宣教 フィレモンへの手紙
本日はフィレモンへの手紙より「愛する兄弟として」と題し、御言葉を聞いていきます。
この手紙は新約聖書の中で最も短いもので、使徒パウロからフィレモンという人物個人に宛てられたものであります。個人的に宛てられた手紙であるにも拘わらず、主の家である教会、神の家族としての豊かさ、キリストにある兄弟姉妹としてのよき関係を指南するものです。その主イエスが与えてくださった素敵な恵みを今日また御言葉から受け取っていきたいと思います。
手紙の受取人であったフィレモンについてですが、彼はかつてパウロがエフェソで福音を伝えていた時に、その救いのメッセージを聞いてキリスト者となったようであります。
その後コロサイの家の教会と深く関わり、家の教会にあって指導的な立場にあったようです。又彼は経済的にも富裕で、奴隷を所有していました。
このフィレモンにとってパウロは霊の父、信仰の師のような存在であったと言えます。
4節以降を読みますと、フィレモンがパウロの信仰に学びながら献身的思いを深め、愛に根ざした具体的働きを実践していった様子が伺えます。パウロも又、6節にあるように「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています」と、いつもフィレモンのことを覚えていたことがよくわかります。
次にこの手紙の目的ですが、それはかつて「フィレモンのところから逃亡した奴隷のオネシモをゆるし、彼を愛する兄弟として受け入れてほしい」というものでした。オネシモはフィレモンが所有する奴隷であったのですが、一説によれば主人フィレモンの金を奪い逃亡したとも言われています。その後、オネシモは捕えられ、パウロが伝道したために投獄されていたエフェソの牢屋でパウロと出会ったと考えられます。それを機に、オネシモは福音を聞いて自分の罪を悔改め、イエス・キリストを信じて救われ、キリスト者となったのです。不思議な主の導きでありますが。それからというもの、オネシモは牢獄においてパウロの様々な助け手として働いていました。手紙の中でパウロは、今やオネシモが「あなたにもわたしにも役立つ者になっています」。「私の心」とまで賞賛しています。
ちなみにオネシモという名には、「有益」とか「役立つ」という意味がありました。
彼はキリストの福音に触れる前までは、神のもとからも、主人フィレモンのもとからも失われた者であり、パウロが記しているように、かつては「無益」で「役立たない」存在でありました。まあその名とは正反対のものであったのですね。彼は唯奴隷として強いられて働く日々の中で、卑屈になり本来の名が表すような自らの存在価値を見出せずに、発揮することが出来ないで、そのような状況から唯逃げ出したかったのでありましょう。
しかし、彼はキリストの福音に出会い、神の愛と赦しを信じ受け入れることによって、オネシモという名、「有益」で「役立つ者」という素晴らしい存在の意義を真に見出すこととなるのです。
さて、パウロはオネシモがその信仰の成長と共に信頼に値する者となっていく中で、ある思いへと導かれます。それは逃亡奴隷オネシモを主人のフィレモンのもとに戻す、ということでした。
不自由な投獄中のパウロは諸説によれば眼病を患い長旅と迫害のため体に弱さを抱えていたといわれていますが。そのパウロにとってみればオネシモがそばにいて、手助けをしてくれることは決して小さくなかったでしょう。むしろ大いに必要な存在であったはずです。オネシモを戻すということは貴重な付き添い役を失うということになります。何より獄中にあって信仰の友、愛する兄弟といっていますが、それを失ってしまうことにもなります。今後のことを考えても、オネシモがそばにいてくれたらどんなにか助かることであったに違いありません。それでも、オネシモをフィレモンのもとに戻そうと決意したのは、必ずやオネシモはフィレモンのよき助け手となり、その家の教会とその地にあって主の福音のよき働きお人となって用いられるに違いないと、考えたからでありましょう。
パウロは、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」とまでいって、オネシモを執り成すのであります。
けれども一方、オネシモにとって主人のフィレモンのもとに戻るというのは、辛く痛みを伴うことであったに違いありません。かつて裏切って逃げ去った主人のもとに今さらながら戻ることなどできるのか、といった困惑の念にもかられたことでしょう。ひとたび自由を得たのにまた奴隷の身になるのかといった思い。帰れば当時のしきたりとしてひどい目に遭うかもしれないといった不安と恐れ。オネシモにとって主人フィレモンのもとに戻ることは、非常に困難な道、いばらの道であることに変わりなかったでありましょう。
