日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

エマオへの道で

2023-04-09 14:27:56 | メッセージ
イースター礼拝宣教 ルカ24章13-35節 

イースターおめでとうございます。この主イエス・キリストの復活を記念する感謝と喜びは、ここに集われた方がた、又全世界のキリスト教会においても共にしていることでしょう。
先週は主イエスが十字架にかけられながらも、全ての人に救いをもたらすために神にとりなし、祈りつつご自身の命をおささげくださった主イエスの愛を共におぼえました。
主イエスは死んで葬られましたが、生前に予告されたとおり三日目によみがえられて、まず墓を訪ねた女性たちにそのお姿を現されるのです。
 今日の個所では、そのような人の思いを遙かに超える、天の御神のご計画を知るよしもない弟子たち二人に復活の主イエスはそのお姿を現されるのです。
 彼らはそのいまわしさから一刻も早く逃れるようにエルサレムの町からエマオの村へ向かう道を辿っていました。その距離はだいたい11.5キロメートル、人が歩いて半日の距離だということです。
この道すがら二人は、自分たちがメシアだと期待して従ったイエスさまがこともあろうに十字架刑に処されて悲惨な死を遂げたことについて話し合い、論じ合っていたのです。
その時です、復活の主イエスがその彼らに近づいて来られ一緒に歩き始められます。
しかし、彼らの目は遮られていてそれが主イエスだと分からなかったのです。

主イエスは彼らと歩きながら、「やりとりをしているその話は何のことですか」とお尋ねになります。弟子のクレオパが「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と答えると、「それは、どんなことですか」と彼らの心の奥底にある思いを引き出すように、さらに主イエスはお尋ねになります。
クレオパは、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と答えます。
クレオパらにとってイエスは、民を解放に導くあくまでも預言者の一人でした。そしてその人はもう過去の人であったです。そこにあるのは深い喪失感、失望感でした。
人はあまりにも思いがけない大きな苦しみや失望を味わった時、よく目の前が暗くなったなどと言いますが。彼らの目はそういった思いによって遮られ、そばにいる主イエスに気づくことが出来なかったのです。
人は時として、過去の出来事、それがよい事であれ、悪い事であれ、過ぎ去ったことに心が捕われてしまい、「今、目の前にあること、目の前にいる人」が見えなくなる、ということがないでしょうか?
復活の主イエスはまさに「今」、私たちと共にいまし、歩みを共にしていてくださるのです。

 さて、そのような彼らに復活の主イエスは、「ああ、もの分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言われ、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」るのです。

 私どもにとって聖書は活きた主の言葉であります。私どもは聖書のみ言葉をとおして、いつも活けるキリストと出会うことができます。それは旧約聖書であれ新約聖書であれ、救い主、イエス・キリストについて啓示されているからです。
確かに聖書を読んでいて理解しにくい点や分からない点もあるでしょう。私もそうです。聖書は読めば読むほど奥が深いです。しかし、主イエスが二人の弟子たちに忍耐強く、み言葉の解き明かしをなさったように、読み続けること、聞き、学び続けることで、実に聖霊は日々生活の中で、私どもの魂のうちに語りかけ、聖書の言葉を解き明かしてくださるのです。
 聖書は一人で読むことはもちろん大事ですが、主にある友との交わりの中で一緒に読むことはとても有益です。み言葉が独りよがりでなく、できるだけ正しく、拡がりをもって分かち合われていく。その只中に聖霊が働かれ、生きておられる主が共におられることを経験するのです。

 さて、復活のキリストのみ言葉の解き明かしを聞き、共に歩き、語り合っていた二人の弟子たちエマオの村に近づきます。それはきっと彼らにとって時間を感じないくらい心燃やされる時であったのでしょう。なおも主イエスが先に行こうとされる様子を見て、彼らは「一緒にお泊まりください」と「無理に引きとめた」とあります。えらい強引だと思いますが。それだけあの暗い顔をしていた二人の心は主イエスのお話なさったことに希望を感じていたのでしょう。
 ヨハネの黙示録3章29節以降で、主は次のように言われています。「わたしを愛する者は皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

