礼拝宣教 イザヤ25章1-9節 待降節Ⅲ
私たちの日常において、まぁこの慌ただしい師走もそうでしょうが、私たちはなかなか待つということが苦手ではないでしょうか。車の運転も急いでいるときに、渋滞に出くわすと、もうイライラしてしまいます。車線をたびたび変更して前に進もうとすることもあります。パソコンを開こうとオンにしてもなかなか画面が開いてくれない、操作中にも反応が遅い時、苛立つこともあります。買い物のレジや銀行のATMに長蛇の列ができて、なかなか前に進まない。少しでも流れの良い列が他にはないか右往左往する。「待つ」と言うことにはまことに忍耐が要りますね。
先週、知り合いの方からある機関誌の「祈りの絆」の原稿依頼が思いがけず届きました。せっかくでしたが、当面の事情を考慮させていただいた上でお断りしました。すると、その方から「数年後スケジュールにゆとりの出た頃、改めて執筆をお願いいたしますね」と言う丁寧でありがたいお返事をいただきました。慌ただしい中にも自分を押し通そうとするのでなく、そういう「待っていますね」「次に期待しますね」と言うような心遣いは嬉しいものです。自分もそのようでありたいなと思いました。
先週、知り合いの方からある機関誌の「祈りの絆」の原稿依頼が思いがけず届きました。せっかくでしたが、当面の事情を考慮させていただいた上でお断りしました。すると、その方から「数年後スケジュールにゆとりの出た頃、改めて執筆をお願いいたしますね」と言う丁寧でありがたいお返事をいただきました。慌ただしい中にも自分を押し通そうとするのでなく、そういう「待っていますね」「次に期待しますね」と言うような心遣いは嬉しいものです。自分もそのようでありたいなと思いました。
今日のイザヤ書25章には、この世が移り、変わろうとも、決して変わることのない約束があること、また、それはどんなに時間がかかったとしても必ず実現することが語られています。本日はこの希望を「待ち望んで生きる」と題してお話をさせていただきます。
詩篇39編7節から8節にはこうあります。「ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。主よ、それなら何に望みをかけたらよいでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」。
私たちが食べるのにも着るにも生活するためには、紙幣や貨幣を通して決済がなされています。それを銀行にも預けています。たとえわずかでも利子がつくところに預けたりもします。でも紙幣は万が一の事態になると紙切れ同然のものとなってしまいます。
近年は現金ではなく、クレジットカードやスマホアプリから決済したりもしていますが。これも万が一データバンクに大きな不具合が生じるとどうなるのか見当もつきません。
私たちはそれらを利用することも多いのですが、それは私たちが社会のルールとその取り決めを一応は「信頼している」からです。そうでなければ、社会の営みや私たちの生活はなり立ちません。しかし、そういった社会や人に対する「信頼」が揺るがされることの多い昨今であります。
先の詩篇には「ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るかも知らずに積み上げる」。その人は「主よ、それなら何に望みをかけたら良いでしょう」と問いかけます。
そして、「わたしは、主よ、あなたを待ち望みます」と宣言するのです。
それは、この世の限りある保証などではない永久に変わることのない確かさを主ご自身に見出したから、そう言い得たのです。
詩篇39編7節から8節にはこうあります。「ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。主よ、それなら何に望みをかけたらよいでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」。
私たちが食べるのにも着るにも生活するためには、紙幣や貨幣を通して決済がなされています。それを銀行にも預けています。たとえわずかでも利子がつくところに預けたりもします。でも紙幣は万が一の事態になると紙切れ同然のものとなってしまいます。
近年は現金ではなく、クレジットカードやスマホアプリから決済したりもしていますが。これも万が一データバンクに大きな不具合が生じるとどうなるのか見当もつきません。
私たちはそれらを利用することも多いのですが、それは私たちが社会のルールとその取り決めを一応は「信頼している」からです。そうでなければ、社会の営みや私たちの生活はなり立ちません。しかし、そういった社会や人に対する「信頼」が揺るがされることの多い昨今であります。
先の詩篇には「ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るかも知らずに積み上げる」。その人は「主よ、それなら何に望みをかけたら良いでしょう」と問いかけます。
そして、「わたしは、主よ、あなたを待ち望みます」と宣言するのです。
それは、この世の限りある保証などではない永久に変わることのない確かさを主ご自身に見出したから、そう言い得たのです。
今日のイザヤ書25章1節にもこのように信仰告白がなされています。
「主よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からのゆるぎない真実をもって」。
ここで、イザヤは主にこそ望みをおくのです。この「あなたは驚くべき計画を成就された」は英語で言えばit has been。
いわば成就されていると言う状態がずっと続けられている、ということです。
もう少し詳しく言いますと、この「驚くべき計画」は、神の御前において既に成就されていましたが、それを人が目の当たりにするのはイザヤの時代から700年後に人となりし神の言(ことば)イエス・キリストを、神がこの地上に生み出してくださったその時であります。