それは、また、使徒パウロからの申し出を受けた主人フィレモンにとっても複雑な思いと葛藤が生じたはずです。許し難いという思いもあったでしょう。又、逃亡奴隷を何の処罰もせず迎え入れようものなら、当然世間の厳しい目がフィレモン自身に向かうことにもなります。人間的な思いとしたら、できればオネシモとはもう関わり合いたくないというのが正直な気持ちであったでしょう。お互いにもう会わない方が、傷つかず、厄介ごとも避けられる。互いの間には多くの感情的なわだかまりがあったことでしょう。
まこのように、パウロ、フィレモン、オネシモの三者それぞれに複雑な思いと葛藤があったことがよく読み取れるのであります。
しかしパウロはこう記します。15、16節「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。」
確かにオネシモは主人フィレモンを一時的に裏切り逃亡しました。しかしそれらのことも、信仰の光に照らすなら、すべては主の御手の業が明らかになり、フィレモンの家の教会にさらなる福音の恵みが満ち溢れるためのご計画であった、というのであります。
彼はもはや奴隷ではなく、愛する兄弟、主の家族の一員として迎え入れられる。それは他の奴隷たちにとってもどれほど大きな励まし、福音となるでしょうか。使徒パウロの、「愛する兄弟として」という言葉が今日私たちにも向けて語りかけられています。
先週O兄がほんとうに久しぶりに大阪教会の礼拝に戻って来られました。先々週、Y姉が旧会堂の片付けをしていた時この楽譜が出てきたそうです。これはO兄が小学生の頃作詞して、それに誰かが曲をつけているのですね。それを見ながらY姉は、何て素直で純粋な可愛いらしい詩だと感じつつも、「もったいないなあ、もう帰って来ることは難しいのかなあ」と思われたそうですが。その3日日後O兄から電話があり、「ボクはやっぱり神さまのところに帰るべきだと思って電話しました」と聞いて、もうひっくり返ったということです。「それは神さまも喜んでおられますよ」と電話を切った後、「神さま恐れ入りました」と言ったそうです。これは神さまのお導きであるということを知らされ、ほんとうに私ども主にあって喜び感謝しています。ご家族とご健康のためにお祈りします。
又、先日、大阪教会員で他行会員であられるY兄の奥様から突然お電話があり、ご主人が入院中でもし最期となった時は、お葬儀の司式をお願いできるでしょうか?というお申し出を戴きました。私はY兄とのご面識はないのですが。大阪教会のメンバーなので、すぐにご入院中の兄を奥様とご一緒に訪問させて戴きました。ご本人にお会いしてみると、酸素マスクもとれ今は歩行もでき、言葉も話されお元気な様子でした。病室で兄を囲み奥様と共に主にお祈りをささげることができ感謝でした。その後お話を伺っていきますと、ご両親は初期の大阪教会時代から主に仕えてこられた中心的信徒であることがわかりました。奥様は未信者でありますが、「主人のよろこぶことが何なのか考えた末、もし最期の時は、彼の信じているキリスト教でお葬儀をというのが一番いいという思いに至った」いうのですね。この日は、朝から大阪教会のことを主に祈っておりまして、その後にこのようなお電話があったのですね。これも神さまの福音のみ業、ご計画であるのでしょうね。大阪教会の建替えのこの年、主はほんとうに様々な出会いやご計画、お導きをもって私たちに臨んでくださっておられるということを、知らされます。
先週は仮会堂に移ってから最初の礼拝を捧げられましたが。如何でしたでしょうか。
何だかまだ地に足がついていない状態で、なんとなく慌ただしく、雑然として落ち着きがなかった感がありました。
私たちのこの集まりが何のためにあるのかということが改めて問われている気がいたします。世には快い集まりや集会はいくらでもありますが。遠いところから、又日曜日という体も休めたい、世間には楽しそうなイベントもある。そんな日と時間をこのために割き、礼拝の場へと皆さま集まって来られる。それはまさしく聖別して主にささげるためであり、世では与えられない真の魂の平安と喜びを慕い求めてこの場に集われているのではないでしょうか。私たちはかつて世に仕え、世の束縛のなかで、本来神さまから与えられた祝福と役割を見失って生きていましたが、今やイエス・キリストによって日毎、世の力からの解放に与り、自由な選択の中で、主に仕えて生きることを選び取り、こうして集まっているのです。それはお互いを、主にあって「愛する兄弟姉妹として」受け入れ合うキリストの招きによる集いです。
最後になりますが。ここに集われた一人ひとりは、オネシモのように主なる神さまによって見出された愛する子、互いに主にあるかけがえのない「愛する兄弟姉妹」であります。この主にある礼拝と交わりで確認するみ恵みをもって、それぞれがまたここから各々の生活の場、職場や家庭へと遣わされてまいりましょう。主のお導きやお働きは祈りのうちに覚えられ、その御業は気づかぬうちにもすでに起こされています。主は生きておられます。今週もそのような福音の力によって前進し、豊かな主のみ業とみ恵みを期待しつつ歩んでまいりましょう。
