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罪の告白と新生

2014-10-05 15:53:41 | メッセージ
主日礼拝宣教 イザヤ6・1-13      

本日から11月末まで、礼拝ではイザヤ書から御言葉を聞いていきます。
先週までの創世記から随分時代はとびますが、イザヤは南北に分断された南ユダ王国で働いていた祭司でした。
本日はその6章初めの、イザヤが主の召命を受け、預言者として立てられていく箇所であります。何で1章でなく6章かと思われる方もおられるでしょうが。イザヤは1章の初めに記されているように、ユダの王であるウジヤの治世から、宮廷専属の祭司として活動していたようであります。まずその背景を踏まえて今日のこの6章の主の召命があったということです。

ウジヤ王がユダ王国を治めていた当初は、高度成長が進み大変繁栄していました。ところがウジヤ王の時代の後半は、富の不公正、社会の階級化が著しく、それはあたかも今日の時代と同様に、経済一辺倒の政策を推し進める中で一部の富む者と多くの貧しい者の格差社会が拡がっていったのであります。
ウジヤ王は、その名が「ヤハウエはわが力」と示すとおり、神に仕える祭司でもありましたが、その晩年にはおごり高ぶり彼はもはや神を頼りとせずユダの国は堕落していくのです。礼拝や祭儀というものは形だけのものとなり、政治と宗教は腐敗していき、人々の間からは正義と慈悲の精神が失われ、神の悲しみと怒りをまねくこととなってしまうのです。

イザヤはそのようなウジヤ王の時代にあって、エルサレムとユダの国に対する神の審判、又、高ぶる者に対する審判を語り、富める者の横暴を非難します。遠くからの侵略者による審きを1章から5章で予告し、民に厳しい言葉で神への悔改めを迫ります。まあそのような時代背景がございました。

本日の6章はイザヤが預言者として主から召命を受けた時の記事でありますが。それはウジヤ王が死んだ時のことと記されてあります。神はウジヤ王の存命中は少なくともユダの国が滅ぼされることはないと約束しておられました。つまり、イザヤはウジヤ王存命中からユダの祭司や預言者として活躍していたのでありますが、この王権と時代が移り変わる時にイザヤは主なる神を目にすることにより、真の預言者として新たに主によって立てられた、というのが今日のこの箇所なのであります。

ここでイザヤは主の神殿、礼拝の場所において「主なる神が高く天にある玉座に座しておられるのを見た」と言っていますが、この衣の裾が神殿いっぱいに広がっている様は、その統治が隅々にまで及んでいることを表しているかのようです。
そこにセラフィムたち(神託を伝える天の使たち)が互いに呼びかわして唱えた声をイザヤは耳にしました。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
聖書には、この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた」とあって、それは神の顕現を示すものと言われていますが。これはただの現象であるだけでなく、主なる神さまの天上の統治とその力がこの地上で起こり、その働きがすべてを覆うものであることを示しているのです。
 
しかしイザヤは、そのようなセラフィムたちの「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」との荘厳な賛美を耳にした時、彼は共に賛美することができなかったのです。

そればかりか、彼は次のように告白するのです。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

イザヤは主の栄光を前にして、セラフィムたちと一緒にそのように賛美し互いに呼び交わすところに自ら立ちえないことを思い知らされるのであります。
それは彼自身が「汚れた唇の者であり、汚れた唇の民の中に住む者」、つまり言葉や口先では主を敬っていながら、その実不正にまみれ主の戒めを蔑ろにしている者でしかない。まさに彼が「わたしは災いだ、もう滅ぼされるしかない」と言っているように、自分がこれまで民に向けて語ってきたメッセージの数々が、意味をなし得ず、自らの汚れた唇が語ったものに過ぎないことを思い知らされるのであります。そこにはイザヤの上からの目線で人を裁くおごりもあったかも知れません。自分は彼ら罪人とは違うという思いがあったのではないでしょうか。
しかし実は、わたし自身も「汚れた唇の民の中に住む者の1人であるのだ」という自覚と罪の告白へイザヤは導かれるのです。ここを読む時、人ごとではないなと思います。クリスチャン、キリスト者は、自らが罪人なのだということ、それだからイエス・キリストの流された血、裂かれた体による贖いが必要である、ということを忘れてはならないのです。それを忘れてしまうとクリスチャンであっても自分のことを棚に上げ、人を裁いてしまったり、ユダの民のように神の愛から離れ背いていってしまうんですね。

さて、イザヤはここで主を見た。そしてその罪深さのゆえに滅びるほかない、と思ったのです。すると6節「セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来、祭壇から火鉢で取った炭火を、イザヤの口に触れさせ」、こう言ったというのであります。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
この炭火は単なる炭火ではありませんでした。イスラエルでは歴史のその初めから人の罪を清めるために神へ様々な動物が捧げられ、火で焼き尽くされてきました。その炭火には贖いのために焼かれた数えきれない動物の血が染みついていたのです。つまりイザヤの口に触れた熱い炭火、それは「贖いの炭火」であったのですね。
イザヤはこの贖いの炭火によって「その咎は取り去られ、罪は赦された」のです。それはほんとうに神の一方的なみ業、お取り扱いによるものでした。

