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切り株から希望の芽が

2014-10-19 13:04:56 | メッセージ
主日礼拝 イザヤ11・1-10       

先日、人権を大切にする共生社会をめざして「へイトスピーチについて考える」というテーマで郭辰雄(カク・チヌン)さん(コリアNOGセンター所長)のご講演を聞く機会がありました。ヘイトスピーチは、生まれ、門戸、国や民族など自分で選ぶことができないもの、それを特別な属性として差別と排除の意図をもって暴力や誹謗中傷する言動であるということです。そしてこういった人種差別は人を死に追いやり、戦争につながっていくということであります。ユネスコ憲章の前文に「すべての人の心に平和の砦を」という言葉が謳われていることをあげて、戦争は「人を人として認めない」「憎悪の念を植え付け」「人を恐れる恐怖心を教えこむ」ところから起こる。それは「人の心の中に生まれるものであるのだから」、私たちはそれに抗する心に平和の砦を築いていく人権感覚をあらためて深めていくことが大事だということを、おっしゃられていた言葉が心に留まりました。社会的な構造悪というものは確かにありますが、その構造を変えていくには「すべての人の心に平和の砦を」とあるように、やはり一人ひとりの「心」や「魂」の根っこのところが大事であるということを強く思わされました。

本日はイザヤ書11章より「切り株から希望の芽が」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。今日のイザヤ書の箇所は、キリスト教会では「この若枝こそ救い主メシヤ、キリスト」の到来であり、預言の成就であるということで、クリスマスを祝うための待降節にもよく読まれる箇所でもございます。

この預言がなされた時代背景は、紀元前722年の北イスラエルがアッシリアによって滅び陥落した後、南ユダも又そのアッシリアの脅威にさらされる状況下で、イザヤはそのユダに向けて、10章24節「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな」「主の怒りは彼らの滅びに向けられる」と語ります。
さらにイザヤは、10章33節「見よ、万軍の主なる神は 斧をもって、枝を切り落とされる。・そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち レバノンの大木を切り倒される」と言うのでありますが。それは大国アッシリアの傲慢と偶像礼拝による滅びであると同時に、何と南ユダもまたその主への背信と罪のゆえに台頭するバビロニアによって滅ぼされる、という真に厳しい裁きの預言でありました。
主の言葉を聞きながら悔改めることのなかったユダは後にバビロニアによって崩壊の途を辿り、都エルサレムも遂に壊滅的な状況とされるのであります。それはかつて日本が戦争に破れ、焼け野原となった光景と重ねて見る事もできましょう。
エルサレムの神殿は倒壊し、その周辺の家々は焼き払われ、廃虚と化し、若者らは捕囚として連れ去られ、まさに切り倒された大木の切り株のみが残されるような惨たんたる結末を迎えるのです。
ところが、11章1節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。」

これで終わりではなかったのですね。主なる神さまは彼らがその裁きのため滅ぼされることを決してよしとはなさいません。神さまのご計画は人の目に見えないところにおいて着々と推し進められていたのであります。
この「エッサイ」とは、統一イスラエル王国の初代王であるダビデの父親の名です。ダビデはエッサイの7番目の末っ子であったのですが、神の召命によりイスラエルの王となるのです。列王記や詩編には、ダビデの人としての弱さや罪深さまでもありのまま記されておりますが。その人間くさいといいますか、神さまに依りすがらなければ到底立ち得ないその祈り、嘆願、その賛美というものは、時代を越えた今の私たちにも深い共感を与えて続けているのであります。
まあ、そのようなダビデ王が築き治め、ゆたかな葉を茂らす大木のようになったイスラエルの王国もやがて南北に2分され、北イスラエルは滅び、遂に南ユダも切り倒される木のように滅びるしかない裁きの時を迎えるのであります。しかし、今日の聖書はその切り株からひとつの芽が萌え出でる、というのですね。
このエッサイの大木は切り倒されて切り株のみが残りましたけれども、そうです、その根っこの部分はしっかり生きていたのですね。「その根からひとつの若枝が育つ」のです。根っこのところというのは土の下ですから目には見えません。大木でありますならその根はその地表に現れる大木の大きさの何倍何十倍もの大きな根を地中に張りめぐらしているものです。根のことをルーツと言い、根源とか根本、核心あるいは基礎というのもルーツです。ユダの人々にとってのルーツ。根っこはまさしくアブラハムから脈々と受け継がれてきた救いのバトン、それは弱く小さい民を選び導かれる神さまへの信仰でありました。
この根っこをして語っているのは、「大事なものは目には見えない」という事であります。この地上、世界にあって人を生かし支えているのは、目には見えないもの、希望や夢。愛。私たちにとりましてそれはまさしく「信仰」であります。それは人の目には見えませんが、この世界の根底にあって芽ぶき育ち実らせる原動力となっているのです。