それは、その時代だけに終わってしまったのではなく、今なお、キリストは生きられ、私たちと共におられるお方である、ということなのです。
ここで、イザヤは主にこそ望みをおくのです。この「あなたは驚くべき計画を成就された」は英語で言えばit has been。
いわば成就されていると言う状態がずっと続けられている、ということです。
もう少し詳しく言いますと、この「驚くべき計画」は、神の御前において既に成就されていましたが、それを人が目の当たりにするのはイザヤの時代から700年後に人となりし神の言(ことば)イエス・キリストを、神がこの地上に生み出してくださったその時であります。
それは、その時代だけに終わってしまったのではなく、今なお、キリストは生きられ、私たちと共におられるお方である、ということなのです。
ヨハネ3章16節から17節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と、そのようにございます。
イザヤは神なきお暗き世にあって、主の言葉に聞き従い、神の救いと神の国の到来を確信し、日々確認しつつ生きたのです。
それが信仰であります。
その根拠は事実で確かなる神の言葉です。ヘブライ人への手紙11章1節、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
それが信仰であります。
その根拠は事実で確かなる神の言葉です。ヘブライ人への手紙11章1節、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
先程の詩篇の作者も移りゆく世の中にあって、「私はあなたに望みをかけます」と語った。
ここでイザヤも「あなたはわたしの神」と、その確証によってまだ肉の目では見ていないにもかかわらず、主をあがめ感謝をささげます。ここに礼拝の原点があります。
それはこの教会堂で捧げられる礼拝に限らず、どこにいてもまたいつでも、何をしていても、「わたしはあなたに望みをかけます」「あなたはわたしの神」と、主と向き合って、まだ見ずとも希望を見出し、平安や喜びをいただく。そのように主と主の助け、救いを待ち望みつつ生きる。それが礼拝であります。
この日曜の礼拝も、水曜の学びや祈り会も、そのように信仰の確信をいただき、それが日常において継続され、救いを生き続けるためには必要なのです。
集うことが困難な方もいらっしゃいますので、礼拝をzoomや音声の配信の他、今後も工夫をして行かなければと願っております。
今年は12月24日が日曜日となり、私たちの教会では午前のクリスマス礼拝と、夕方にも燭火礼拝(クリスマスキャンドルサービス)が行われます。久しぶりに、また初めて一昨日になる方もとともに、感謝と喜びに満たされるクリスマスとなりますよう願っております。
さて、イザヤは6節で次のように語ります。「万軍の主は、この山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉と選り抜きの酒」。
「この山」と言うのは、何を表しているのでしょうか。
それは神の言葉によって告知されているように、聖書の終末の日、主の来臨によって神のご計画が完成される時。全き裁きがなされ、主こそが王となられて、神の栄光が表される、その「山」であります。
ここでイザヤも「あなたはわたしの神」と、その確証によってまだ肉の目では見ていないにもかかわらず、主をあがめ感謝をささげます。ここに礼拝の原点があります。
それはこの教会堂で捧げられる礼拝に限らず、どこにいてもまたいつでも、何をしていても、「わたしはあなたに望みをかけます」「あなたはわたしの神」と、主と向き合って、まだ見ずとも希望を見出し、平安や喜びをいただく。そのように主と主の助け、救いを待ち望みつつ生きる。それが礼拝であります。
この日曜の礼拝も、水曜の学びや祈り会も、そのように信仰の確信をいただき、それが日常において継続され、救いを生き続けるためには必要なのです。
集うことが困難な方もいらっしゃいますので、礼拝をzoomや音声の配信の他、今後も工夫をして行かなければと願っております。
今年は12月24日が日曜日となり、私たちの教会では午前のクリスマス礼拝と、夕方にも燭火礼拝(クリスマスキャンドルサービス)が行われます。久しぶりに、また初めて一昨日になる方もとともに、感謝と喜びに満たされるクリスマスとなりますよう願っております。
さて、イザヤは6節で次のように語ります。「万軍の主は、この山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉と選り抜きの酒」。
「この山」と言うのは、何を表しているのでしょうか。
それは神の言葉によって告知されているように、聖書の終末の日、主の来臨によって神のご計画が完成される時。全き裁きがなされ、主こそが王となられて、神の栄光が表される、その「山」であります。
その日は大いなる祝宴の日であり、その主の祝宴にはすべての民が招かれると言うのです。
4節には、「まことに、あなたは弱い者の砦。苦難に遭う貧しい者の砦」と語られているように、この主の祝宴は、世にあって、弱い立場に置かれている人、苦しみと困窮の中に置かれている人たちが覚えられ、招かれていることを知ることができます。
私たちの教会では「主の晩餐」を礼拝の中で行っていますが。
これは、主が成し遂げてくださり、今もそして永久に変わることのない救いの約束を確認し、この神の国の完成を待ち望みつつ、今既にそれをすでに受けているという確信をもって生きるためのものであります。
その始めに読まれる招きの言葉には、「私たちは、この主の晩餐において、主イエスの尊い恵みを思い起ます。主イエスが、人の世で小さくされている者を受け入れ、食卓を共にしてくださったこと。すべての者に仕え、すべての者のために苦しみ、十字架に至るまで愛し通してくださったこと。主なる神が、このイエスを死よりよみがえらせ、永遠の命への希望を開いてくださったこと。それらすべてのことを私たちは思い起ます」と、ございます。単に思い起こすのではなく、私たちは今それを受け取って生きていることを確認するのです。
