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主は羊飼い、わたしは羊

2013-10-06 16:45:51 | メッセージ
礼拝宣教  詩編23編  

本日は旧約聖書の中でも最もよく知られている詩編23編から、「主は羊飼い、わたしは羊」と題し、み言葉を聞いてまいります。
我が家にも「茶色い羊」(愛犬)がいますが。私が帰宅するその足音に誰よりも早く気づき、ドアを開ける前から待ち構えて、中に入ると後ろ足で立ち上がり、短い尻尾をちぎれんばかりにパタパタと振ります。子どもはちょっかいを出すので避けて通り、連れ合いは洗ったり、つめを切ったりなどの世話をするので、どうも怖がられています。私はたまに早朝の散歩と餌をあげるのが仕事なので、食いしん坊の茶色い羊には好かれているのでしょう。呼べば嬉しそうについてきます。まあそのい信頼しきった愛情あふれるひとみで見つめられると私としても答えなければなどと思って、ついエサをやり過ぎてしまうわけですが。

「羊飼いと羊の関係」
さて、羊に関しては何度も礼拝でもお話ししましたが。羊という動物の習性は群れをなして生きるということです。なぜなら一匹では生きられない弱い存在であるからです。オオカミなどに襲われればひとたまりもありません。又、決して賢いとはいえず、すぐに道に迷ってしまうような動物であります。ですから、遊牧された羊にとって羊飼いは絶対になくてはならない存在なのです。羊飼いがいなければ牧草地に行くことも、水のあるところにも行くことができません。放っておけば散り散りばらばらになり、すぐに猛獣の餌食になってしまいます。
 一方、羊飼いは子羊の頃から養育して信頼関係を築き、羊の群を導きます。羊はわからないなりにも自分の飼主とそいの声はよく聞き分け従います。この羊との信頼関係がなければ放牧することは出来ないのです。羊飼いはこの詩にもあるように「鞭」や「杖」を用いますが。それは羊に罰を与えるものではなく、羊を襲う外敵である野獣から守るために「鞭」で威嚇するために使われます。「杖」はその曲がったところを、迷い出ようとする羊の首にひっかけたりして群に連れ戻すために使われるのです。羊たちにとって鞭や杖は恐ろしいものではなく、むしろ羊飼いへの信頼を覚えるものなのです。それらのことを知ってこの詩篇を読みますと、まことに味わい深く作者の思いが伝わってまいります。
新約聖書ヨハネ福音書10章のところには、主イエスさまがご自身を羊飼いにたとえておられますが。主イエスは、「わたしはよい羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」、又「羊はわたしの声を聞き分ける」とおっしゃっています。
主イエスの呼びかけと導きを信じ、従う人はみな主の牧場の羊であり、命をかけて羊を守るよき羊飼いに養われる者なのです。

「あなたが私と共にいてくださる」
今日の詩編23編1節に「主は羊飼い」と記されていますけれども、原文に従って正確に訳せば、これは「主はわたしの羊飼い」と単に羊飼いではなく、私の、私にとっての羊飼い。「私を」守り、導いてくれる唯一の羊飼いだ、というのですね。この詩篇の作者は、「主が羊飼いのように私を導いてくださるお方である」、それも4、5節に「あなた」と二人称で呼びかけているように、神さまと自分を非常に密接な「あなたと私」という関係でとらえたのですね。ある人が教会にきだして間もない頃、祈りの場に集まった人たちが、神さまというのではなくて「あなた」という呼びかけ祈るのを聞いて、その神との関係性に非常に驚きをもった、という話を聞いたことがあります。そのような神との関係性をくださった主イエスの救いの恵み、神が私と共にいてくださるというその祝福はまことにすばらしいものです。
特に今日心に留めたいのは、さらにこの4、5節に記されていますように作者が「死の陰の谷を行くとき」、又「わたしを苦しめる者を前にして」いるという人生の中でも大きな修羅場といいましょうか、大変厳しい状況におかれた時、この歌が詠まれたということです。あるいはその修羅場をくぐった後に回想して詠まれたのかも知れませんが。いずれにしても、そのような時に作者は、「主よ、あなたが私と共にいてくださった、これからも共にいてくださる」と謳っているのです。
私たちは世にあって、その存在が脅かされるような出来事が時に起こってまいります。信頼していたものから裏切られ信頼を喪失し、何を信じていいのか分からなくなる経験をされた方もおられるかも知れません。あるいは、治療や改善がなかなか望めずに闘病生活をなさっておられる方々の胸中は計り難いものがございます。そのような時、信仰者にとってこの詩篇23篇の讃歌は、どれほどの慰め、どれほどの励ましとなってきたことでしょうか。
詩編の作者が表明した、「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」との信頼の思いは、時に揺らぎながらもそれにすがる者に確かな平安を与え、希望さえ抱かせます。それはほんとうに私たちの人生の宝であります。

「魂を生き返らせてくださる」
さて、詩編23編はその前の22編とのつながりの中で読みますと、その内容がさらに豊かにされます。
22編1節にあります「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」これは主イエスの十字架上での叫びと重なります。9節も「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」と、十字架上の主イエスを罵倒した者の言葉であり、19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとする」という、これも十字架につけた兵士たちが主イエスになしたことでした。このように22編は主イエスの苦難と死の出来事を先取りした詩とも読めます。しかしそればかりではありません。30節後半~32節に「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、成し遂げられた恵みの御業を民の末に告げ知らせる」と、まさに主の復活と救いの祝福が予告されているようであります。が、それだけではないのです。30節前半には「命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得」と。
このように、主につながった魂は必ず命を得る、という信仰を背後に読み取りながら次の23編を読みますとその豊かさがほんとうに伝わってくるのです。特に3節の「主はわたしの魂を生き返らせてくださる」という言葉は、どんなにか私たちのうちに強い支えと慰めを与えてくれることでしょうか。

牧師をしていて幸いといっていいと思いますのは、たとえ死の陰の谷に行く折においても、「主よ、あなたがわたしと共にいてくださる」という信仰の平安をもって天に召されていかれる方々のお姿に接することが許されるそのような時です。詩編には、たとえば17編15節に「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 目覚めるときには御姿を拝して 満ち足りることができるでしょう」という御言葉がありますが。ここでの目覚めとは、死からの目覚め、復活を意味しているということであります。それはどんなに心強いことでしょう。

6節「命ある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」
私はこの6節の言葉に大変励まされます。
一人ひとりの命はみな主なる神さまによって造られたがゆえに尊くかけがえのない存在です。ましてや羊のために命まで捨てるよき羊飼い主イエスにより贖われたお一人お一人です。主はその命が脅かされたり、危機にさらされることがないように、羊飼いのように見張りをされ、迷い出ることのないように鞭と杖でもって守り、力づけていてくださるお方が今も、いつも共におられます。羊である私たちは羊飼いであるその主の愛に信頼し、主の御もとに生涯とどまり、その恵みといつくしみを分かち合ってまいりましょう。

信仰は主が共にいてくださる、という体験です。私たちの身近なところに「主は生きておられる」「共にいて導いてくださる」という、出来事をもう一度それぞれの歩みの中から振り返ってみることは、大事なことです。きっと、主があのとき、このとき、導いていてくださっていた。支えてくださっていた、という事に気づくことができるはずです。
よき羊飼い主イエスの御もとで「恵みといつくしみがいつも私どもを追ってくるのです」。そういう豊かな日々を共々にあゆんでまいりましょう。
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