日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスこそ、良き羊飼い

2024-02-04 15:50:16 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ10章7-18節 

旧約聖書のエゼキエル書34章には、羊を養わなかった羊飼いの話が出てまいります。
それは、かつてのイスラエルの指導者たちに対する神の告発でした。
主は預言者エゼキエルを通して次のように語られます。
「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」(1-5節)
ここを読むと、これは今日も世界や国内において起こっていることのように思えるのであります。
いつの世にあっても、至るところで同様の告発がなされていることを覚えるのであります。社会的指導者であれ、宗教的指導者であれ、又様々な分野で指導的立場にある者はみな、その立ちどころを神さまからいつも問われているのです。
本日は「主イエスこそ、良き羊飼い」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

さて、羊という動物は日本に住む私たちにはまあ動物園以外あまりなじみがないという人が多いのではないでしょうか。家畜として飼われているところを目にする機会はそうないでしょう。ましてや野生の羊など見たことも聞いたこともありませんが。
羊というのは弱い動物です。狼などに襲われたら自分で自分を守ることが出来ません。羊は弱視のため気づきにくく、気づいたところで牙も角も無いので逃げるにしてもすぐに追いつかれてしまいます。又、他の動物に比べて自ら生きていく術を知りませんから、羊飼いが群れを養い守ることが不可欠であったのです。
まあ私たち人間もそうですが。ある意味私はひとりで生きられる、と言ったって、たとえばポツンと一軒家に住んでいたって、何がしかの助やお世話を頂いているものです。
私たちも羊のように全くの孤立した中では生きてはいけません。

そういう中でこのヨハネ福音書は、イエスさまが「わたしは良い羊飼いである」と仰せになったことを伝えます。
今日の箇所で言われた、「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」の「わたしは~である」という言葉は何回も出てまいります。原語で「わたしこそは」と非常に強調された意味合いをもつ言葉です。いわばそこに主イエスとしての権限を表わしているのです。
イエスさまが「わたしこは~である」と言われたとき、それは神の権能をもっているということです。それをイエスさまはここで言い表されたのです。

それでは、その真意について見ていきたいと思います。
まず、「わたしは、羊の門である」とおっしゃったことについてでありますが。
羊飼いは羊を外敵から守るために、羊が飛び越えられない高さに石垣などを積み上げて囲いを造ります。夜になるとその囲いに羊を入れます。
その囲いの門のところには門番がいて、羊の世話をしに入って来る羊飼いだけにその羊の門を開いたそうです。ですから、門から入らずに囲いを乗り越えて入ろうとする者は盗人や強盗でした。
朝になると羊飼いは羊の名を一匹ずつ呼びながら囲いの外へ連れ出したのです。
羊たちは羊飼いの声をよく知っているので羊飼いについて行きます。しかし自分の羊飼い以外のものには決してついていかないのです。
この「羊の門」は羊飼いと羊のために開かれているのですから、そこを通らずに入るものは羊を奪って食い物にする盗人、強盗ということです。
イエスさまはここで、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。それは、イエスさまが来られる前から力をふるい民を支配下においてきた指導者たちのことを言い、最初にエゼキエル書の預言者の言葉を読みましたが、人々の生きる力と生活を損なっていました。
自分たちは律法を厳守する特権階級であることを誇り、高慢になって人々を見下して裁き、裁いていたのです。表面的に羊たちを養っているようで、実際には自分自身を養うことにしか関心がないのです。
人々の救いを願っていたのではなく、自分が人々からいかによく思われ、尊敬されるかということばかりを考えている、神のお心を思わず自分の地位が守られ、満たすことばかりを考えている指導者たちが多くいたのです。
イエスさまはそんな指導者たちの魂胆を見抜いて、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(1.10節)と、厳しく指摘されるのです。

そういう現状にあって、イエスさまは「わたしは、羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。
この牧草とは神のいのちのみ言葉であります。人はそれを頂くことによって生かされ、ゆたかに神の養いを受けるのです。イエスさまこそ救いの門なのです。

