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一デナリオンの約束

2013-02-18 11:51:20 | メッセージ
宣教 マタイ20:1-16

2月はマタイ福音書より「天の国」について聞いておりますが。本日のイエスさまが語られる「天の国」はぶどう園の主人と労働者にたとえられています。この「天の国」のたとえは前の19章での「子供を祝福するイエスさま」「金持ちの青年とイエスさまとの問答」「世の富についての弟子たちとイエスさまとの問答」というそれらのエピソードを受けるかたちで語られたものです。それらのお話に共通していますのは、「天の国」についてであり、又そこに入る条件や資格、報いについてであります。

弟子のペトロはイエスさまに「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねますが、それに対してイエスさまは、「報酬を求めてわたしについてくるなど何事か」などとはおっしゃいません。あなたがたもわたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」とお約束くださるのです。
よく、ご利益を求める宗教は本物の宗教ではないとも言われたりいたしますが。しかし、この世にあって生きていくための力や励みになることが宗教にないのなら、いくら知識や口先で立派なことが説かれたとしても人の心に届きませんし、第一神さまは生きておられ、その愛する者のほんとうの幸いを願わずにいられないお方なのです。
「教会の礼拝や祈祷会に来て見なさい、いいことがあり、祝福があるから」というのは決して嘘ではなく、本当であります。それは理屈ではなく、天の父なる神さまとの交わりに与り、触れ、つながるところから来る報いやご利益はあるのです。むろん根底における最大の祝福は、救い主イエス・キリストによる罪のゆるしであり、創造主・父なる神さまとの交わりの回復であることは言うまでもありません。まあ、そういう意味からすれば、報いという考えは一切捨てなければならない、報いなど考えてはいけないというのも、おかしなことでありましょう。

 イエスさまはその一方で弟子たちにこうおっしゃいます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
このイエスさまの「天の国」のたとえの中で、まず私がひっかかるのは皆さんもそうだと思うのですが、労働時間のことであります。この労働を神のためになす奉仕や働きと考えるなら、一番先に雇われた労働者は、イエスさまの弟子たちのことが念頭に置かれていると読むことも出来るでしょう。彼らは一日につき一デナリオンの約束で、ぶどう園に送られていきます。まあ朝早くから夕暮れまでイエスさまに仕え従って来た人たちであり、ずっとイエスさまのおそばにいた人たちであったといえます。それは例えて言うなら、クリスチャンホームに生れ育った人や比較的早いうちから長い信仰生活を送っている人たちのことにもたとえることができましょう。また、主人は九時ごろに何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言います。青年期に導かれ、主に従って生きる決意を持ってあゆむ人などはそこにあてはまるのかも知れませんね。さらに主人は、12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにします。その後でぶどう園に行った人々は、一デナリオンという報酬の約束はなかったのですが、一応相応しい賃金が支払われるということで、ぶどう園に彼らも行くのです。この人たちもまあ先の人々と同様、主なるイエスさまの言葉に聞き従った人々といえます。そして最後に主人は夕暮れ前の5時ごろにも行き、「だれも雇ってくれないのです」と途方に暮れて仕事からあぶれていた人々にも、「ぶどう園に行きなさい」と言います。さて、その最後にぶどう園に行った人々とはどういう人たちだったのでしょうか。彼らはぶどう園に行って働きたかった。しかし、雇ってくれる人がなくて働けず、夕方前までそこでじりじりとした思いを抱えながら待つほかなかった人々です。彼らが主人から「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言われた時、彼らは報酬の保証もないなかでただ主人の招きに応えてぶどう園に行きました。

注目したいのは、9時、12時、3時に雇われた人たちも、主人から一デナリオンの約束はなかった。「ふさわしい賃金を支払ってやろう」と言われただけなのです。さらに5時からの人などは、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」とだけ言われています。彼らには報酬の約束や労働の賃金保証など全く見込まれていなかったということであります。

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言い、そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取ったのです。
きっと、この支払われた賃金は彼らの想像を超えたものであったでしょう。その労働時間の対価としては到底考えられないような破格のものであったはずです。彼らの喜びと主人への感謝の声が聞こえてくるようです。
そして、最初に雇われた人たちはその順番が回って来た時、自分たちはもっと多くもらえるだろうと期待していたに違いありません。ところが、彼らに渡された報酬も又同じ一デナリオンであった、というのです。彼らとしてはおさまりがつきませんから、受け取ると、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と、主人に不平を言ったというのです。

このところを読みますと、「うん、何で長時間働いた人たちと超短時間働いた人たちの賃金が同じなのか」と、そう思いますよね。確かに、だれが見ても不公平なように思えます。
どうして働いた分・労働時間の違いによって賃金の格差をつけて支払われないのか、と考えます。それが世の一般的な経済や仕事の論理であります。一般論としてそのように見れれば、これはおかしな賃金支払いということになります。

けれども、この「天の国」のたとえで、最後の5時からぶどう園に行った人たちは、働きたくても働く場所や機会が与えられていなかったということを見落としてはならないでしょう。彼らに与えられた仕事は僅か1時間であったかもしれませんが、それまでの彼らの不安や悶々とした思いをぶどう園の主人はすべてご存じであったのです。働きたくても思うように働く場を得られない苦しさは大変なものでありましょう。