さて、話を戻しますが、イザヤは、この切り倒されたエッサイの切り株から、若枝、すなわち平和の王(メシア)が出現なさると預言します。そしてこの王がダビデやソロモンといった世的な王と異なりますのは、「主の霊がその上にとどまる」という点です。
2節にありますように「知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」に満たされた全く新しい王である、という点でありました。
さらに、この新しい王は3節以降で語られるように「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭でもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし 真実をその身に帯び」と、そのように世界を治めるお方だというのです。
これまでの旧約聖書におけるたとえばサムソンやギデオンのような士師たち。彼ら12人はイスラエル王国が出来るまでの間さばき司として仕えたとされますが。彼らはイスラエル王国成立のために主に軍事的指導をなした者たちでありました。
今巷では「軍事官兵衛」の大河ドラマがヒットしておりますが、彼も「シメオン」という洗礼名を有していたようで、クリスチャン武将として戦国の世においてその軍事的手腕と知恵は人並み外れていたということが評価されております。けれども旧約時代の士師たちや黒田官兵衛らのその活動も、限定的なものでまた限界をもっていたと言わざるを得ません。いかなる軍事力や武力によってしても恒久平和は築かれるものではありません。ましてや6節以降に暗示されるような共生、共存の世界は実現しないのです。
意味じくもイザヤ書2章4節、5節に終末の平和についての預言がこう語られています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ。主の光の中を歩もう。」
この預言の言葉はまさに日本国憲法9条と共鳴しているように私には思えるのであります。時代を越えても決して変わらない聖書の真理は今も生きているんですね。この福音の響きを有する憲法の精神がどうか守られますようにと祈るばかりでありますけれども。イザヤが預言する「新しい王」は、世の論理や見える権力や武力によって裁くのではなく、「主の正義と真実を帯びた王」として、弱い立場に立たされた人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護されるお方であります。又、そのようなご意志逆らう者らをその正しいみ言葉によって打ち、断罪なさるお方でもあられます。
新しい王による統治は、これまでのイスラエルの政治的、民族的な王国と結びついたものではありません。切り倒された木に象徴されるように、権力による支配は終わり、血筋による継承は断たれるのです。そしてそこから芽生え育った若枝、主の霊がとどまるメシアなる王によって全く新しい救いのご計画が始められていくのであります。
6節以降では、その平和の王が治める世界観が描かれているのであります。
「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さな子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの
 聖なる山においては 何ものをも害を加えず、滅ぼすことはない。」

そのようにダビデ王に勝る、平和の王であられるメシアのもとでは、神と人との和解、国々の平和がもたらされるのです。それは「狼は子羊と共に宿り」「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる」ごとく、もはや対立や恐れもない。世の力に小さくされていた者をもはや脅かすものもない。敵対していたものが牙をむくこともない。あたかもそれは天地万物の造り主であられる神さまが創世記1章において、すべてのものを創造し終えた時にそれらを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃった、そのような世界であるでしょう。まさに「大地が主を知る知識で満たされる」とありますように、あらゆる国々のあらゆる民が、国や民族を越えて共々に主なる神さまの臨在とその働きを知るに至るときが訪れるという素晴らしいビジョンが語られているのであります。

10節「その時が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

イザヤ自身は地上の生涯においてその出来事を目にする事はありませんでしたけれども、彼はその出来事が将来必ず実現するとの信仰による希望を抱いていました。
イザヤの時代から700年余の想像しがたい幾多の道のりと苦難の時代を経、遂に神の御独り子イエス・キリストが真の救い主、平和の君としてユダの地にお生まれになられたのであります。それも単にユダヤ人、イスラエルという民族や国だけの救い主ではなく、すべての民、世界のメシア、平和の王としてお出でくださったのであります。私たちも今こうして、その旗印を見上げ、その栄光を拝しているということでございます。

最後に、今日のこの「平和の王」と「その御国」についてのイザヤの預言というのは、当時のユダヤの状況と現実的にはあまりにもかけ離れたものであったと思うのです。
けれども、イザヤはそれでもこの「平和の王」到来の預言を掲げ、かたくなな聞く耳をもたないユダの人々にそれでも訴え続けていったのですよね。
私たちの生きる世界や時代も戦争や紛争が後を絶えません。平和への道のりは険しいばかりです。しかし、私たち一人ひとりも又微力ながら、イザヤのように主の約束とそのお言葉を信じ、望みながら、平和の王として来られたイエス・キリストに倣い、和解の福音に生きる者として、それぞれの場所に今週も遣わされてまいりましょう。
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