4節には、「まことに、あなたは弱い者の砦。苦難に遭う貧しい者の砦」と語られているように、この主の祝宴は、世にあって、弱い立場に置かれている人、苦しみと困窮の中に置かれている人たちが覚えられ、招かれていることを知ることができます。
私たちの教会では「主の晩餐」を礼拝の中で行っていますが。
これは、主が成し遂げてくださり、今もそして永久に変わることのない救いの約束を確認し、この神の国の完成を待ち望みつつ、今既にそれをすでに受けているという確信をもって生きるためのものであります。
その始めに読まれる招きの言葉には、「私たちは、この主の晩餐において、主イエスの尊い恵みを思い起ます。主イエスが、人の世で小さくされている者を受け入れ、食卓を共にしてくださったこと。すべての者に仕え、すべての者のために苦しみ、十字架に至るまで愛し通してくださったこと。主なる神が、このイエスを死よりよみがえらせ、永遠の命への希望を開いてくださったこと。それらすべてのことを私たちは思い起ます」と、ございます。単に思い起こすのではなく、私たちは今それを受け取って生きていることを確認するのです。
この地上においては、国や民族、生まれた地によって命の選別が行われています。また命に優劣をつける優生思想がはびこっています。
しかしここに語られてますように、主はだれの命もみんな尊い存在とされます。又、主に倣い、だれもが互いの命を大切にすることを主は願っておられます。主の祝宴の真ん中には弱く小さくされている人、またそう見なされている人、困窮する人たちが招かれ、彼らは主を大いにほめたたえて、主は栄光をお受けになります。
しかしここに語られてますように、主はだれの命もみんな尊い存在とされます。又、主に倣い、だれもが互いの命を大切にすることを主は願っておられます。主の祝宴の真ん中には弱く小さくされている人、またそう見なされている人、困窮する人たちが招かれ、彼らは主を大いにほめたたえて、主は栄光をお受けになります。
さらに、主の慈しみを知った暴虐な者らは主の前にひれ伏し、静まります。こうしてすべての民は大なる主の豊かな恵みをふるまわれる事となるのです。
その終末のとき、7節から8節のところには、「主はその山で、すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」と語られています。
その終末のとき、7節から8節のところには、「主はその山で、すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」と語られています。
その布は、主なる神と私たちの間を遮るものとして覆っていた罪であります。それが取り除かれるということです。主イエス・キリストによる罪のあがないにあずかっている私たちではありまが。聖書には、「罪が支払う報酬は死である」(ロ-マ6:23)とございます。この死が主によって拭い去られたことで、永久に死が滅ぼされる、主の勝利に呑み込まれるというのであります。
そして顔と顔とを合わせて直接、主とお会いする祝福の時が訪れるのです。
さらに、「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」と語られます。
この世界には不条理なことどもに涙し、嘆き、泣き叫んでいる人が数え切れないほどいます。
しかしそれも終りが来ます。神御自身が嘆き、泣き叫んでいる人たちの涙をぬぐいとってくださるのです。その日、神は悲しみを喜びに変えてくださるのです。
ヨハネの黙示録21章3節から4節には次のようにございます。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
そのとき、不条理の中でねじ伏せられ、屈服させられた人たちの恥辱が取り除かれていくというのです。
それは、遠い将来のことでしょうか。その時はいつ来るでしょうか。このすべての世の罪からの解放と救いによる回復は、すでに主イエス・キリストの十字架と苦難と死、復活をもって成就されているのであります。それが完成される日、そのときをひたすら待ち望んで生きているのです。
9節「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」。
そうです。「主よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からの揺るぎない真実をもって」。
イザヤが今から2700年前に語った主の言葉を、この私たちは今ここで確認いたしました。
イザヤの時代にこの主の言葉を聞いた人たちはきっと何のことか理解できないまま多くの人は神に立ち帰ることなく、その社会は崩壊していったのでありましょう。
しかし、イザヤの預言は後に生きる人びとの悔い改めとともに読み返され、主の救いと解放の出来事を待ち望む希望の光となっていったのですね。主の約束の言葉に望みをおいて生きた人たちがそこにいたのです。事実彼らの中には捕囚から解放されてエルサレムに帰還をはたし主の栄光を仰いだ人たちもいましたが。それは地上におけるつかの間の喜びであって、永遠にいたる救いの喜びには至りませんでした。
私たちも、すでに主イエス・キリストを信じ、救いにあずかる者とされているとはいえ、その主の救いの完成の日を待ち望みつつ苦闘する毎日です。
しかし、私たちは信仰の眼によって今、すでにその日に生かされている。ここに待ち望む者の確かな歩みがあります。
最後に、ヘブライ人への手紙10章23節をお読みします。
「約束して下さったのは真実な方なのですから、公に言い表わした希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」。
私たちも、主が再び来られるその折に持たれる主の祝宴を待ち望んで日々を生きてまいりましょう。
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