礼拝宣教 箴言16章1~9節
「はじめに」
まずこの箴言についてでありますが、箴言という意味は一般的には「格言や金言」の意の漢語的な表現ですが。聖書学的には旧約聖書の時代の祭司が説いた律法の教えや預言者が語った幻とは異なる知恵文学書(ヨブ記やコヘレトの言葉)として位置づけられています。それはソロモン王をはじめ、捕囚前とその後の神を知る賢者・知者たちが人生の中で経験した出来事を観察し、得られた事柄を分類又、比較する作業をして、短い格言のような言葉で表したものがこの箴言なのです。それは人生の様々な経験から得られた知恵の結晶ともいうことができるでしょう。そしてこの箴言が最終的に編纂されたのは紀元前300~250年頃と言われていますから、これはヘレニズム時代のギリシャ文明の影響が強い時代に、ユダヤ人がその中で神の民として如何に生きるか、ということをこの箴言の言葉から聞いていったということであります。それは又、現代の文化・文明社会の中でキリスト者として生きる私たちにとっても人生の指針となるものです。
今日のこの箴言16章1~9節は、箴言の中でも8節を除けばすべてに「主」の名が記されているという特徴をもっています。箴言は単なる格言ではなく、神の御心に生きる。いわば主を主として生きることを基盤として書かれたのです。
この1~9節までを読みますと、一つ一つの格言それぞれに味わい深い神と人の関係が述べられていますが。今回改めて気づかされた事は、その一節一節の言葉は物切れになっているのではなく、テーマがあってつながっているという発見をしました。
それは「祈りの道」「主に立ち帰る道」「主の計らい」についてであります。
「祈りの道」
まずはじめの1節~3節までのかたまり。それは「祈りの道」についてであります。
最初の1節ですが、これは口語訳聖書の方が分かりやすいのでそこをお読みしますと。
「心に計ることは人に属し、言の答えは主から出る。」随分新共同訳とニュアンスが違いますが。心に計ること。これは人の計画のことですが。人は計画を立て、どんなに準備周到で臨んでも、必ずしもよい結果が出るとは限りません。たとえ結果、完璧に思える出来ばえに見えても、すべて相対的に見た時に必ずしも完全な結果であるとは言えないでしょう。なぜならそれが人の業、人の企てにすぎないからです。そこに人としての限界があります。
しかし「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」。口語訳で「言の答えは主から出る」というのです。人は計画がうまくいった、事が運んだ時には「こう考えたのがよかった」「こうしたのがよかった」と言います。逆にうまくいかなければ「あれがよくなかった」「失敗だった」と言うでしょう。けれども本当の答えは主から出る。主がお出しになる、と言うののです。ですから主に信頼しる人は、その舌に「主がなさったことだ」「主が導かれた」と言う言葉を与えられるのです。
私どもにとりまして新会堂の建築計画もよくよく考え造られていますが。それでも「ああすればよかった」「こうすればよかった」といったことがあるかも知れません。けれども普通の建築物と異なるのは、これが祈りのうちに建てられたものであるということです。間もなく完成する建物は本当に教会堂らしく立派です。でもそれ以上に尊いのは、その祈りの精神が働いたということではないでしょうか。
続く2節にも「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」とあります。人はみなその歩みや行動について、自分の心では純粋で正しいと思って実行しても、自分の思い込みであったり、自分の持っている考えや知識だけを基準にして物事をおし計ろうとしていることがあるのではないでしょうか。
預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」(エレミヤ書17:9)と語りました。エレミヤも預言者と主の御心を求め、御心を伝える時、人々の誤った正義感や偽善性と相対する中、しんどい状況におかれることが多かったのでしょうか。かなり辛らつな言葉でありますが。つまり箴言の知者も言わんとしている事は、「人は本来自分自身を知り得ていない」ということであります。
そこで知者は言うのです。「主はその魂(精神)を調べられる」と。