 この2人の弟子たちはこの時まさに復活のキリスト、主イエスをお迎えしたのであります。おそらく彼らが、「一緒にお泊まりくださいと、無理に引き止めて」いなければ、この後のキリストとの愛餐の食事の機会もなかったし、目の前にいるお方が復活の主イエスだと知るよしもなかったでしょう。
 
 さて、彼らは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになる」キリストのお姿を見るや、その目が開け、イエスだと分かったというんですね。そうです、それはまさに主イエスが十字架につけられる前夜、弟子たちと共に持たれた最後の晩餐のときの光景であり、そこで主イエスが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いて、これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と、おっしゃったその場面が、よみがえってきたのです。
そして二人の弟子たちは目の前にいるお方が、その主イエスであることに気づくのです。

聖書は、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と伝えます。
復活の主イエスの姿がなぜ見えなくなったのかは分かりません。それを「復活の主イエスが霊なるお方だから」と解釈することも出来るでしょうが。ここで大切なのは、その時彼らの「目が開け、イエスだと分かった」ということです。
目に見える世界だけに囚われがちな目。その不安や恐れ、思い煩いで遮られている目が開かれ、主イエスが今も生きておられるということを知る。それは、主のみ言葉に聞き、主のみ前で共にパンを裂き、救いの杯を共にする時、一人二人と御心を求めて祈る時、心の目が開かれる、そんな経験を与えられるのです。

 さて、二人の弟子は次のように言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」
その「とき」とは、彼らがエルサレムからエマオへ向かう道の途上を指しているのでしょう。それは同時に彼らが生前、イエスさまと一緒に過ごし、歩いてきた道を振り返りつつ、あの日、あのとき、「心は燃えていたではないか」と言っているのです。
 彼らはイエス・キリストが十字架にかけられて殺された事から来る失望感や喪失感にさいなまれていました。しかし、復活のキリストと出会い、再び心燃やされ、33節以降に記されてあるように、時を移さず出発し、エルサレムに向かって行きます。そして他の弟子たちにも、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」というのです。

今日のイースターはクリスマスと共に大きなキリスト教の祝祭です。
クリスマスは2000年前に神の御子、イエス・キリストが私たちと同じ人間の姿をとった救い主としてこの世界にお生まれくださったことを祝う日ですが。この救いはイエス・キリストの十字架の苦難と死を通して、私たちの罪のあがないを成し遂げられるのです。
それだけではありません。イエス・キリストはその死に勝利し、予告されたとおり復活なさったのです。その神の大いなる御業を祝うのがイースターです。しかしそれは単なる記念日ではありません。復活のイエス・キリストは、今日の御言葉にありますように、「今も生きておられ、私たちと共に歩いていてくださる」お方なのです。

私たちはそれを聖霊のお働きによって知ることができます。
先にRさんの信仰告白を共にお聞きしました。
「社会人になっても教会に行こうともせずただ1人で黙々と聖書を読んで、『いつかきっと叶う』と委ねていかれるそんな時に、現在のお連れ合いと出会われ、教会に行ってみようと決心してバプテスト大阪教会の礼拝に通い始め、彼にも信仰について少し話しをしたところ、「自分の母親がクリスチャンで牧師・自分も洗礼を受けている」とのこと。このことを聞いたとき、箴言16章3節の『あなたのなすべき事を主に委ねよ。そうすればあなたの計るところは必ず成る』という一節が頭に浮かんできたということでした。Rさんはイエスさまが洗礼も受けていない、そもそも『いつかでいい』と考えているような私に、『洗礼を受ける機会』、そして『伴侶』、さらに『クリスチャンの家族や仲間』を一度にお与えて下さいました、と証しされました。そして「それは偶然ではなく、ハッキリとした導きと感じ、感謝せずにはいられません」と、主をほめたたえられたのです。
この玲那さんの証しを耳にし、その新しい命の道に歩み出された始めに立ち会った私たちも、生ける主のお働きに目を開かれる思いです。
 先立ち導かれ、すべてを備えていてくださる主、共にあゆんでくださる主が生きておられることを知らされ、私どもは大きな励ましを頂きました。

