宣教 民数記13:25~14:10
本日は「神への信頼とビジョンをもって進む」と題して、先ほど読んで戴いた民数記の個所よりみ言葉を聞いてまいります。始めにお断りしておきますが、通常は聖書教育のカリキュラムに従った聖書個所からの宣教(本日でしたら創世記41章のファラオの夢)なのですが、今日は以前から導かれるところがあり、この民数記が宣教メッセージとして示されましたので、このところからみ言葉を共に聞いてまいりましょう。
① カナン偵察とその報告
イスラエルの民は指導者モ―セと共に、エジプトから脱して主が導かれるカナンの地に向かいます。民がカデシュの荒野にとどまったその時に、主はモーセに、一つの部族から一人ずつ、合計12人のリーダーを選び、カナンの地を偵察するように、とお命じになりました。
12人のリーダーたちは40日間、南の端から北の端までを詳細に調べた後、帰る時には、その地で実ったブドウ一房を担ぎ、他にもザクロやいちじくを持ち帰りました。
彼らはモーセに次のように報告します。「そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえみかけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます」。そのように、カナンは肥沃な地ながら、しかしイスラエルの民にとって多くの困難や問題があったのです。
そこへカレブとヨシュアの2人のリーダーが、モーセに進言します。30節「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」。
それに対して他の10人のリーダーたちの反応はこうでした。
31-33「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。・・・・我々は自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」。つまり、彼らは「自分たちはあの地を占領することはできない。もう諦めて戻った方がよい」という否定的で悲観的な言葉を口々にしたのです。このように10人と2人の報告と思いは大きく食い違っていたのです。
② 不信仰な民
イスラエルの全会衆はどちらの報告を信用したかといいますと、カレブとホシュアのよりも、他の10人の言葉を信用して、大声で叫び、泣きごとを言い、モーセやアロンに対して「エジプトの国で死ぬか、この荒野で死ぬ方がよほどましだった。どうして主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引返した方がましだ」「さあ、一人の頭を立てて、エジプトに帰ろう」と不平を言うのです。イスラエルの多くの会衆は、2人のいうことより10人もの人が言う事に流され影響を受けて、不信仰に陥ってしまうのです。このイスラエルの民を倒したのは10人の指導者たちの言葉でした。彼らの否定的な報告は、10人から、イスラエルの全会衆に広がり、遂には民全体が神につぶやくに至りました。つぶやきと不平は口から出したとたん、自分でも気づかない間に浸食し、信仰の根を腐らせてしまいます。
私たちもそうですね、つぶやきや不平の言葉を口にのぼらせたとたん怒りがこみ上げ、不満や不安が増大します。信仰はなえて祈れなくなります。それどころか、その言葉を聞く人たちまで神への不信を抱かせてしまいます。そのような悪い連鎖を見てサタンは喜ぶのです。神の祝福の計画がストップしてしまうからです。
③ 夢(ビジョン)をもっていた人たち
そのような中、カレブとヨシュアは、衣を裂いてイスラエルの人々の共同体全体に次のように訴えます。7節「我々が偵察してきた土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ主に背いてはならない。・・・・中略・・主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」。このように確信に満ちて訴えました。
このカレブとヨシュアでありますが、彼らは、悲観的な観点から物事を判断した不信仰な10人の指導者たちとは大きく異なっていました。又、その否定的な言葉に動揺した60万人いたともされるイスラエルの全会衆とも異なっていました。
彼ら2人は、「なぜ自分たちがエジプトの国から脱して、苦しい荒れ野の道を進んでいるのか。今自分たちがどこに向かっているのか」という問いに対しての明確な答えをもっていました。13章1節を開いて読んでみましょう。主はモーセに言われた「人々を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」。カレブとヨシュアは、「主がその地をお与えになられる」ことを聞いて確信し、その神のビジョンを受けとっていたのです。いわば、彼らは現実の今、そして将来に対して明確な目標と夢を持っていたからです。逆に10人の指導者たちは、神からのビジョンを受け取ることができませんでした。現状への不安や恐れが、それをかき消したのです。残念なことにその不信仰が民全体に伝染しました。