聖書教育1997年度版の中で、止揚学園の福井達雨園長の次のような文書を引用されているのを目にしてなるほどと思わされたのですが。それは「子ども笑顔を消さないで」のご著書の中に、「目に見える生産性から見れば、私が5の仕事をした時、障害者は1の仕事しかできません。でも、今、同じ仕事をしているのですが、私が1の目に見えない努力をした時、あの人たちは、5の努力をしなければいけません。この生産性と努力性は、同じ価値だと思います」と福井先生の実体験からこのようなことをおっしゃっています。

ここでイエスさまは世の経済的論理ではなく、「天の国」のたとえとしてこのお話をなさっているわけです。このたとえで、朝早く来て夕暮れまで一日働いた者、又途中から働いた者、そして夕暮れの仕事が終わる直前に来た者も、等しくふさわしい対価として一デナリオンが支払われているということは、天の父なる神さまは、どのような人のどんな働きであったとしても、その一人ひとりを尊く価値ある存在として愛し、慈しんでおられるということを示しています。「いろいろと疲れて礼拝に出るのがやっとです」。それでよいのです。礼拝に出席することは神の国の大切な働きです。「私は祈るくらいしかできません」。いえ、祈りも立派な神の国の労働です。主はかならず報いをお与えくださるのです。
このたとえでは、具体的に一デナリオンとありますけれども。これは当時の一日の労働に対する対価・賃金ということです。日当ということです。その日を最低生きていくために必要なもの、人が生きるために必要な分、命を支える糧とも言えましょう。それを天の神さまは保証してくだるお方であられるのです。
 しかし、それだけではありません。ここには「天の国」の奥義が示されています。それは、この「一デナリオン」が、イエス・キリストご自身によって与えられる御救いである、ということです。

つまり、すでにイエスさまの招きに応えて従っているお弟子たちは、その救いによる「永遠の命を受け継ぐ」約束を戴いているということです。しかし後で主の招きを受け取った人たちはどうなのでしょう。5時からぶどう園に行って働いた人たちには、いくら支払うからといった約束や保証は何もありませんでした。あるとすれば、とりあえずぶどう園で働く機会を得た感謝と、まじめに働けば少しはよくしてもらえるかも知れないと言うほのかな期待です。
ところが、天の父なる神さまは、このような人々にも等しく、主の救い・「永遠のいのちを受け継ぐ」と言う途方もない報酬を下さるのであります。どれほど気前のよい主人でしょうか!私たちの主は。この「天の国」のたとえは、主の招きに期待をもって応えて行くとき与えられる、まったく一方的な救いの恩寵を示すたとえなのであります。
確かに、主の救いは人間の側の奉仕や労働によって左右されるものではなく、主の招きに応えていった者に恩寵として与えられることは分かります。じゃあ信仰生活の奉仕や献身、様々の働きがなくても「救い」は全く同じであるのなら、その奉仕や働きに何の意味があるのか?しなくてもいいのでは、というような思いも出てくるのが人情です。
 最初に雇われた人たちの不平は、まさにそこにありました。朝早くから働き、昼は太陽が燦々と照りつける中を辛抱しながら、汗を流し労したことは無駄であったのか?大変な損をしたのか?果してそうでしょうか?
有名なルカ15章の「放蕩息子」のたとえの後半部分で、父が放蕩の生活を悔い改めて帰って来た弟息子を手厚く迎え入れた時、その弟への待遇に怒った兄が父に不平を今日の箇所の最初に雇われた人たちと同じようにぶつけています。それに対して父は兄息子に言います。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。これが、兄息子の何よりもの恵み、恩寵であったのです。
 最初にぶどう園で雇われた人たち、イエスさまのお弟子、そして信仰生活も長く奉仕や働き、それに伴う苦労や忍耐、様々な経験のある信仰者は、よくよく考えますとその魂の根底のところでたえず父の神とつながり、そこから実に幾つもの数えきれない幸いや報いに与っているのではないでしょうか。たとえ、その働きに苦しみや重荷を負うことになっても、主の御言に聞き従い、神の国と神の義を追い求め祈りつつ進に行く時、そこに必ず報いがあります。ただそれに私どもが気づくかどうかということが、このたとえに示されているのであります。ですから、最初にぶどう園に雇われた人たちというのは、後の人に比べて苦労や重荷ばかりで損しているというのではなく、やっぱり得をしているのです。
イエスさまは、この天の国のたとえを通して、そばにいた弟子たちに、「お前たちは、すべてを捨ててわたしに従って来たのは、ほんとうに幸いなことなんだよ」と、おっしゃっているのです。主は私たちのあらゆる状況や事情、持てる力すべてをご存じです。大切なのは、マザーテレサさんがおっしゃったように、「どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」。
私どもも又、たとえ小さな者でありましても、神の国のぶどう園で働く者としてイエスさまはその御救い、「一デナリオンの約束」をしっかりとくださっているのです。
 主の招きに応えて、父の神さまは計り知ることのできない恵みと幸いを与えてくださるとの、信仰の確信をもってあゆんでまいりましょう。
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