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神の和解の計画

2011-08-21 18:05:48 | メッセージ
宣教  創世記45:1-28 

兄たちの妬みによって穴に突き落とされ、エジプトに売られていったヨセフでありましたが、主の不思議な導きによってエジプトの総理大臣の地位につきます。
この個所は、ヨセフの兄たちが飢饉のため食糧を得ようとエジプトを訪れたことから起こされる、ヨセフとその兄弟たちとの再会の物語です。

45章で「ヨセフが万感の思いを込めて兄たちに自分の身を明かす」という、実にドラマチックな場面に至るのでありますが。これはヨセフと兄たちとの和解がテ―マであると同時に、兄たちが「神との和解」を得るためのものであったのです。

さて、7年の豊作後ヨセフの夢ときのとおり、エジプトだけでなくカナン地方にも飢饉が襲います。エジプトに穀物を買い求めに出かけた兄たちは、穀物を管理販売する監督であり、総理であったヨセフにお目通りを願い、それが叶います。
彼らはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは一目でそれが自分の兄たちであることに気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフはその時、かつて兄たちについて見た夢、「兄たちの束が集まって来て、わたしの束にひれふした」(37:7)その夢を思い起こし、それが目の前で現実となっていることに驚いたことでしょう。しかし同時に、もう20数年も前のことでしたが、17歳のときに兄たちから受けたひどい仕打ちを思い出し、ヨセフは兄たちに辛く当りました。そして、その後も兄たちを窮地に追い込むような策略でもって彼らを試すのであります。ヨセフ自身心に負った傷が癒えていなかったのでしょうか。
しかし、そのような中でヨセフは何度も涙を流して泣いたのです。それは単に兄たちが憎く恨んでいたから仕返ししてやろうと考えたのではなく、家族、又父の家への切ない思いが絡み合っていたのでありましょう。

そしてこの45章の個所において、ヨセフは1節「もはや平静を装っていることができなくなり」、兄たちに2節「自分の身を明かし、声をあげて泣いた」のです。
それは前の44章で、兄のユダから、「父ヤコブを悲しませるような不憫な思いはもうさせず、父を心からいたわりたい」「末弟のベニヤミンを命がけで守りたい」との信実な訴えをヨセフが聞いたからであります。ベニヤミンはヨセフと同じ母の子でありました。父ヤコブはヨセフを失いこの弟のベニヤミンを慰めとしていたのでありましょう。又、兄たちにとってベニヤミンは、かつてヨセフに対してなした罪を思い起こさせる存在であると共に、強い贖罪の念をもってこの弟ベニヤミンを見ていたのではないでしょうか。

ヨセフには、兄たちがかつて犯した罪の負い目を十分に痛み続け、その苦しみを今も負い続けていること。又、父や弟をもう二度と悲しませ、辛い思いをさせるようなことはできない、との思いが痛いほど伝わってきたのでありましょう。
遂にヨセフは兄たちに、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と言い自分の身を明かします。彼は単に「弟のヨセフ」というのではなく、「あなたたちがエジプトへ売ったヨセフ」と名乗ります。まず過去の過ちの事実がはっきりと語られるのであります。これは被害者の側のヨセフにとっては動かしようのない事実でしたし、加害者の側の兄たちにも取り返しのつかない事実であったのです。この事実が両者を遠く隔ててきました。兄たちと再会したヨセフですが、20数年前に受けたひどい仕打ちの事実を忘れることはありませんでした。両者にとってそれは決してうやむやにできることではなかったのです。

新約聖書の福音書には、イエスさまが「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃっていますが。私たちはたとえ血のつながった家族や、又兄弟同士であっても、こんなことをされた、あんなことを言われた、などとなかなか許すことができません。また私たちは些細なことに目くじらを立て、そのことに振り回されることの方が多い者であります。人のもつ憎しみや恨みとは恐いもので、10年経っても、20年経っても忘れないで、とうとう墓場までもっていくということもあるわけです。ヨセフにとっても手放しで、「過去のことはなかった」とは、ならなかったのです。

しかし、ヨセフは兄たちに続けてこう言います。5節「今は、わたしをここへ売ったことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません」。このように彼はここで救い(ゆるし)の言葉を語るのです。ヨセフは肉的な目ではなく、霊的な目をもっていました。それは主が共におられる、という信仰です。

5~7節にあるように、ヨセフは自分がエジプトに売り飛ばされたことを、「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」「神が大いなる救いに至らせるためであった」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と、自分の苦労や身に起こった試練は、すべて「神」からの出来事であった、と確信をもって語ります。

あの兄たちに穴に投げ入れられ、エジプトに売り飛ばされ、ポテパルの妻の偽証によって牢屋に入れられたこと、又ファラオの夢を解き明かして総理になったこと、20数年以上も遠く離れて生活していた兄たちと再会できたこと、それらすべては「神のご計画」であったというのです。そしてこのご計画とは、ヨセフの言葉によれば5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わされた」。7節「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため」であったのです。

このヨセフの言葉は、兄たちにとって単なるゆるしや労わりの言葉ではありませんでした。それはまさに、「神」がヨセフを通して「兄たちの命を救い」、又、「兄たちに神との和解をもたらし、後の世代に神の祝福(大いなる救い)を得させる」ためであったことを指し示します。

私どもにとりまして、人を許すことは簡単なことではありません。しかし罪を犯した者も又「ゆるし」がなければ、生涯その罪にさいなまれ苦しみ続けなければなりません。ゆるしを必要としているのです。

飢饉の中にあって命を救う神は、ヨセフを通して、その父母、兄弟たちに、生きるための糧をお与えになりました。又、エジプトの周辺諸国も養いに与ります。人間は食糧によって生きます。けれども、主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といわれました。神の口から出る命のパン。そのみ言葉によって人は真に生きることができるのです。
それは本日の個所に照らすなら、「和解の福音」「ゆるし」であります。神は私たち人間が罪や恨み、憎しみに滅びゆくことから、私たちを救おうとなさいます。神のご計画とは、神のゆるしを得、神と和解した者が和解の福音に生きることであり、その福音が世界のいたるところで分かち合われてゆくことです。

ヨセフの兄たちは、ヨセフのゆるしの言葉、和解の福音によって罪の縄目から解放されました。ヨセフは、いよいよカナンの地に兄弟たちを送り出すとき、その出発にあたって「途中で争わないでください」と言います。
ヨセフはどうして兄たちにそのように言ったのでありましょう?それはゆるされたはずの兄たちが、その旅の途中でまた「そもそもの原因はお前にあったのだ」と互いに言い争いや罪のなすり合いをするかも知れないと心配したからでしょう。そうなれば、せっかくの和解の恵みが台なしになってしまいます。
「途中で争わないでください」。その一言は、兄たちが本当に神の和解を受けとって歩んでほしいというヨセフの思いの表れであったのです。

私たちキリスト者は、神の御独り子・イエス・キリストの尊い犠牲の贖いによって、神との和解を戴きました。その大きな大きな恵みを台なしにすることのないように、主にゆるされた者として、和解の福音に生きていくことが問われています。
神のゆるしを受けた者として、生きていく使命が託されているのです。神にゆるされ、生かされた主の民として、和解の奉仕に仕えていくことが、神のみ心であるのです。

最後にⅡコリント5章18節をお読みして本日の宣教を閉じます。
「神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」

和解のために奉える任務とは、今の私にとってどういうことであるのか?主の御前に聞いてまいりましょう。又、この大阪教会にとっての和解の使命(ミッション)、キリストの平和を生き、そして伝えていく務めを共に祈りつつ、進んでまいりましょう。
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