私も高校の時、図書館にいって洗いざらいの本をむさぼるように探し求めていた人生の問いは、「自分とは一体何ものなのか」という問いであり、その答えでした。当時は三木清さんの「わたしの人生論ノート」という単行本に魅かれて、漁るように読みましたが。青少年時代に自己を探求し、自己吟味していくことはとっても大事なことだった、と思っています。がしかし、どんな知識も人生指南を取り入れたとしても、そこで自分が清くなったとか、自分が何ものか分かった、ということはありませんでした。ただ、私の人生にとって幸いであったことそれは、自分自身でさえ知ることができない自分の魂(精神)を知っておられる方、この自分の魂を明らかにしてくださる方、主がおられるということであります。
詩編139編にはこういう言葉が記されています。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」(1節)。「わたしの舌がまだひと事も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(4節)。それは救い主を通して与えられた私にとってのまさに福音でした。
「わたしは何もなのか」という問いに、「わたしは知られている者である」「神はわたしを知っておられる」という回答を得たからです。 人は心構えをします。けれどもそれで絶対的なものを得ることは出来ません。ここに「主よ、わたしの舌にあなたの答え、あなたの良しとされることをお与えください」との祈りが必要なのです。
知者は3節で言います。「あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。」
「ゆだねる」と言うと、何かすべて神頼みというふうに聞こえるかもしれませんが。それは神さまにすべて丸投げするということでは決してありません。ここでの「ゆだねる」とあるヘブライ語「マーシャル」の原意は、「転がす」という意味です。 それは「あなたの業すべてをゴロゴロと重い石を転がすように主のもとにもっていきなさい」ということです。ゴロゴロと重い石を転がすように祈りに祈って、信仰を戴きつつ事をなしていく。それが「主にゆだねる」人の姿であります。そのように生きていく時、「主にあって人の計らいが固く立つ」そのあかしとされていくのであります。
1~3節までの格言は、「人の思いによって計画」を立てる私たちに対して、「祈りの道」という主の知恵の必要を教えてくれます。
「主に立ち帰る道」
さて4節~6節ですが。ここには「主に立ち帰る道」が主の知恵として示されています。
4節では「主が逆らう者をも災いの日のために造られた」とありますが。主のいとわれるその最たるものは5節にあるように「高慢な心」であります。まあ旧約聖書おいて真先に頭に浮かびますのは、出エジプト記の王ファラオですが。彼はその高慢と悔い改めることのない「頑なな心」によって、遂に災いを被り滅び去るわけですけれども。6節にあるように、「神を畏れ」敬う道、「主に立ち帰る道」を見出した者は、悪から離れ、神の慈しみとまことを見出し、その人は罪を贖われるのであります。それは箴言の冒頭にありますように、まさしく「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節)であり、どんな格言にも勝る人を生かす真理なのです。
「主の慈しみまことに与った人の道」
そのように主に喜ばれる道を歩む時、7節「主はその敵をもその人と和解させてくださる」というのであります。又、8節には「稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅かなもので恵みの業をする方が幸い」とありますが。「主の慈しみとまことは罪を贖う」という実体験をした者は、そのような真に豊かな生き方へと、主によって変えられる、ということであります。
「人の心の計画と主の計らい」
最後の9節でありますが。「人間の心は自分の道を計画する。(しかし)主が一歩一歩を備えてくださる」と知者は言っています。これが、本日の締めくくりの御言葉です。私たちは自分の心に基づいて様々な人生設計や計画を立てて日々をあゆんでいますが。しかし時としてその通りに事が運ばなかったり、挫折を経験することもあります。が、そこで出た結果に縛られることはありません。それは、主がわたしのすべてを知っていてくださる。その主だけが本当に良しとされる事、成るべき事をご存じであり、祈りのうちに導いてくださるからです。主に立ち帰って生きる者に主は再生の道を与え、その一歩一歩を備えてくだいます。「主を畏れることは知恵の初め。」そこに「神の計らい」が必ずあるという信仰的な体験を今日ここから、又心新たに踏み出してまいりましょう。祈ります。
