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「それが何になりましょう」

2024-01-28 19:27:47 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ6章1~15節

私が学生の頃でしたが、あるパン製造会社が販売されたパンの包装袋に「Daily Bread」と印刷されているのを見つけました。
今もその表記はあるでしょうか?キリスト者であられた創業者が、聖書の「命のパン」から「日毎のパン」という思いを込められて製造販売されたことのようです。
今回の能登半島地震に遭われた被災地へ真っ先に、かのパン製造会社が支援配送カーを複数台送り出され当座のいのちのパンが届けられたようですね。

本日は先ほど読んでいただいた「5000人以上に食べ物を与えられた」主イエスのしるしの記事より御言葉に聞いていきたいと思います。
このエピソードはマタイ、マルコ、ルカの福音書にもそろって記されていますが、このヨハネ福音書に見られる特徴がいくつかございます。
まず一つ目は、通常ガリラヤ湖と呼ばれたところが、わざわざローマの支配のもとにあって「テベリアス湖」と言い換えられていることです。皇帝テべりアスにちなんでつけられた町の名からきたものでした。この地はローマの植民地下、圧政と搾取に脅かされていたユダヤ人はじめ周辺の異邦人たちも住んでいました。
そういう中、主イエスは力ある言葉としるしを行うのです。それを目の当たりにした人びとはイエスを自分たちの王にするために連れてゆこうとするのです。しかし主イエスが来られたのはこの地上の王になるためではなく、「神の業」、すなわち救いと解放の御業をなし、世に命と平和を与えるために来られたのです。

先日、外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会広島で2日間開催され出席してきました。通称「外キ協」は、日本に暮らす外国人の人権を守るために1987年に結成されたキリスト教超教派の全国ネットワークです。神に祝福されたゆたかな多民族・多文化共生の実現を宣教の課題としてさまざまな取り組みがなされてきました。
その後に持たれた外キ協主催による全国キリスト者集会にも参加しました。集会の中で、「外登法」下に学生として最初に「指紋押捺」を拒否された崔善愛さんによるショパンの曲のピアノ演奏と証しを聞きました。この「指紋押捺拒否」から多くの同胞による抵抗運動が起こり、それにキリスト教界や市民団体が支援に加わるうねりとなって裁判闘争になっていきました。善愛さんの裁判は地裁では敗訴、高裁では勝訴しました。しかし最高裁では敗訴となります。けれども天皇の崩御による恩赦によって有罪が取り消され、さらにこれまで積み重ねられ続けた押捺拒否運動及び、世界的な国際人権規約や差別撤廃条項に照らされるなかで遂に国は指紋押捺制度の撤廃へと追い込まれていくことになるのです。まさに真実と正義は立てられていくのです。
善愛さんは戦争によって翻弄されてきたショパンの歩んだ歴史とご自分のを歴史が重なりことに気づかれたそうです。ショパンがその魂の叫びや訴えを込めた曲を紹介されながらの演奏は、強く心に響いてきました。

話をもどしますが。
さらにヨハネ福音書にしかない記事は、5つのパンと2匹の魚をもっていたのが「少年」であった明記され、それを主イエスご自身が感謝の祈りを唱えて祝福されたパンと魚を、主イエスご自身がお腹が空いていた人に手渡され、その必要を満たされたということです。
その主イエスの愛あふれる姿にうれしくされます。
まあ、実際そのパンと魚を頂いた人たちはおなかも満たされたことでしょう。それは確かに人が生きていくために必要なものでありました。
しかしパンや魚は食べると無くなってしまいます。どんなにお腹いっぱい食べても空腹はまたやってくるのです。
申命記8章には、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されています。
食べ物は必要なものです。しかし食べ物があったとしても、魂の飢え渇きが満たされるとは限りません。人は主の口から出るみ言葉を日々戴くことによって、主の愛と恵みに養なわれ、朽ちることのない命に与って生きるものなるのです。