私たちは旧約聖書に出てくるヨセフという人物を知っています。彼は17歳の少年の頃に既に「夢」をもっていました。それは主から与えられた賜物でありました。遂にはエジプト全体を治める総理となることでその夢は実現しました。もちろん、その夢は一夜にして実現したのではなく、それまでに実に様々な試練や苦難の道を経る必要があったのです。ヨセフは当初夢とは正反対の人生を生きました。兄弟に裏切られ、奴隷として売られ、監獄で生活し、濡れ衣を着せられ、忘れ去られたような日々。
その人生は夢に向かって進むというよりも、夢とは程遠いような出来事に見舞われました。もし彼がその時点で自分の置かれた状況を否定的に見、悲観的な思いに捕われていたなら、彼は人生をあきらめてしまい、彼の夢も実現されることはなかったでしょう。しかし、ヨセフは知っていました。自分の夢は神さまがくださったものであることを。だから、如何なる困難や問題があっても、神さまに信頼し、希望をつないで前へ進むことができたのです。彼の夢は神さまのものであり、それが成し遂げられるためには、彼の信仰と忍耐が必要でした。そのようにして長い年月の後、遂に彼の夢は現実のものとなるのです。
本日のカレブとヨシュアの2人もそうです。確かに「カナン」という神さまから示された夢(ビジョン)は素晴らしいものでしたが。彼らはそれを受けとるために困難をも直視しなければなりませんでした。けれども彼らは、悲観的な不信仰な10人のリーダーたちのように肉の目で判断しませんでした。その10人は人の力で太刀打ちできそうにない現状に目がいって恐れましたが、カレブとヨシュアは同じ者を見ているにも拘わらず、「そこは、とても素晴らしい土地だった」と、ビジョンを報告したのです。この2人は霊の目、信仰の目で物事を見たのです。状況によって動かされるものでなく、その状況を支配し、動かされる神さまを見、神さまに信頼していくことにあります。
ヘブライ11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されてあるとおりです。
人は人生の目標や夢がないまま生きる時、その人生の多くは、行く道を知らずさ迷うものとなってしまいます。私たちは、神さまに対する信仰をもって、神さまのビジョン、神さまの願いと計画を見て行く霊の目をもって生きる者とされてまいりましょう。
④ 神が我々と共におられる
今、私たちの置かれている社会や、又私たちの現実もさほど明るいものではありません。
否、生きて行くのがますます困難で厳しく、暗闇のような先の見えないもので覆われ、不安や恐れにさいなまれることの方が多い現実の社会といえましょう。
今日私たちが生きている現実は、私たちに希望を与えるよりは、暗い闇を落とします。
しかし、カレブとヨシュアの2人の指導者から、今日私たちは大事なメッセージを聞くことができます。彼らは目前に多くの問題や暗い現実があっても、それに振り回されることなく、神からのビジョンをしっかりと携えて生きた人たちであります。その最大の力はどこから来ているのでしょうか?
それは9節「主が我々と共におられる」という確信からであります。その共におられる揺るぐことのない神さまのみ約束を堅くもっていたのです。
それは彼らが10人の指導者たちよりも強かったというのではなく、「神さまがわたしたちと共におられる」という信仰の確信が、まさにその力でした。
この「主が我々と共におられる」という人生を生きるとき、祝福の地、カナンは私のもの、又私たちのものとなります。この「神さまがわたしたちと共におられる」というを、私たちはかけがえのない一度限りの人生において体験させて戴いている。これこそ人生最大の祝福であります。
本日の聖書は、明確な目標と夢を受けとり、それを携えて進むようにと、私たちを促しています。
私ども大阪教会はA.L.ギレスピー宣教師ご夫妻によって1950年に9月にこの天王寺の地において開拓伝道がなされ、今年で教会組織60周年を迎えました。本日はバプテスト宣教団とも関わりがありますレイノルズ宣教師ご夫妻、そして米テキサス州ダラス市のSouth Western Seminary(西南神学校)より教師と学生の10名の方々と一緒に礼拝を捧げることができ、心から感謝致します。私ども日本バプテスト連盟の諸教会は、南部バプテスト教会から尊い支援とお祈りによって支えられてきたことを、決して忘れることはできません。その宣教のビジョン、ミッション(使命)は、しっかりと今もこれからも受け継いでいきたいと願っています。
現在、私ども大阪教会は新会堂建築に向かって進んでいます。神さまが与えてくださった宣教のミッションのもと、「夢・ビジョン」に向かっていく中で、様々な問題や試みがこれから起こってくるかも知れません。本日の聖書の「カナン偵察の報告」にあるような、尻込みしてしまいそうな現実問題を突きつけられることもあるかも知れません。そのために特別に示されたのが、この今日のみ言葉であります。21日には教会建築に備えての研修会が計画されていますが。まずその前に、今日のみ言葉をもって私たち一人ひとり、それぞれが整えられていきますようにと願います。
「神がわたしたちと共におられる」との揺るぐことのない確信をもって、お一人お一人に与えられた私の「夢;ビジョン」、又わたしたちの教会に与えられた「夢;ビジョン」に向かって、前進していきましょう。
