宣教 創世記28章10~22節
東日本大震災からはや4カ月半になりますが、震災に加え原発事故の影響で、被災地の方々の生活再建の見通しがなかなかつかない厳しい状況のもと、まだ多くの方々が避難生活を余儀なくされておられます。先日ネットのトピックスより、東日本大震災の被災者の方々に、「いま、あなたの宝物は何ですか?」という質問に対して、子供からお年寄りの方々の答えがご本人のお写真入りで紹介されていました。
「すべてを失った」。だが、今だからこそ思える自分だけの宝物。それはランドセル、亡くした家族の今も動いている腕時計、焼け残った封筒、、、、様々な物をいとおしそうに手にする被災者の方々。その中である被災者の方の「物は買えばいいが、思い出は買えない」という言葉がずっしりと心に残りました。今、あなたの宝物は何でしょうか?愛する家族。人との絆。守るべきもの。それら主からの賜りものを、又二度と繰り返されることのない今という時を大切にしてまいりましょう。
本日は創世記28章より「天使の階段」と題し、み言葉を聞いていきたいと思います。
ヤコブは兄エサウに憎まれ命を狙われて、家を離れ、逃亡いたします。彼は家族も財産もすべてを失ったかのようでした。しかし、疲れ切って荒野で石を枕に眠る中で、彼は何ものにも替え難い宝を見出すのであります。今日はそのようなヤコブの物語であります。
先週は、兄から神の祝福を奪い取った弟ヤコブと、目の前の肉の思いを満たすことの引き換えに長子の権利を手放した兄エサウの話でしたが。その後27:18以降で、ヤコブは兄のエサウになりすまし父イサクから祝福を騙し取るのであります。
それを知った兄エサウはそのことを根にもち、ヤコブを憎むようになり、遂には弟を殺そう思うのでありますが。母リベカはその兄エサウの怖ろしい言葉を聞くと、ヤコブを呼び寄せ母リベカの兄である伯父ラバンのもとに逃げるようにと、勧めます。ヤコブは母の言うとおり、父の家ベエル・シェバの地を離れて、お祖父ちゃんのアブラハムがかつて召命を受けたとされるハランに逃亡するのであります。それは大変遠い地であり、険しい荒野の旅路でありました。
さて、ヤコブは「ベエル・シェバを立ってハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(10-11節)とあります。
「とある場所」とは後のベテルの聖地のことですが、ベエル・シェバからそうですね北に90キロ近くの荒野に位置します。ヤコブはそこで一夜を過ごすこととなったのですが、この時の彼の心境を想像しますに、エサウに殺意ほどの恨みをかい、父が祝福して与えると約束した土地や相続するであろう財産、さらに家をも失い、一人孤独に荒野を旅し続けるヤコブ、その身も心もボロボロになるくらい疲れ切っていたのではないでしょうか。これが神から祝福を受ける者の姿であろうかと自らの状況を嘆いていたのかも知れません。
そういう中で、石を枕にして荒野で寝入ったヤコブでありました。その石の枕は涙でぬれていたのかも知れません。そうして眠りについた時、彼は真に不思議な夢を見るのです。それは12節、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というのです。この光景は、神が人の生きている地に深く関わり、交わりをもってくださるということを象徴しているかのようです。
わたしたちは悩み、苦難の中で、まるで神がお見捨てになるかのように、神の助けが得られないように感じることがあるかも知れません。しかし、天に届かない祈りはありません。
あたかも地に向かって伸びる階段を天使たちがせわしなく行き来するように、主は祈る私どもをいつも気にかけ、助けを送り、見守っていてくださるお方なのです。
13節、「見よ、主が傍らに立って言われた」。
ヤコブはその階段の傍らに立っておられる主の言葉を聞くのです。それは主の大きな祝福と力強い約束の言葉で満ちていました。「あなたとあなたの子孫に今横たわっているこの土地が与える」「あなたの子孫は大地の砂粒のように多く広がり、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」。さらに「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。これはヤコブ個人に対して不変の変わることのない主の約束でありました。
ヤコブは眠りから覚めて次のように答えます。
16節「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブは荒野を逃亡しながら、きっと孤独であったはずです。又自分の罪深さや落ち度、その存在のちっぽけさをひしひしと感じていたのではないでしょうか。しかしヤコブはこの「夢」を通して顕わされた主の啓示によって、そんな無力で孤独な自分と、主はどのような時も「共にいて、決して見捨てられることはない」という確信を頂くのであります。
又ヤコブは、「ここは、何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と告白していますが。それはきっと、自らの罪深さを知る者だけが覚える畏れであり、そのような者にさえ「おまえとどこまでも共にいる、決して見捨てない」とおっしゃる、その底なしの愛といいますか、その憐れみ深さの深淵に触れた畏れではなかったでしょうか。聖書は、このヤコブによってすべての国民が祝福されると約束します。
私どもにとりましてその祝福は、主イエス・キリストによってもたらされました。今や、そのお方を通して私どもも又、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福を継承する者とされたのです。それはしかし、神が御独り子イエス・キリストを世に遣わし、私たちの罪のために血を流し、身体を裂いて贖いの死を遂げられることによって与えられている恵みであることを決して忘れるわけにはいきません。それは何と尊いみ恵みであり、畏れ多いことでないでしょうか。
