主日礼拝宣教 ヨハネ6・1~15
先週は主の晩餐がもたれましたが。あるパンの製造会社のパンの袋には「Daily Bread」と印刷されています。クリスチャンでもある初代創立者はそこに霊肉養う「日毎の命のパン」という思いを込め製造したのです。私たちは日曜日毎の礼拝を大切にし、水曜日には特別な祈りの時を持ちます。しかしパンやご飯を毎日戴くように、霊的な糧である命のパンを戴くことで、私たちは本当の意味で養われていくのです。「人はパンだけで生きるものにあらず、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と主はおっしゃいました。
本日の聖書の箇所として先程ヨハネ福音書6章のところが読まれましたが。この個所は「5千人の給食」としてよく知られ、他の福音書すべてにも記されていますが、今日はここから「命のパン」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
さて、6章の1節冒頭に「その後」という書き出しがありますが、これは4章でイエスさまが「役人の息子をいやされた」事や、5章では「ベッサイダの池で病人をいやされた」事を受けてということであります。続く2節には「大勢の群衆がイエスの後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。つまり群衆はイエスさまが病人をいやされたしるしを見て、イエスさまを向こう岸まで追ってきたのであります。彼らのうちの多くは恐らくその身に病気を抱えていたり、身近な家族や親族に病人がいて、何とかイエスさまにいやして欲しいと乞い願っていたことがそこから読み取れます。イエスさまは弟子たちと山に登り、そこに腰をおろされますが、目をあげると大勢の群衆がご自分の方に迫って来るのを御覧になります。
しかし、イエスさまはここでは病気のいやしを行われません。群衆が近づくのを御覧になったイエスさまは、病ではなく人の抱える別の問題にお察しになるのです。
そこでイエスさまは、弟子のフィリポにこうお尋ねになります。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
するとフィリポはその質問に対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」とまともに答えます。1デナリオンは当時の1日分の賃金に価するそうで、それが5千円だとしたら、100万円以上ということになります。まあそのようなお金を弟子たちが持っていようはずはありませんし、それだけの分の食糧を販売し調達できるような所などむろんなかったでしょう。何とも答えようがないというのがフィリポの反応であったのですね。
その隣にいたのか、弟子のアンデレがイエスさまに、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役に立つでしょう」と口を挟みます。しかしこのアンデレの答えも、さほどフィリポと変わるものではありませんでした。
弟子たちは自らのパンを持っていなかったのでしょうか。他の福音書の記事では、5つのパンと2匹の魚は、少年がもっていたとは記されていないので、それが弟子たちの携帯品としても読めなくありません。だとしたなら、弟子たちは早く群衆を解散させて自分たちも食事を取りたいという気持ちがあったのかも知れません。まあ弟子たちだけで食べるにしてもそれなりの人数はいたでありましょうから、パン5つと魚2匹では本当に一摘みずつしか口にはできなかったことでしょう、
どちらにしても、この少年が持っている僅かで粗末な食べ物が一体何の役に立つのでしょうか。
けれども、男だけで5千人もの人々に対する食物としての5つのパンと2匹の魚を、イエスさまは少なすぎるとはおっしゃられなかったのです。「足りない」とか「少なすぎます」と言ったのは弟子たちでした。
その事を知ったイエスさまは、そのパンと魚を受けとられ、男だけで5千人、女性や子どもを加えるとその倍の1万人ぐらいはいたのではないかと言われていますが。その人々を前に、パンを取り、感謝と祈りを唱えてから、分け与えはじめたのであります。
弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。それは割いて分けけば分けるほど増えていくパンを目の当たりした群衆も同様であったでしょう。主イエスはまた、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられたのです。他の福音書ではこのパンと魚を弟子たちが配給したとされていますが。ヨハネ福音書ではイエスさまご自身があたかも群衆の一人ひとりと向き合うようにパンと魚とを欲しいだけ、そのように分かち与えられたというのですね。
この福音書の記者であるヨハネには、イエスさまが人々を一かたまりの群衆としてではなく、一人の人として向き合い、その必要に応じられているように感じられたのではないでしょうか。
さて、今日の物語の最も豊なメッセージそれは、このイエスさまご自身が「命のパン」であられるということにあります。主の晩餐の折に、賛美する「マラナタ」に命のパンを戴き、という歌詞がありますね。