本日は「神への信頼とビジョンをもって進む」と題して、先ほど読んで戴いた民数記の個所よりみ言葉を聞いてまいります。始めにお断りしておきますが、通常は聖書教育のカリキュラムに従った聖書個所からの宣教(本日でしたら創世記41章のファラオの夢)なのですが、今日は以前から導かれるところがあり、この民数記が宣教メッセージとして示されましたので、このところからみ言葉を共に聞いてまいりましょう。
① カナン偵察とその報告
イスラエルの民は指導者モ―セと共に、エジプトから脱して主が導かれるカナンの地に向かいます。民がカデシュの荒野にとどまったその時に、主はモーセに、一つの部族から一人ずつ、合計12人のリーダーを選び、カナンの地を偵察するように、とお命じになりました。
12人のリーダーたちは40日間、南の端から北の端までを詳細に調べた後、帰る時には、その地で実ったブドウ一房を担ぎ、他にもザクロやいちじくを持ち帰りました。
彼らはモーセに次のように報告します。「そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえみかけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます」。そのように、カナンは肥沃な地ながら、しかしイスラエルの民にとって多くの困難や問題があったのです。
そこへカレブとヨシュアの2人のリーダーが、モーセに進言します。30節「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」。
それに対して他の10人のリーダーたちの反応はこうでした。
31-33「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。・・・・我々は自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」。つまり、彼らは「自分たちはあの地を占領することはできない。もう諦めて戻った方がよい」という否定的で悲観的な言葉を口々にしたのです。このように10人と2人の報告と思いは大きく食い違っていたのです。
② 不信仰な民
イスラエルの全会衆はどちらの報告を信用したかといいますと、カレブとホシュアのよりも、他の10人の言葉を信用して、大声で叫び、泣きごとを言い、モーセやアロンに対して「エジプトの国で死ぬか、この荒野で死ぬ方がよほどましだった。どうして主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引返した方がましだ」「さあ、一人の頭を立てて、エジプトに帰ろう」と不平を言うのです。イスラエルの多くの会衆は、2人のいうことより10人もの人が言う事に流され影響を受けて、不信仰に陥ってしまうのです。このイスラエルの民を倒したのは10人の指導者たちの言葉でした。彼らの否定的な報告は、10人から、イスラエルの全会衆に広がり、遂には民全体が神につぶやくに至りました。つぶやきと不平は口から出したとたん、自分でも気づかない間に浸食し、信仰の根を腐らせてしまいます。
私たちもそうですね、つぶやきや不平の言葉を口にのぼらせたとたん怒りがこみ上げ、不満や不安が増大します。信仰はなえて祈れなくなります。それどころか、その言葉を聞く人たちまで神への不信を抱かせてしまいます。そのような悪い連鎖を見てサタンは喜ぶのです。神の祝福の計画がストップしてしまうからです。
③ 夢(ビジョン)をもっていた人たち
そのような中、カレブとヨシュアは、衣を裂いてイスラエルの人々の共同体全体に次のように訴えます。7節「我々が偵察してきた土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ主に背いてはならない。・・・・中略・・主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」。このように確信に満ちて訴えました。
このカレブとヨシュアでありますが、彼らは、悲観的な観点から物事を判断した不信仰な10人の指導者たちとは大きく異なっていました。又、その否定的な言葉に動揺した60万人いたともされるイスラエルの全会衆とも異なっていました。
彼ら2人は、「なぜ自分たちがエジプトの国から脱して、苦しい荒れ野の道を進んでいるのか。今自分たちがどこに向かっているのか」という問いに対しての明確な答えをもっていました。13章1節を開いて読んでみましょう。主はモーセに言われた「人々を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」。カレブとヨシュアは、「主がその地をお与えになられる」ことを聞いて確信し、その神のビジョンを受けとっていたのです。いわば、彼らは現実の今、そして将来に対して明確な目標と夢を持っていたからです。逆に10人の指導者たちは、神からのビジョンを受け取ることができませんでした。現状への不安や恐れが、それをかき消したのです。残念なことにその不信仰が民全体に伝染しました。