さて、18節、ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、油を注ぎ、その場所をベテルとして神を讃えました。さらに20節、彼は「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、、、、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と請願を立てます。
ヤコブは夢で見たことを、ただの幻として終わらせませんでした。彼は夢で見た事がらを、現実の言葉(神の言葉)として受け取って生きてゆきます。これは、私どもにとっても大切なメッセージであります。聖書の言葉はただの虚しい物語ではありません。それは活ける神の霊の言。実体を伴う言葉であります。ここに、まさに主に自分をかけ、信頼して従っていく信仰が問われてゆくのです。
しかしその信仰は、主の先立つみ言葉によって与えられるものであります。
主はヤコブに「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。このみ言葉のゆえにヤコブは主に信頼したのであります。「主は必ずそのあなたに約束したことを果たしてくださる。」「ずっとその最後まで見捨てることはない。」「あなたとどこまでも共にいる。」そう約束してくださるのです。この約束に信頼すること。それが信仰であります。
今日の宣教の題を「天使の階段」とつけました。韓流のドラマに似たような題があるそうですが、礼拝に出席なさっているSさんは海外の船にお乗りになるそうですが。以前から船の中にジェイコブ・ラダ―という一見何の役にも立ちそうにないロープのはしごがあるのを見かけていたそうで、これは一体どんな意味があるのだろうと不思議に思っていたそうです。聖書をお読みになるようになって、それがこのヤコブの夢に現れた「天使の階段」「天のはしご」であると納得されたというお話を伺いました。先人たちも荒野ならぬ大海原の荒海の中で、このみ言葉の「必ず連れ帰る」「決して見捨てない」との約束の信仰に支えられ、長い航海を続けたのでありましょう。
私自身はここを読む時、天使たちが天から地に伸びる階段(地から天ではないですよね)、天から地に伸びるその階段をせわしなく上り下りする忙しい天使たちの様子を想像いたします。私たちは地上にあって孤独を感じたり、辛く悲しい出来事に心痛むこともありますが。主は何か遠く高みからただ見降ろすようなお方ではなく、日ごとに(天使たちを送り続け)天と地をゆきめぐりながら、このわたしたち一人ひとりと歩みを共にしてくださる、そのようなお方なのであります。
東日本大震災からはや4カ月半になりますが、震災に加え原発事故の影響で、被災地の方々の生活再建の見通しがなかなかつかない厳しい状況のもと、まだ多くの方々が避難生活を余儀なくされておられます。先日ネットのトピックスより、東日本大震災の被災者の方々に、「いま、あなたの宝物は何ですか?」という質問に対して、子供からお年寄りの方々の答えがご本人のお写真入りで紹介されていました。
「すべてを失った」。だが、今だからこそ思える自分だけの宝物。それはランドセル、亡くした家族の今も動いている腕時計、焼け残った封筒、、、、様々な物をいとおしそうに手にする被災者の方々。その中である被災者の方の「物は買えばいいが、思い出は買えない」という言葉がずっしりと心に残りました。今、あなたの宝物は何でしょうか?愛する家族。人との絆。守るべきもの。それら主からの賜りものを、又二度と繰り返されることのない今という時を大切にしてまいりましょう。
本日は創世記28章より「天使の階段」と題し、み言葉を聞いていきたいと思います。
ヤコブは兄エサウに憎まれ命を狙われて、家を離れ、逃亡いたします。彼は家族も財産もすべてを失ったかのようでした。しかし、疲れ切って荒野で石を枕に眠る中で、彼は何ものにも替え難い宝を見出すのであります。今日はそのようなヤコブの物語であります。
先週は、兄から神の祝福を奪い取った弟ヤコブと、目の前の肉の思いを満たすことの引き換えに長子の権利を手放した兄エサウの話でしたが。その後27:18以降で、ヤコブは兄のエサウになりすまし父イサクから祝福を騙し取るのであります。
それを知った兄エサウはそのことを根にもち、ヤコブを憎むようになり、遂には弟を殺そう思うのでありますが。母リベカはその兄エサウの怖ろしい言葉を聞くと、ヤコブを呼び寄せ母リベカの兄である伯父ラバンのもとに逃げるようにと、勧めます。ヤコブは母の言うとおり、父の家ベエル・シェバの地を離れて、お祖父ちゃんのアブラハムがかつて召命を受けたとされるハランに逃亡するのであります。それは大変遠い地であり、険しい荒野の旅路でありました。
さて、ヤコブは「ベエル・シェバを立ってハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(10-11節)とあります。
「とある場所」とは後のベテルの聖地のことですが、ベエル・シェバからそうですね北に90キロ近くの荒野に位置します。ヤコブはそこで一夜を過ごすこととなったのですが、この時の彼の心境を想像しますに、エサウに殺意ほどの恨みをかい、父が祝福して与えると約束した土地や相続するであろう財産、さらに家をも失い、一人孤独に荒野を旅し続けるヤコブ、その身も心もボロボロになるくらい疲れ切っていたのではないでしょうか。これが神から祝福を受ける者の姿であろうかと自らの状況を嘆いていたのかも知れません。