本日はフィレモンへの手紙より「愛する兄弟として」と題し、御言葉を聞いていきます。
この手紙は新約聖書の中で最も短いもので、使徒パウロからフィレモンという人物個人に宛てられたものであります。個人的に宛てられた手紙であるにも拘わらず、主の家である教会、神の家族としての豊かさ、キリストにある兄弟姉妹としてのよき関係を指南するものです。その主イエスが与えてくださった素敵な恵みを今日また御言葉から受け取っていきたいと思います。
手紙の受取人であったフィレモンについてですが、彼はかつてパウロがエフェソで福音を伝えていた時に、その救いのメッセージを聞いてキリスト者となったようであります。
その後コロサイの家の教会と深く関わり、家の教会にあって指導的な立場にあったようです。又彼は経済的にも富裕で、奴隷を所有していました。
このフィレモンにとってパウロは霊の父、信仰の師のような存在であったと言えます。
4節以降を読みますと、フィレモンがパウロの信仰に学びながら献身的思いを深め、愛に根ざした具体的働きを実践していった様子が伺えます。パウロも又、6節にあるように「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています」と、いつもフィレモンのことを覚えていたことがよくわかります。
次にこの手紙の目的ですが、それはかつて「フィレモンのところから逃亡した奴隷のオネシモをゆるし、彼を愛する兄弟として受け入れてほしい」というものでした。オネシモはフィレモンが所有する奴隷であったのですが、一説によれば主人フィレモンの金を奪い逃亡したとも言われています。その後、オネシモは捕えられ、パウロが伝道したために投獄されていたエフェソの牢屋でパウロと出会ったと考えられます。それを機に、オネシモは福音を聞いて自分の罪を悔改め、イエス・キリストを信じて救われ、キリスト者となったのです。不思議な主の導きでありますが。それからというもの、オネシモは牢獄においてパウロの様々な助け手として働いていました。手紙の中でパウロは、今やオネシモが「あなたにもわたしにも役立つ者になっています」。「私の心」とまで賞賛しています。
ちなみにオネシモという名には、「有益」とか「役立つ」という意味がありました。
彼はキリストの福音に触れる前までは、神のもとからも、主人フィレモンのもとからも失われた者であり、パウロが記しているように、かつては「無益」で「役立たない」存在でありました。まあその名とは正反対のものであったのですね。彼は唯奴隷として強いられて働く日々の中で、卑屈になり本来の名が表すような自らの存在価値を見出せずに、発揮することが出来ないで、そのような状況から唯逃げ出したかったのでありましょう。
しかし、彼はキリストの福音に出会い、神の愛と赦しを信じ受け入れることによって、オネシモという名、「有益」で「役立つ者」という素晴らしい存在の意義を真に見出すこととなるのです。
さて、パウロはオネシモがその信仰の成長と共に信頼に値する者となっていく中で、ある思いへと導かれます。それは逃亡奴隷オネシモを主人のフィレモンのもとに戻す、ということでした。
不自由な投獄中のパウロは諸説によれば眼病を患い長旅と迫害のため体に弱さを抱えていたといわれていますが。そのパウロにとってみればオネシモがそばにいて、手助けをしてくれることは決して小さくなかったでしょう。むしろ大いに必要な存在であったはずです。オネシモを戻すということは貴重な付き添い役を失うということになります。何より獄中にあって信仰の友、愛する兄弟といっていますが、それを失ってしまうことにもなります。今後のことを考えても、オネシモがそばにいてくれたらどんなにか助かることであったに違いありません。それでも、オネシモをフィレモンのもとに戻そうと決意したのは、必ずやオネシモはフィレモンのよき助け手となり、その家の教会とその地にあって主の福音のよき働きお人となって用いられるに違いないと、考えたからでありましょう。
パウロは、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」とまでいって、オネシモを執り成すのであります。
けれども一方、オネシモにとって主人のフィレモンのもとに戻るというのは、辛く痛みを伴うことであったに違いありません。かつて裏切って逃げ去った主人のもとに今さらながら戻ることなどできるのか、といった困惑の念にもかられたことでしょう。ひとたび自由を得たのにまた奴隷の身になるのかといった思い。帰れば当時のしきたりとしてひどい目に遭うかもしれないといった不安と恐れ。オネシモにとって主人フィレモンのもとに戻ることは、非常に困難な道、いばらの道であることに変わりなかったでありましょう。
それは、また、使徒パウロからの申し出を受けた主人フィレモンにとっても複雑な思いと葛藤が生じたはずです。許し難いという思いもあったでしょう。又、逃亡奴隷を何の処罰もせず迎え入れようものなら、当然世間の厳しい目がフィレモン自身に向かうことにもなります。人間的な思いとしたら、できればオネシモとはもう関わり合いたくないというのが正直な気持ちであったでしょう。お互いにもう会わない方が、傷つかず、厄介ごとも避けられる。互いの間には多くの感情的なわだかまりがあったことでしょう。