イエスさまは、飢え渇き、疲れ果てた多くの群衆を青草の上に座らせ、その一人ひとりにパンを分け与えられました。それは肉の必要を満たすパンでありましたが、同時に多くの人を贖うため十字架上で割かれたイエスさまの御体を表す命のパンでありました。私たちが罪に滅びることのないように、魂の飢え渇きに滅びることのないように、その贖いの御業のために十字架の上で割かれた主イエスの御体。その天からの命のパンによって、今私たちも救われ養われているのです。
12節では、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と言われた、とあります。これはヨハネ福音書だけにあるのですが。ここで初めて、イエスさまは弟子たちに「残りのパン屑を集める」というなすべき働き、務めを指示されるのです。
聖書は、弟子たちがパンの残りを集めると「12の籠いっぱいになった」とあります。
それは常識では考えられないことであります。ちなみにこの12の籠というのは、12弟子たちが旅のために携えていた物入れのようなものであったらしいのですが。そこには物だけでなく彼らがイエスの弟子として経験した主の御業と教えがいっぱい詰められていたんではないでしょうか。また、12はイスラエル12部族の数ですから、それを超えて世界のいたるところにまで、主イエスの福音の御業と恵みは、溢れ出ていくということを示唆しているようにも思えます。
その神の愛・福音の拡がり、いや、ここに出てくるのはパンでありますから、福音の膨らみ、福音の味わいに、いわば異邦人である私たちもこうして与らせて戴いているわけでございます。
最後に、本日のこの聖書のお言葉を読みながら、もし自分がこの場にいたとしたなら、やはりフィリポやアンデレのように常識的に考えそのように受け答えていたのではないかと思うのです。どこか計算をして自分には絶対無理、これだけのもの、これだけの力しかないのだから、と後ずさりしたくなる私です。
けれども、よくよくこの記事を読みますと、イエスさまは私たちに出来ないことを求めているんではないのです。6節を見ますと、フィリポがイエスさまに尋ねられて何と受け答えしようかと考えている間にも、イエスさまは「ご自分が何をしようとしているか知っておられた」とありますよね。つまり主イエスは、私たちが何かを持っている、持っていない。できる、できないということを最重視しておられるのではなく、主ご自身がなさろうとしていることに、私たちがどう応えていくかを見ておられるということです。
私たちにできることは献金やスチュワードシップもそうですが、祈りつつ、心に決めた事を、主に差し出して、主に聖別して戴くとき、主はあたかも、わずかなパンだねでパンが膨らんでいくように私たちの思いを超えるような祝福を起こしてくださるのです。
この会堂建築はまさにそうでありました。私たちは多少なりとも痛みをもってお献げしてきました。主の御心に何らかの形で応えていきたいと、溢れる感謝を献げてきたのですが。もう早々と連盟や連合からの会場使用の依頼が次々に来ています。まさに私たちの祝福が豊かな広がりをもって分ち合われているんですね。
主は私たちに出来ないようなことは求めておられません。私たちの身近にあってできること、私たちに与えられているその時々の賜物をもって主に捧げて生きる。それを主は喜び祝して下さるのですね。、
私たちの生活の全領域において、主の愛に応え、主の愛を分かち合っていく時、主がどれほど豊かにそれをお用いになるかということを、この5千人の給食は者が物語っているのであります。
朽ちることのない「命のパン」なる主イエス・キリストに与って、日々を本当に豊かに歩みゆく者とされてまいりましょう。
先週9日木曜日の夜、O兄が心筋梗塞のため天に召されました。35歳という若さでした。妹さんからこの訃報を知らされ、大変驚き、残念に思いました。唯、彼が昨年、丁度新会堂の建築の真っただ中の時期に、仮会堂で守られていた礼拝に何度か出席をされ、「神のもとに帰って来ることができてうれしい、父もよろこんでいると思います」と言って、一緒に礼拝を捧げることができたのは、ほんとうにこれは主の導きであったのだと、改めて思わされました。その後、体調を崩されていたご様子で、もう少し関わっておればという心残りも私にはありますが。
もう一つ不思議なことは、O兄が教会に来られた同じ夏の時期に、妹さんもお近くのキリスト教会の集会のチラシがポストに入っていたのを御覧になり、それからその教会に月に一度ぐらいのペースで行き始められたということを、昨日妹さんから伺ったのですね。主は生きておられます。今は、残されたご家族のうえに、主の御慰めを、どうか皆様もお祈りに覚えて頂ければと存じます。
イエスさまは弟子たちに「少しも無駄にならないように残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。小さな私たちの証しかも知れません。しかし主の御業は少しの無駄もありません。主は豊かに祝して下さるお方であることに信頼しつつ、命のパンを戴き、分かち合ってまいりましょう。祈ります。