そういう中で、石を枕にして荒野で寝入ったヤコブでありました。その石の枕は涙でぬれていたのかも知れません。そうして眠りについた時、彼は真に不思議な夢を見るのです。それは12節、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というのです。この光景は、神が人の生きている地に深く関わり、交わりをもってくださるということを象徴しているかのようです。
わたしたちは悩み、苦難の中で、まるで神がお見捨てになるかのように、神の助けが得られないように感じることがあるかも知れません。しかし、天に届かない祈りはありません。
あたかも地に向かって伸びる階段を天使たちがせわしなく行き来するように、主は祈る私どもをいつも気にかけ、助けを送り、見守っていてくださるお方なのです。
13節、「見よ、主が傍らに立って言われた」。
ヤコブはその階段の傍らに立っておられる主の言葉を聞くのです。それは主の大きな祝福と力強い約束の言葉で満ちていました。「あなたとあなたの子孫に今横たわっているこの土地が与える」「あなたの子孫は大地の砂粒のように多く広がり、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」。さらに「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。これはヤコブ個人に対して不変の変わることのない主の約束でありました。
ヤコブは眠りから覚めて次のように答えます。
16節「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブは荒野を逃亡しながら、きっと孤独であったはずです。又自分の罪深さや落ち度、その存在のちっぽけさをひしひしと感じていたのではないでしょうか。しかしヤコブはこの「夢」を通して顕わされた主の啓示によって、そんな無力で孤独な自分と、主はどのような時も「共にいて、決して見捨てられることはない」という確信を頂くのであります。
又ヤコブは、「ここは、何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と告白していますが。それはきっと、自らの罪深さを知る者だけが覚える畏れであり、そのような者にさえ「おまえとどこまでも共にいる、決して見捨てない」とおっしゃる、その底なしの愛といいますか、その憐れみ深さの深淵に触れた畏れではなかったでしょうか。聖書は、このヤコブによってすべての国民が祝福されると約束します。
私どもにとりましてその祝福は、主イエス・キリストによってもたらされました。今や、そのお方を通して私どもも又、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福を継承する者とされたのです。それはしかし、神が御独り子イエス・キリストを世に遣わし、私たちの罪のために血を流し、身体を裂いて贖いの死を遂げられることによって与えられている恵みであることを決して忘れるわけにはいきません。それは何と尊いみ恵みであり、畏れ多いことでないでしょうか。
さて、18節、ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、油を注ぎ、その場所をベテルとして神を讃えました。さらに20節、彼は「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、、、、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と請願を立てます。
ヤコブは夢で見たことを、ただの幻として終わらせませんでした。彼は夢で見た事がらを、現実の言葉(神の言葉)として受け取って生きてゆきます。これは、私どもにとっても大切なメッセージであります。聖書の言葉はただの虚しい物語ではありません。それは活ける神の霊の言。実体を伴う言葉であります。ここに、まさに主に自分をかけ、信頼して従っていく信仰が問われてゆくのです。
しかしその信仰は、主の先立つみ言葉によって与えられるものであります。
主はヤコブに「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。このみ言葉のゆえにヤコブは主に信頼したのであります。「主は必ずそのあなたに約束したことを果たしてくださる。」「ずっとその最後まで見捨てることはない。」「あなたとどこまでも共にいる。」そう約束してくださるのです。この約束に信頼すること。それが信仰であります。
今日の宣教の題を「天使の階段」とつけました。韓流のドラマに似たような題があるそうですが、礼拝に出席なさっているSさんは海外の船にお乗りになるそうですが。以前から船の中にジェイコブ・ラダ―という一見何の役にも立ちそうにないロープのはしごがあるのを見かけていたそうで、これは一体どんな意味があるのだろうと不思議に思っていたそうです。聖書をお読みになるようになって、それがこのヤコブの夢に現れた「天使の階段」「天のはしご」であると納得されたというお話を伺いました。先人たちも荒野ならぬ大海原の荒海の中で、このみ言葉の「必ず連れ帰る」「決して見捨てない」との約束の信仰に支えられ、長い航海を続けたのでありましょう。
私自身はここを読む時、天使たちが天から地に伸びる階段(地から天ではないですよね)、天から地に伸びるその階段をせわしなく上り下りする忙しい天使たちの様子を想像いたします。私たちは地上にあって孤独を感じたり、辛く悲しい出来事に心痛むこともありますが。主は何か遠く高みからただ見降ろすようなお方ではなく、日ごとに(天使たちを送り続け)天と地をゆきめぐりながら、このわたしたち一人ひとりと歩みを共にしてくださる、そのようなお方なのであります。