さて、これもヨハネ福音書に記されていることですが。このパンのしるしが行われたのは「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」(4節)時であったと明記されています。
「過越祭」とは、イスラエルの先祖の民がエジプトの奴隷の状態から解放された折、イスラエルの民が主に命じられたとおり、小羊の血を家の鴨居に塗ると、災いが通り過ぎる救いの出来事が起こるのです。その救いの出来事を忘れることなく代々にわたって語り伝えるためにイスラエルの民は、毎年「過越祭」を祝ったのです。その折にはやはり小羊が屠られ、神に献げられていました。
バプテスマのヨハネは主イエスと出会った時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いましたが。神は罪の世の奴隷となってやがて滅ぶほかないに滅ぶほかないような私たち人間を憐れまれ、御子、主イエスをお与えになりました。世の罪を取り除く神の小羊として十字架上で血を流し、ご自身のみからだを割いて罪のあがないを成し遂げられたのです。
主イエスは、人を救う「命のパン」となられたのです。
さて、5節「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われます。」
それに対してフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えるのです。
1デナリオンが当時の1日分の賃金に価されるようで、それは200日分の賃金ということです。
まあ大きな金額ですから、おそらく手元にはなかったのでしょう。もしあったとしても、それだけの食糧を調達できるような販売所は考えられません。いずれにしてもフィリポは群衆と自分たちは関係がないものだと思っていたのです。
すると、その隣にいた弟子のアンデレが主イエスに、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます」と答えます。
先に申しましたようにマタイ、マルコ、ルカの福音書にはこの少年が登場しません。ヨハネの福音書のみ「5つのパンと2匹の魚を持っていたのが」少年であったと伝えるのです。この当時、女性やこどもたちは人として数えられませんでした。群衆の5千人というのも成人の男だけの数であったのです。
そういう中でヨハネ福音書だけは、この少年の5つのパンと2匹の魚を主イエスが用いられ、そこにいたおそらく1万人近い人たちが満腹になるほど食べた出来事を伝えるのです。
しかしアンデレは、それが「何の役に立つでしょう」と主イエスに言うのです。
ちなみにこのアンデレの「何の役に立つでしょう」との言葉を、改訂版の新共同訳では「それが何になりましょう」と訳し、何かため息まで聞こえてきそうですが。アンデレもフィリポもどう考えてもそれは無理と思っていたのでしょう。
さて、ここで思い出したいのは主イエスがフィリポを「試そう」としてお尋ねになったということです。
それは、彼が主イエスを如何に信頼しているかという事でした。彼らはこれまで主イエスが人びとをいやされるしるしを見て来ました。しかしこの1万人近くに食料を出すという課題の大きさにだけ眼がいってしまい、主イエスが共におられるのに自分たちには無理だと考え、主イエスを信頼することができなかったのです。
この場に私がいたとしたなら、どうだろう。フィリポやアンデレのように目先で計算し、同様の受け答えをしてはいないだろうか、と考えさせられます。その時の彼らのように「私にはない」「私にはできない」、さらに「私には関係がない」という思いが先に来て、後ずさりしてしまうことがあるのではないでしょうか。
主イエスは私たちが何かを持っている、持っていない、できる、できないことを重要視しておられるのではありません。主が願っておられるのは、主ご自身がなさろうとしていることに私たちが期待をし、信頼するよう願っておられのです。主はフィリポやアンデレはじめ、弟子たちに「主」ご自身への信頼を学ばせる必要があったからです。これこそが、「5つのパンと2匹の魚」を通して示されている「信仰」であります。
この物語は、私たちが生の全領域において主の愛に信頼して生きるなら、主はどれほどゆたかに祝福たる者として用い、活かしてくださるかを、この5千人の給食は物語っているのであります。
朽ちることのない「命のパン」なる主イエス・キリストを信頼し、その愛と恵みによってゆたかに与る者とされてまいりましょう。

さて、主イエスは少年のパンと魚を受けとられ、さまざまな人、老若男女合わせると1万人いたかと考えられる人びとを前に、パンを取り、感謝と祈りを唱えてから、一人ひとりに分け与えられたのであります。        
弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。割いて分ければ分けるほど増えていくパンの不思議さを目の当たりしたからです。群衆も同様であったでしょう。主イエスはまた、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられたのです。

さらに12節では、「人々が満腹したとき、主イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と言われます。
この主イエスの「集めなさい」という言葉もヨハネ福音書だけに記されているのですが。
主イエスは弟子たちに、その「集めなさい」というなすべき働き、務めを指示されるのです。
「少しも無駄にならないように」というのは、命のパンとして来られ十字架で裂かれるその尊い犠牲。主はおからだを分け与えられるためにご自分のみ体を裂かれ命を差し出された。その主のご慈愛が「少しも無駄にならないように」との強い願いが込められているように思うのです。
まあ、「残りのパン屑」というと、残り物、残飯という感じがしますが。決してそうではありません。
たとえ小さなパン屑であっても、それは尊い救いの「命のパン」というご性質は変わるものではありません。そのパン屑を拾い集めていくことを主イエスは弟子たちに託されます。
それはまだ主の福音が行き亘っていないあらゆる人たちのところにも届けられていくためのものです。弟子たちが残りのパン屑を集めると、「12の籠いっぱいになった」とあります。
12はイスラエル部族の数を表すと言われますが。その12籠からあふれ出るパン屑は世界の隅々にまで蒔かれていくのです。私たちのもとにもそれは届けられて来ました。

ヨハネ6章27節で主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」といわれています。
主の御救いに与かった私たち一人ひとりも又、そのような主の働き人としてそれぞれが主に招かれているのです。
主イエスの命のパンに日毎に与りつつ、主の弟子としてそれぞれが遣わされた場所で、それをどう分ち合って生きるか。主への期待と祈り、そして信頼を、主は喜び祝福してくださるでしょう。

最後に6章35節のみ言葉を宣教を閉じるにあたりお読みします。
「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」。
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