私たちは旧約聖書に出てくるヨセフという人物を知っています。彼は17歳の少年の頃に既に「夢」をもっていました。それは主から与えられた賜物でありました。遂にはエジプト全体を治める総理となることでその夢は実現しました。もちろん、その夢は一夜にして実現したのではなく、それまでに実に様々な試練や苦難の道を経る必要があったのです。ヨセフは当初夢とは正反対の人生を生きました。兄弟に裏切られ、奴隷として売られ、監獄で生活し、濡れ衣を着せられ、忘れ去られたような日々。
その人生は夢に向かって進むというよりも、夢とは程遠いような出来事に見舞われました。もし彼がその時点で自分の置かれた状況を否定的に見、悲観的な思いに捕われていたなら、彼は人生をあきらめてしまい、彼の夢も実現されることはなかったでしょう。しかし、ヨセフは知っていました。自分の夢は神さまがくださったものであることを。だから、如何なる困難や問題があっても、神さまに信頼し、希望をつないで前へ進むことができたのです。彼の夢は神さまのものであり、それが成し遂げられるためには、彼の信仰と忍耐が必要でした。そのようにして長い年月の後、遂に彼の夢は現実のものとなるのです。
本日のカレブとヨシュアの2人もそうです。確かに「カナン」という神さまから示された夢(ビジョン)は素晴らしいものでしたが。彼らはそれを受けとるために困難をも直視しなければなりませんでした。けれども彼らは、悲観的な不信仰な10人のリーダーたちのように肉の目で判断しませんでした。その10人は人の力で太刀打ちできそうにない現状に目がいって恐れましたが、カレブとヨシュアは同じ者を見ているにも拘わらず、「そこは、とても素晴らしい土地だった」と、ビジョンを報告したのです。この2人は霊の目、信仰の目で物事を見たのです。状況によって動かされるものでなく、その状況を支配し、動かされる神さまを見、神さまに信頼していくことにあります。
ヘブライ11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されてあるとおりです。
人は人生の目標や夢がないまま生きる時、その人生の多くは、行く道を知らずさ迷うものとなってしまいます。私たちは、神さまに対する信仰をもって、神さまのビジョン、神さまの願いと計画を見て行く霊の目をもって生きる者とされてまいりましょう。
④ 神が我々と共におられる
今、私たちの置かれている社会や、又私たちの現実もさほど明るいものではありません。
否、生きて行くのがますます困難で厳しく、暗闇のような先の見えないもので覆われ、不安や恐れにさいなまれることの方が多い現実の社会といえましょう。
今日私たちが生きている現実は、私たちに希望を与えるよりは、暗い闇を落とします。
しかし、カレブとヨシュアの2人の指導者から、今日私たちは大事なメッセージを聞くことができます。彼らは目前に多くの問題や暗い現実があっても、それに振り回されることなく、神からのビジョンをしっかりと携えて生きた人たちであります。その最大の力はどこから来ているのでしょうか?
それは9節「主が我々と共におられる」という確信からであります。その共におられる揺るぐことのない神さまのみ約束を堅くもっていたのです。
それは彼らが10人の指導者たちよりも強かったというのではなく、「神さまがわたしたちと共におられる」という信仰の確信が、まさにその力でした。
この「主が我々と共におられる」という人生を生きるとき、祝福の地、カナンは私のもの、又私たちのものとなります。この「神さまがわたしたちと共におられる」というを、私たちはかけがえのない一度限りの人生において体験させて戴いている。これこそ人生最大の祝福であります。
本日の聖書は、明確な目標と夢を受けとり、それを携えて進むようにと、私たちを促しています。
私ども大阪教会はA.L.ギレスピー宣教師ご夫妻によって1950年に9月にこの天王寺の地において開拓伝道がなされ、今年で教会組織60周年を迎えました。本日はバプテスト宣教団とも関わりがありますレイノルズ宣教師ご夫妻、そして米テキサス州ダラス市のSouth Western Seminary(西南神学校)より教師と学生の10名の方々と一緒に礼拝を捧げることができ、心から感謝致します。私ども日本バプテスト連盟の諸教会は、南部バプテスト教会から尊い支援とお祈りによって支えられてきたことを、決して忘れることはできません。その宣教のビジョン、ミッション(使命)は、しっかりと今もこれからも受け継いでいきたいと願っています。
現在、私ども大阪教会は新会堂建築に向かって進んでいます。神さまが与えてくださった宣教のミッションのもと、「夢・ビジョン」に向かっていく中で、様々な問題や試みがこれから起こってくるかも知れません。本日の聖書の「カナン偵察の報告」にあるような、尻込みしてしまいそうな現実問題を突きつけられることもあるかも知れません。そのために特別に示されたのが、この今日のみ言葉であります。21日には教会建築に備えての研修会が計画されていますが。まずその前に、今日のみ言葉をもって私たち一人ひとり、それぞれが整えられていきますようにと願います。
「神がわたしたちと共におられる」との揺るぐことのない確信をもって、お一人お一人に与えられた私の「夢;ビジョン」、又わたしたちの教会に与えられた「夢;ビジョン」に向かって、前進していきましょう。