このイザヤの罪の告白と主のお取り扱いが、イザヤを新しく生まれ変わらせ、真の神の僕、神に仕える者として立てられる原体験となっていったのであります。
この炭火は私どもクリスチャンにとりましては、言うまでもなくイエス・キリストによる十字架の贖いであります。私どもの信仰の原点はまさしくここにあるわけですが。

8節「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』 わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしをお遣わしください。』 すると主は言われます。「行け。」

神は、咎を取り去られ、罪ゆるされた者を招かれ、お用いになられるのです。
この世はその働きに能力を要求します。しかし、神さまがお用いになるのは本当に救いに与った人、神の救いの恵みを知る人なのです。罪赦された感謝と救いに与った喜びのあせない人を神さまは信頼し、お用いになるのです。

そのような事ですから、ここでイザヤが「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と言っていますが。それは何か自信満々に、私に能力があり、私ならやれると思ってそう答えたのではないことがわかりますよね。彼はきっと、「このような者をも用いてお役立てくださるのなら、どうぞ主よ、お使いください」と、ただ主の御憐れみのみによって答え得たのでありましょう。

さて、このようなイザヤの応答に対して、主は驚くべきことをその派遣に際して語られるのです。
主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔改めていやされることのないために。」

これはどういうことだろうと皆さんもお思いになられたのではないでしょうか。
ユダの民らは主の言葉を聞くけれども理解せず、実際それらの出来事を目にしていくとしても悟り得ない、と言うのです。どんなにイザヤが主の御旨を伝えても、ますます彼らの心の目は暗くなり、その心はかたくなにされ、悔い改めることがない。主は、イザヤをその民らのもとに遣わし、イザヤは主の審判を語り続けなければならないのです。何と希望もなく、無駄な骨折り、徒労のような働きではないでしょうか。

しかし、それに対してイザヤは、なぜですか? どうしてですか?とは聞かず、「主よ、いつまででしょうか」と尋ねます。普通であれば、そんな意味もないことをするのはどうしてですか、と言いたくもなるところでしょう。けれども、イザヤは「主よ、いつまででしょうか」と問うのです。実はこの「いつまででしょうか」という問いは、単なる抗議のようなものではなく、イザヤの願い、祈りがそこに込められた言葉なのです。それは、イザヤ自身がまさに主の御憐れみによって罪ゆるされたこの救いの喜びを、ユダの民らも共にする日が来るのはいつなんですか、という主への祈りであり、信仰の問いかけであったのです。

しかし、主の答えは変わらず厳しいものです。「町々が崩れ去って、住む者もなく 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

その後イザヤと主との対話はありませんが、イザヤはこの主の派遣のメッセージを背負いつつも、汚れた唇を清め、罪を赦してくださった主の御憐れみをいつも忘れることなく、ユダの同胞もいつかは主に立ち返って、主の御憐れみに与る日が来ることを祈り、願いつつ、預言者としての務めを果たしていったと思うのであります。

イザヤが預言者としていつも出発した原点は、私もユダの民の中に住む罪も咎もある者の1人である、という自覚であります。ただ主の御憐れみによる赦しと救いを受け、主によって生まれ変わり生かされている。そのことをいつも忘れることなく、彼は「民の外から」言葉や口先だけで語るのではなく、「民のただ中で」主に打ち砕かれた救われた者として主のメッセージを語っていくのであります。
聖書は、12節以降で「主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一残るが それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切株が残る。その切り株とは聖なる種子である」と語られていますが。
これはこの時代既に起こりつつあった北イスラエル王国の滅亡、さらに後々の南ユダ王国の滅亡と捕囚の出来事を示すものであり、その残りの民までも焼き尽くされ、切り倒されてしまいますが、それでも切株が残る。その切り株とは聖なる種子。口語訳聖書でははっきりと「聖なる種族」と訳されています。つまり、その人たちこそ神の救いとその喜びを共にする人たち、神の民であります。そして何よりも、その切り株からやがて芽生える「ひこばえ」こそ、すべての民の救いの主として到来されるメシヤ、イエス・キリストであります。私たちはいわばそこに接ぎ木された者としてその残された切り株につながれ、共に救いの喜びに与る者とされているのです。

イザヤはむろんその事を目にすることなく生涯を閉じたのでありますが。
しかし、確かに主の御憐れみによる救い主メシヤ・キリスト到来の預言は、イザヤの預言者としての地道な働きの延長線上にあり、確かにつなげられていくのであります。
「主よ、いつまでですか」との切なる祈りが答えられる時が必ず来る、いやすでに来ているのであります。

このようにこれから礼拝で読んでいきますイザヤ書は、民の背信と人の罪を鋭く問いかけ、厳しくも神の審判を語るのでありますが。一方で、神の救いとその先にある希望を指し示す貴重な記録でもあるのです。
今日の私たちの取り巻く社会もまたウジヤ王、又その後の王権の時代と重って見えてまいります。そういうただ中で、自分も民らと同じ罪人に過ぎない者であるという自覚をもって、民のうえに悔改めと主の御憐れみが臨むことをあきらめず祈り、その民の中で主の言葉を語り続けていったイザヤ、その信仰者としてのスピリットを今日私たちも一緒に受け取って生きる者とされていきたいと思います。

最後にⅠヨハネ3章18節を読んで、本日の宣教を閉じます。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」
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