先週は主の晩餐がもたれましたが。あるパンの製造会社のパンの袋には「Daily Bread」と印刷されています。クリスチャンでもある初代創立者はそこに霊肉養う「日毎の命のパン」という思いを込め製造したのです。私たちは日曜日毎の礼拝を大切にし、水曜日には特別な祈りの時を持ちます。しかしパンやご飯を毎日戴くように、霊的な糧である命のパンを戴くことで、私たちは本当の意味で養われていくのです。「人はパンだけで生きるものにあらず、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と主はおっしゃいました。
本日の聖書の箇所として先程ヨハネ福音書6章のところが読まれましたが。この個所は「5千人の給食」としてよく知られ、他の福音書すべてにも記されていますが、今日はここから「命のパン」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
さて、6章の1節冒頭に「その後」という書き出しがありますが、これは4章でイエスさまが「役人の息子をいやされた」事や、5章では「ベッサイダの池で病人をいやされた」事を受けてということであります。続く2節には「大勢の群衆がイエスの後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。つまり群衆はイエスさまが病人をいやされたしるしを見て、イエスさまを向こう岸まで追ってきたのであります。彼らのうちの多くは恐らくその身に病気を抱えていたり、身近な家族や親族に病人がいて、何とかイエスさまにいやして欲しいと乞い願っていたことがそこから読み取れます。イエスさまは弟子たちと山に登り、そこに腰をおろされますが、目をあげると大勢の群衆がご自分の方に迫って来るのを御覧になります。
しかし、イエスさまはここでは病気のいやしを行われません。群衆が近づくのを御覧になったイエスさまは、病ではなく人の抱える別の問題にお察しになるのです。
そこでイエスさまは、弟子のフィリポにこうお尋ねになります。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
するとフィリポはその質問に対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」とまともに答えます。1デナリオンは当時の1日分の賃金に価するそうで、それが5千円だとしたら、100万円以上ということになります。まあそのようなお金を弟子たちが持っていようはずはありませんし、それだけの分の食糧を販売し調達できるような所などむろんなかったでしょう。何とも答えようがないというのがフィリポの反応であったのですね。
その隣にいたのか、弟子のアンデレがイエスさまに、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役に立つでしょう」と口を挟みます。しかしこのアンデレの答えも、さほどフィリポと変わるものではありませんでした。
弟子たちは自らのパンを持っていなかったのでしょうか。他の福音書の記事では、5つのパンと2匹の魚は、少年がもっていたとは記されていないので、それが弟子たちの携帯品としても読めなくありません。だとしたなら、弟子たちは早く群衆を解散させて自分たちも食事を取りたいという気持ちがあったのかも知れません。まあ弟子たちだけで食べるにしてもそれなりの人数はいたでありましょうから、パン5つと魚2匹では本当に一摘みずつしか口にはできなかったことでしょう、
どちらにしても、この少年が持っている僅かで粗末な食べ物が一体何の役に立つのでしょうか。
けれども、男だけで5千人もの人々に対する食物としての5つのパンと2匹の魚を、イエスさまは少なすぎるとはおっしゃられなかったのです。「足りない」とか「少なすぎます」と言ったのは弟子たちでした。
その事を知ったイエスさまは、そのパンと魚を受けとられ、男だけで5千人、女性や子どもを加えるとその倍の1万人ぐらいはいたのではないかと言われていますが。その人々を前に、パンを取り、感謝と祈りを唱えてから、分け与えはじめたのであります。
弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。それは割いて分けけば分けるほど増えていくパンを目の当たりした群衆も同様であったでしょう。主イエスはまた、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられたのです。他の福音書ではこのパンと魚を弟子たちが配給したとされていますが。ヨハネ福音書ではイエスさまご自身があたかも群衆の一人ひとりと向き合うようにパンと魚とを欲しいだけ、そのように分かち与えられたというのですね。
この福音書の記者であるヨハネには、イエスさまが人々を一かたまりの群衆としてではなく、一人の人として向き合い、その必要に応じられているように感じられたのではないでしょうか。
さて、今日の物語の最も豊なメッセージそれは、このイエスさまご自身が「命のパン」であられるということにあります。主の晩餐の折に、賛美する「マラナタ」に命のパンを戴き、という歌詞がありますね。