「はじめに」
まずこの箴言についてでありますが、箴言という意味は一般的には「格言や金言」の意の漢語的な表現ですが。聖書学的には旧約聖書の時代の祭司が説いた律法の教えや預言者が語った幻とは異なる知恵文学書(ヨブ記やコヘレトの言葉)として位置づけられています。それはソロモン王をはじめ、捕囚前とその後の神を知る賢者・知者たちが人生の中で経験した出来事を観察し、得られた事柄を分類又、比較する作業をして、短い格言のような言葉で表したものがこの箴言なのです。それは人生の様々な経験から得られた知恵の結晶ともいうことができるでしょう。そしてこの箴言が最終的に編纂されたのは紀元前300~250年頃と言われていますから、これはヘレニズム時代のギリシャ文明の影響が強い時代に、ユダヤ人がその中で神の民として如何に生きるか、ということをこの箴言の言葉から聞いていったということであります。それは又、現代の文化・文明社会の中でキリスト者として生きる私たちにとっても人生の指針となるものです。
今日のこの箴言16章1~9節は、箴言の中でも8節を除けばすべてに「主」の名が記されているという特徴をもっています。箴言は単なる格言ではなく、神の御心に生きる。いわば主を主として生きることを基盤として書かれたのです。
この1~9節までを読みますと、一つ一つの格言それぞれに味わい深い神と人の関係が述べられていますが。今回改めて気づかされた事は、その一節一節の言葉は物切れになっているのではなく、テーマがあってつながっているという発見をしました。
それは「祈りの道」「主に立ち帰る道」「主の計らい」についてであります。
「祈りの道」
まずはじめの1節~3節までのかたまり。それは「祈りの道」についてであります。
最初の1節ですが、これは口語訳聖書の方が分かりやすいのでそこをお読みしますと。
「心に計ることは人に属し、言の答えは主から出る。」随分新共同訳とニュアンスが違いますが。心に計ること。これは人の計画のことですが。人は計画を立て、どんなに準備周到で臨んでも、必ずしもよい結果が出るとは限りません。たとえ結果、完璧に思える出来ばえに見えても、すべて相対的に見た時に必ずしも完全な結果であるとは言えないでしょう。なぜならそれが人の業、人の企てにすぎないからです。そこに人としての限界があります。
しかし「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」。口語訳で「言の答えは主から出る」というのです。人は計画がうまくいった、事が運んだ時には「こう考えたのがよかった」「こうしたのがよかった」と言います。逆にうまくいかなければ「あれがよくなかった」「失敗だった」と言うでしょう。けれども本当の答えは主から出る。主がお出しになる、と言うののです。ですから主に信頼しる人は、その舌に「主がなさったことだ」「主が導かれた」と言う言葉を与えられるのです。
私どもにとりまして新会堂の建築計画もよくよく考え造られていますが。それでも「ああすればよかった」「こうすればよかった」といったことがあるかも知れません。けれども普通の建築物と異なるのは、これが祈りのうちに建てられたものであるということです。間もなく完成する建物は本当に教会堂らしく立派です。でもそれ以上に尊いのは、その祈りの精神が働いたということではないでしょうか。
続く2節にも「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」とあります。人はみなその歩みや行動について、自分の心では純粋で正しいと思って実行しても、自分の思い込みであったり、自分の持っている考えや知識だけを基準にして物事をおし計ろうとしていることがあるのではないでしょうか。
預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」(エレミヤ書17:9)と語りました。エレミヤも預言者と主の御心を求め、御心を伝える時、人々の誤った正義感や偽善性と相対する中、しんどい状況におかれることが多かったのでしょうか。かなり辛らつな言葉でありますが。つまり箴言の知者も言わんとしている事は、「人は本来自分自身を知り得ていない」ということであります。
そこで知者は言うのです。「主はその魂(精神)を調べられる」と。