まこのように、パウロ、フィレモン、オネシモの三者それぞれに複雑な思いと葛藤があったことがよく読み取れるのであります。
しかしパウロはこう記します。15、16節「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。」
確かにオネシモは主人フィレモンを一時的に裏切り逃亡しました。しかしそれらのことも、信仰の光に照らすなら、すべては主の御手の業が明らかになり、フィレモンの家の教会にさらなる福音の恵みが満ち溢れるためのご計画であった、というのであります。
彼はもはや奴隷ではなく、愛する兄弟、主の家族の一員として迎え入れられる。それは他の奴隷たちにとってもどれほど大きな励まし、福音となるでしょうか。使徒パウロの、「愛する兄弟として」という言葉が今日私たちにも向けて語りかけられています。
先週O兄がほんとうに久しぶりに大阪教会の礼拝に戻って来られました。先々週、Y姉が旧会堂の片付けをしていた時この楽譜が出てきたそうです。これはO兄が小学生の頃作詞して、それに誰かが曲をつけているのですね。それを見ながらY姉は、何て素直で純粋な可愛いらしい詩だと感じつつも、「もったいないなあ、もう帰って来ることは難しいのかなあ」と思われたそうですが。その3日日後O兄から電話があり、「ボクはやっぱり神さまのところに帰るべきだと思って電話しました」と聞いて、もうひっくり返ったということです。「それは神さまも喜んでおられますよ」と電話を切った後、「神さま恐れ入りました」と言ったそうです。これは神さまのお導きであるということを知らされ、ほんとうに私ども主にあって喜び感謝しています。ご家族とご健康のためにお祈りします。
又、先日、大阪教会員で他行会員であられるY兄の奥様から突然お電話があり、ご主人が入院中でもし最期となった時は、お葬儀の司式をお願いできるでしょうか?というお申し出を戴きました。私はY兄とのご面識はないのですが。大阪教会のメンバーなので、すぐにご入院中の兄を奥様とご一緒に訪問させて戴きました。ご本人にお会いしてみると、酸素マスクもとれ今は歩行もでき、言葉も話されお元気な様子でした。病室で兄を囲み奥様と共に主にお祈りをささげることができ感謝でした。その後お話を伺っていきますと、ご両親は初期の大阪教会時代から主に仕えてこられた中心的信徒であることがわかりました。奥様は未信者でありますが、「主人のよろこぶことが何なのか考えた末、もし最期の時は、彼の信じているキリスト教でお葬儀をというのが一番いいという思いに至った」いうのですね。この日は、朝から大阪教会のことを主に祈っておりまして、その後にこのようなお電話があったのですね。これも神さまの福音のみ業、ご計画であるのでしょうね。大阪教会の建替えのこの年、主はほんとうに様々な出会いやご計画、お導きをもって私たちに臨んでくださっておられるということを、知らされます。
先週は仮会堂に移ってから最初の礼拝を捧げられましたが。如何でしたでしょうか。
何だかまだ地に足がついていない状態で、なんとなく慌ただしく、雑然として落ち着きがなかった感がありました。
私たちのこの集まりが何のためにあるのかということが改めて問われている気がいたします。世には快い集まりや集会はいくらでもありますが。遠いところから、又日曜日という体も休めたい、世間には楽しそうなイベントもある。そんな日と時間をこのために割き、礼拝の場へと皆さま集まって来られる。それはまさしく聖別して主にささげるためであり、世では与えられない真の魂の平安と喜びを慕い求めてこの場に集われているのではないでしょうか。私たちはかつて世に仕え、世の束縛のなかで、本来神さまから与えられた祝福と役割を見失って生きていましたが、今やイエス・キリストによって日毎、世の力からの解放に与り、自由な選択の中で、主に仕えて生きることを選び取り、こうして集まっているのです。それはお互いを、主にあって「愛する兄弟姉妹として」受け入れ合うキリストの招きによる集いです。
最後になりますが。ここに集われた一人ひとりは、オネシモのように主なる神さまによって見出された愛する子、互いに主にあるかけがえのない「愛する兄弟姉妹」であります。この主にある礼拝と交わりで確認するみ恵みをもって、それぞれがまたここから各々の生活の場、職場や家庭へと遣わされてまいりましょう。主のお導きやお働きは祈りのうちに覚えられ、その御業は気づかぬうちにもすでに起こされています。主は生きておられます。今週もそのような福音の力によって前進し、豊かな主のみ業とみ恵みを期待しつつ歩んでまいりましょう。
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