さらに、イエスさまは「わたしこそ、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。
命を棄ててまでも羊を救い守る羊飼い。それがイエスさまなのです。
イエスさまは羊飼いではない自分の羊を持たない雇い人と、ご自身との違いについて明らかにされます。羊を持たない雇い人は自分の羊ではないと思っているので、羊のことを心にかけていません。お金をもらえるからそうしているだけで、自分の羊じゃありませんから愛情もなく、羊をいわば物のように扱い数字で数えて、自分たちの利益や業績につながる物としてしか捉えていないのです。
けれどもイエスさまは良い羊飼いであって、14節でおっしゃるようにご自分の羊を知っておられます。その一匹一匹の名を呼び出すように知っていてくださるのです。
その羊も又、羊飼いであるわたしを知っている、とイエスさまは言われるのです。
父なる神がイエスさまを深く愛しておられるように、イエスさまと私たちとの関係も強い信頼によって結ばれているということです。その愛と信頼の関係が「知る」という言葉に言い表されているのです。
この世の中で、まるで弱く、さまよいやすい羊のように生きざるを得ない私たち人間にとって最も厄介なのは、イエスさまの愛と救いから私たちを引き離そうとする力であります。それはこの地上にある限り私たちの内にも外にもたえず働きかけてきます。
だからこそ、私たちは毎日羊飼いであられる主に呼ばれているみ声に耳を澄まして聞いていき、羊の門を出入りする羊のようにイエスさまのいのちのみ言葉を日毎に頂き、その信頼を育んでいくことが大切なのです。
イエスさまは、「わたしは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる」と言われたとおり、父なる神に従われていのちまでおささげになって、私たち人間を罪の力から解き放ち、救い出してくださいました。私たちはこのイエスさまの愛によって生かされていることに日々思いを馳せていきたいと思います。
この後持たれます主の晩餐の中で、イエスさまを通して顕された神さまの愛と救いを心に刻んでいきたいと思います。
世の巷には偽物の救いが溢れています。目先の安心や楽しみを提供する偽りの雇い人がそこかしこにもいっぱいです。本ものの救い、本ものの平安、本ものの命を示され、与え、導いてくださる良き羊飼いイエスさまのみ声に聞き、信じ、従ってまいりましょう。

さて、イエスさまはさらに「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)と言われます。
ほかの羊とは、特権をユダヤ人たちから、いわば罪人や異邦人と呼ばれたていた人たちを指していました。
「良い羊飼い」に出会えず、信頼も安心も得られないような不安と恐れの中で、命の危機にさらされ続けていた羊たち。
しかし神の愛、イエスさまのいつくしみの眼差しが囲いの外にいる羊に向けられているのです。
イエスさまは危険をかえりみず、囲いの外に捨て置かれて飼い主のいない羊のように打ちひしがれる人、暗闇の中をさまよっている人のもとに出かけて、探し出し、出会われるのです。
そして最期には、父なる神の御心、すなわち御子イエスを信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るために、その愛によって尊いいのちを差し出されるのです。
しかし神の御業はそれで終わりません。イエスさまは再びいのちをお受けになり、復活なさって神の栄光を顕されるのです。すべての人は神の救いであるこの良き羊飼いに導かれつつ、天の門に入る救いと祝福へと日々招かれているのであります。

最後に聖書教育「毎日のみことば」のコラムに次のようなコトバが綴られていましたので、お読みして本日の宣教を閉じます。
「宣教とは、そこで既に働いておられる神に出会い、福音を知っている者が知らない者に教える関係でなく、福音の恵みに共に与る豊かな生き方なのです。」
この世界と人と人の間に、すでに神さまがなしてくださっておられる恵みの御業に共にあずかり、分かち合っていく者とされてまいりましょう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2024/2/4 主日礼拝式 | トップ | 2024/2/11 主日礼拝式 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