私も高校の時、図書館にいって洗いざらいの本をむさぼるように探し求めていた人生の問いは、「自分とは一体何ものなのか」という問いであり、その答えでした。当時は三木清さんの「わたしの人生論ノート」という単行本に魅かれて、漁るように読みましたが。青少年時代に自己を探求し、自己吟味していくことはとっても大事なことだった、と思っています。がしかし、どんな知識も人生指南を取り入れたとしても、そこで自分が清くなったとか、自分が何ものか分かった、ということはありませんでした。ただ、私の人生にとって幸いであったことそれは、自分自身でさえ知ることができない自分の魂(精神)を知っておられる方、この自分の魂を明らかにしてくださる方、主がおられるということであります。
詩編139編にはこういう言葉が記されています。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」(1節)。「わたしの舌がまだひと事も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(4節)。それは救い主を通して与えられた私にとってのまさに福音でした。
「わたしは何もなのか」という問いに、「わたしは知られている者である」「神はわたしを知っておられる」という回答を得たからです。 人は心構えをします。けれどもそれで絶対的なものを得ることは出来ません。ここに「主よ、わたしの舌にあなたの答え、あなたの良しとされることをお与えください」との祈りが必要なのです。
知者は3節で言います。「あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。」
「ゆだねる」と言うと、何かすべて神頼みというふうに聞こえるかもしれませんが。それは神さまにすべて丸投げするということでは決してありません。ここでの「ゆだねる」とあるヘブライ語「マーシャル」の原意は、「転がす」という意味です。 それは「あなたの業すべてをゴロゴロと重い石を転がすように主のもとにもっていきなさい」ということです。ゴロゴロと重い石を転がすように祈りに祈って、信仰を戴きつつ事をなしていく。それが「主にゆだねる」人の姿であります。そのように生きていく時、「主にあって人の計らいが固く立つ」そのあかしとされていくのであります。
1~3節までの格言は、「人の思いによって計画」を立てる私たちに対して、「祈りの道」という主の知恵の必要を教えてくれます。
「主に立ち帰る道」
さて4節~6節ですが。ここには「主に立ち帰る道」が主の知恵として示されています。
4節では「主が逆らう者をも災いの日のために造られた」とありますが。主のいとわれるその最たるものは5節にあるように「高慢な心」であります。まあ旧約聖書おいて真先に頭に浮かびますのは、出エジプト記の王ファラオですが。彼はその高慢と悔い改めることのない「頑なな心」によって、遂に災いを被り滅び去るわけですけれども。6節にあるように、「神を畏れ」敬う道、「主に立ち帰る道」を見出した者は、悪から離れ、神の慈しみとまことを見出し、その人は罪を贖われるのであります。それは箴言の冒頭にありますように、まさしく「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節)であり、どんな格言にも勝る人を生かす真理なのです。
「主の慈しみまことに与った人の道」
そのように主に喜ばれる道を歩む時、7節「主はその敵をもその人と和解させてくださる」というのであります。又、8節には「稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅かなもので恵みの業をする方が幸い」とありますが。「主の慈しみとまことは罪を贖う」という実体験をした者は、そのような真に豊かな生き方へと、主によって変えられる、ということであります。
「人の心の計画と主の計らい」
最後の9節でありますが。「人間の心は自分の道を計画する。(しかし)主が一歩一歩を備えてくださる」と知者は言っています。これが、本日の締めくくりの御言葉です。私たちは自分の心に基づいて様々な人生設計や計画を立てて日々をあゆんでいますが。しかし時としてその通りに事が運ばなかったり、挫折を経験することもあります。が、そこで出た結果に縛られることはありません。それは、主がわたしのすべてを知っていてくださる。その主だけが本当に良しとされる事、成るべき事をご存じであり、祈りのうちに導いてくださるからです。主に立ち帰って生きる者に主は再生の道を与え、その一歩一歩を備えてくだいます。「主を畏れることは知恵の初め。」そこに「神の計らい」が必ずあるという信仰的な体験を今日ここから、又心新たに踏み出してまいりましょう。祈ります。