 本日の個所で復活の主イエスは、暗い顔をしていた二人の弟子たちに自ら近づかれ、共に歩かれます。復活の主イエスは忍耐強く彼らの思いを聞かれ、懇切丁寧に聖書の解き明かしをなし、キリストが苦しみを受けて栄光にお入りになられたこと、その十字架と復活の福音をはっきりと提示されるのです。そうして彼らの消えてしまったかに見えた信仰のともし火は再び燃やされていくのです。
キリストが共におられることが分かったとき、彼らはもはや暗い顔をして歩いていたエマオへの道を歩む者としてではなく、キリストにある喜びと勇気をもらい、ひるがえって他の弟子たちを励まし力づけるため、困難をも待ち受けるエルサレムへの道を歩いていくのです。
 イエス・キリストを救い主を信じて生きる者は、主イエスとやがてはっきりと顔と顔とを合わせてお会いできるときが訪れ、共に主の食卓に与らせていただくという希望を抱いて、この地上の生涯を歩んでいるのであります。
 私どもも又、信仰のともし火が消えてしまわないように、日々個人の祈りと霊想、共なる礼拝、それぞれの生活の場において、この復活のキリスト、インマヌエルの主が生きて共にあゆんでくださる喜びと希望をもって、このイースターから歩み出してまいりましょう。
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イースター主日礼拝式 2023年4月9日(日)10:30AMー

2023-04-05 17:52:29 | 教会案内

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イースター礼拝式 2023年4月9日

2023-04-04 07:14:46 | 教会案内

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十字架につけられるイエス

2023-04-03 10:06:01 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ23章26~43節 受難週 

  • 「イエスとの関わり」
 今日から主イエスの苦難と死を偲びつつ、神の救いの確かさとその深い愛を覚えて過ごす受難週を迎えました。
 本日はルカ23章26-43節より、「十字架につけられるイエス」と題し、御言葉に聞いていきます。
ここには無理やりイエスさまの十字架を背負わされたキレネ人のシモン、民衆と女性たち、さらに2人の犯罪人、ユダヤの議員たち、さらにローマの兵士たちと、様々な登場人物が記されています。
 彼らにとって、イエスさまとはどういうお方であったのでしょうか?
キレネとは今の北アフリカの地で、信仰に対する迫害から多くのユダヤの民が移り住んでいたと言われています。その地からシモンは過ぎ越しの祭りをエルサレムで過ごすために都にのぼっていたのです。そこで、彼は思いもかけなかった、イエスさまの十字架を背負わされることになったのです。
離散して祝福の地から遠く離れていたユダヤの民たち。しかし神はこの救いの実現の決定的瞬間に、彼らの代表としてシモンを招かれるのです。ただまあ、その時のシモンはそんなことを知るよしもありません。彼自身、なぜ自分がそのイエスの十字架を背負わねばならないのかという理不尽な思いがあったかも知れません。けれども神の救いの出来事は人の思いを超えて、この時すでに遙か彼方の地までもたらされようとしていたのです。
次に、民衆と嘆き悲しむ女性たちが大きな群れをなして、イエスに従ったとありますが。
イエスはその女たちの方を振り向いて、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供達のために泣け」と、仰せになります。これはエルサレムの崩壊と滅亡の予告でした。
神の御心はないがしろにされ、不正と搾取がはびこり、社会的弱者は捨ておかれるような状況。その破局へ向おうとしているエルサレムの都のために泣け、「自分の子どもたちのために泣け」「神に向って嘆き、祈れ」と、イエスはおっしゃるのです。
イエスさまはまさにそのような、エルサレムの神に対する背信と罪のために鞭打たれ、血を流しながら十字架につけられるために歩んでゆかれるのです。