イエスさまは、飢え渇き、疲れ果てた多くの群衆を青草の上に座らせ、その一人ひとりにパンを分け与えられました。それは肉の必要を満たすパンでありましたが、同時に多くの人を贖うため十字架上で割かれたイエスさまの御体を表す命のパンでありました。私たちが罪に滅びることのないように、魂の飢え渇きに滅びることのないように、その贖いの御業のために十字架の上で割かれた主イエスの御体。その天からの命のパンによって、今私たちも救われ養われているのです。
12節では、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と言われた、とあります。これはヨハネ福音書だけにあるのですが。ここで初めて、イエスさまは弟子たちに「残りのパン屑を集める」というなすべき働き、務めを指示されるのです。
聖書は、弟子たちがパンの残りを集めると「12の籠いっぱいになった」とあります。
それは常識では考えられないことであります。ちなみにこの12の籠というのは、12弟子たちが旅のために携えていた物入れのようなものであったらしいのですが。そこには物だけでなく彼らがイエスの弟子として経験した主の御業と教えがいっぱい詰められていたんではないでしょうか。また、12はイスラエル12部族の数ですから、それを超えて世界のいたるところにまで、主イエスの福音の御業と恵みは、溢れ出ていくということを示唆しているようにも思えます。
その神の愛・福音の拡がり、いや、ここに出てくるのはパンでありますから、福音の膨らみ、福音の味わいに、いわば異邦人である私たちもこうして与らせて戴いているわけでございます。
最後に、本日のこの聖書のお言葉を読みながら、もし自分がこの場にいたとしたなら、やはりフィリポやアンデレのように常識的に考えそのように受け答えていたのではないかと思うのです。どこか計算をして自分には絶対無理、これだけのもの、これだけの力しかないのだから、と後ずさりしたくなる私です。
けれども、よくよくこの記事を読みますと、イエスさまは私たちに出来ないことを求めているんではないのです。6節を見ますと、フィリポがイエスさまに尋ねられて何と受け答えしようかと考えている間にも、イエスさまは「ご自分が何をしようとしているか知っておられた」とありますよね。つまり主イエスは、私たちが何かを持っている、持っていない。できる、できないということを最重視しておられるのではなく、主ご自身がなさろうとしていることに、私たちがどう応えていくかを見ておられるということです。
私たちにできることは献金やスチュワードシップもそうですが、祈りつつ、心に決めた事を、主に差し出して、主に聖別して戴くとき、主はあたかも、わずかなパンだねでパンが膨らんでいくように私たちの思いを超えるような祝福を起こしてくださるのです。
この会堂建築はまさにそうでありました。私たちは多少なりとも痛みをもってお献げしてきました。主の御心に何らかの形で応えていきたいと、溢れる感謝を献げてきたのですが。もう早々と連盟や連合からの会場使用の依頼が次々に来ています。まさに私たちの祝福が豊かな広がりをもって分ち合われているんですね。
主は私たちに出来ないようなことは求めておられません。私たちの身近にあってできること、私たちに与えられているその時々の賜物をもって主に捧げて生きる。それを主は喜び祝して下さるのですね。、
私たちの生活の全領域において、主の愛に応え、主の愛を分かち合っていく時、主がどれほど豊かにそれをお用いになるかということを、この5千人の給食は者が物語っているのであります。
朽ちることのない「命のパン」なる主イエス・キリストに与って、日々を本当に豊かに歩みゆく者とされてまいりましょう。
先週9日木曜日の夜、O兄が心筋梗塞のため天に召されました。35歳という若さでした。妹さんからこの訃報を知らされ、大変驚き、残念に思いました。唯、彼が昨年、丁度新会堂の建築の真っただ中の時期に、仮会堂で守られていた礼拝に何度か出席をされ、「神のもとに帰って来ることができてうれしい、父もよろこんでいると思います」と言って、一緒に礼拝を捧げることができたのは、ほんとうにこれは主の導きであったのだと、改めて思わされました。その後、体調を崩されていたご様子で、もう少し関わっておればという心残りも私にはありますが。
もう一つ不思議なことは、O兄が教会に来られた同じ夏の時期に、妹さんもお近くのキリスト教会の集会のチラシがポストに入っていたのを御覧になり、それからその教会に月に一度ぐらいのペースで行き始められたということを、昨日妹さんから伺ったのですね。主は生きておられます。今は、残されたご家族のうえに、主の御慰めを、どうか皆様もお祈りに覚えて頂ければと存じます。
イエスさまは弟子たちに「少しも無駄にならないように残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。小さな私たちの証しかも知れません。しかし主の御業は少しの無駄もありません。主は豊かに祝して下さるお方であることに信頼しつつ、命のパンを戴き、分かち合ってまいりましょう。祈ります。