞれのしもべにそれらが託されているのです。
確かに、5タラントン、2タラントン、1タラントンという違いはどうしてなのか?私たちはそれを「比較」してみたくもなりますが、そういうものではないのです。先程申しましたように1タラントンというものは、最大級の単位であり、実にそれは膨大な重さ、価値なのであります。主人の財産を預り、託された者は「しもべ」とありますが。原語で「デユーロス」:奴隷を表す言葉です。それは単なる仕え人や奉公人ではないんですね。たとえの主人である私たちの主と出会う前、私たちはどうだったでしょう。不安や恐れ、罪や世の力のしがらみの奴隷となっていなかったでしょうか。私たちは「天の国」から遠く隔てたところに生きていたのです。しかし主は、そのような私と出会い、自らの命をその代価として私たちを世の力による奴隷の状態から贖い取り、解放してくださったのです。
そのことを思う時に、5タラントンもの財産を預ったしもべとはそれだけ、深く重い苦悩の中で、十字架の主イエスと出会い、解放の恵みを見出していった者のこと、と言えないでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙において、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれの異なった賜物を持っている」(12:6)と言っていますが。3人のしもべが預かった財産は一律ではありませんし、またその違いについて誰がいいか悪いかなどの優劣の評価など下せるものではありません。その人の信仰、主の恵みに応じてタラントンが預けられており、その活かし方、用い方もまた様々なのであります。

そういうことで本日の「天の国」のたとえが問題にしているのは、それぞれに預けられたタラントンの違いにではなく、タラントンそのもののもつ意味であります。それは5タラントンという最大級の価値あるものをも遥かに凌ぐ、いや他に比べることができないような価値ある「神の御救い、贖いの業」に外なりません。

この「タラントン」を受けた主のしもべは、それぞれの信仰に応じてその預ったタラントンを活かして用いるように招かれているのです。
ここでは、5タラントン預ったしもべは、それを倍の10タラントンにしたと報告しています。2タラントン預ったしもべは、それを倍の4タラントンにしたと報告します。
興味深いのは、主人がここで「お前は少しのものに忠実であった」と言っていることです。
まずここで主はしめべが、預かった物の多い少ないに拘わらず、彼らが「忠実であった」ということを喜んでいます。主のしもべにとって大事なことは、主より預けられたそのタラントンを忠実に預け主のために活かし、用いるということなのです。又、少しのものとあえて言われるのは、神の御救いという価値に比べ得る宝や賜物はないということを、このようにおっしゃったのではないでしょうか。賛美歌の「どんなよい業も神のひとり子、イエスの十字架の死には及ばぬ」という歌詞にあるとおりです。繰り返しますが、大事なのは、信仰の恵みによって5タラントンを預った主のしもべも、2タラントン預かったしもべも、それぞれが地上の生涯にわたり主人であられる主の意向に忠実に応えて生きるということにあります。2人のしもべは、旅から帰って来る主人を喜ばすための準備を忠実になしました。彼らは帰ってくる主人を喜ばせたかったのです。彼らは主人に感謝し、主人を愛していました。旅から帰って来た主人である主は言います。「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」。「主人と一緒に喜ぶ」というのは、天の国のこの上もない祝福に与る様子を表しています。この2人の心はその働きのうちにすでに天の国の喜びと希望があり、そのことがよい働きと結果を生み出したとも言えるのではないでしょうか。
 さて、今日のたとえにはもう一人、主人から1タラントンを預ったしもべのことが記されています。彼は「主人が蒔かないところから刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていたので、恐ろしくなって、その1タラントンを土の中に隠しておきました」と主人に報告します。彼はその1タラントンを失うことや目減りすることを恐れ、そのままの状態で保存しようと土の中に埋めたのです。それは主人である主の意向よりも、自分の身を守るということだけしか考えていなかった、ということです。
 主人は彼に言います。「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンを持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
 何ともユニークで厳しい不思議な主人の言葉ではないでしょうか。ここで、持っているというのは「主の信仰による恵み」のことを言っているのでしょう。主への懐疑や不信を抱く者はその恵みをも失います。主によって真に多くを赦された人、救いの恵みを真実に知る人は、その恵みの宝を主のために忠実に用い、活かすことを喜びとする人であります。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたに満ちあふれさせることがおできになります。」

主の宮なる教会堂建築の業を通して私たちの信仰が益し加えられ、天の国の働きがより豊かなものとされますよう主に信頼し、希望をもってここから新しい大阪教会のあゆみを始めてまいりましょう。現在病院や自宅療養中の幾人かより、新会堂が建った暁には、車椅子でも、とにかく教会に、礼拝に行きたい、というお声を戴いております。その日を待ち望みつつ、又教会と兄弟姉妹の一人も欠ける事のないように守られていきますように、絶えず祈りを合わせてまいりましょう。
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