ところでその女性たちは、なぜ、あんなにいつくしみ深いイエスさま、人を片寄り見ず、癒しもなされるようなお方が、十字架で処刑される残酷な目に遭わなければいけないのか、とただ悲しく泣いていたのです。しかし、エルサレムの民衆と女性たちはイエスさまの十字架と自分たちとの関わりについての思いに至ることはなかったのです。そしてこの後、エルサレムはローマによって瓦礫ひとつ残らない程破壊され、辛うじて生き延びた人々も散らされてゆく事となるのです。

 さらにユダヤの議員たちとローマの兵士たちが登場します。
彼らはそれぞれ「自分を救うがよい」「自分を救ってみろ」「自分自身と我々を救ってみろ」と、口々にイエスさまを侮辱するのです。
彼らが共通して考えていたのは、イエスがもはや「無力でしかない」ということでした。
「この人のどこが救い主、メシアなのか、どこに神の子としての威厳や風格があると言うのか。」そのように彼らはみな、イエスさまを侮辱し見下したのです「自分を救い得ない者が、人や社会をどうやって救うというのか。」「それでもメシアだと言うのか。」
彼らはほんとうの神の救いを知ろうとも求めようともしないので、それを受けることができなかったのです。彼らは十字架のイエスさまと何の関わりがなかったのです。

  • 「イエスのとりなし」
そのような人々を前にして、イエスさまは十字架に磔にされ、痛みと苦しみの極みにおいて、何と「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と、天の神にとりなし祈られるのです。
イエスさまがここで、「彼ら」と言っているのは、イエスさま十字架につけた人々のことです。又、その苦難と死が、自分たちとは関係がないと考えるすべての人々のことを指しているのです。
神の御心を尋ね求めようとしないユダヤの祭司や律法学者、議員たちは、神の時をさとり得ず、神の御子であるイエスさまの言葉と行いが理解できず、憎しみと妬みが殺意にまで及ぶのです。
さらにエルサレムの民衆は、イエスさまのエルサレム入城をホサナ、ホサナと喜びたたえて迎えましたが。自分たちの思い通りでない状況になると、僅か数日で「イエスを十字架につけろ」と大声で叫ぶ側になっていくのです。
そしてさらに、ローマの権力者と兵士たちは、その高慢によってイエスさまを侮辱し、暴力によって罪なきイエスさまを鞭打ち、十字架につけて処刑するのです。
そうしてみますと、もはや全ての人間が何らかのかたちで神の子主イエスの殺害に関与したということになります。つまり、主イエスの十字架を前にして、すべての人の罪があらわにされるのです。

 イエスさまはそれにも拘わらずご自分を十字架に引き渡し、殺害しようとする者のために、父の神に赦しを乞い、とりなし祈られるのです。
「愛は恐れを閉め出す」(箴言)との御言葉がございますが。これほどの状況の中でささげられたイエスさまのこの「とりなし」の祈りの、その根底にある人間愛には魂が揺さぶられます。

 かつてイエスさまは、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回。『悔改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章)とおっしゃいました。さらに、「あなたがたは敵を愛しなさい」(ルカ6章)と、語られました。
 まさにイエスさまはその最期まで、ご自分に敵対するような人びとをも赦し、執り成されるのです。これが神の愛です。

イエスさまがその身をもって示されたのは、どのような人であっても神の愛に立ち返って生きるように、とりなす祈りであります。イエスさまは罪人が捕われ解放され、その本来の命を得ていく人生を願われるのです。罪深い者は神の前に取り戻されるために十字架におかかりになってまでもとりなしてくださるとは、どんなに大きな愛、そして救いでしょうか。
こうして主イエスのとりなしにより、ゆるされ与えられている新たな人生は、このキリストのお姿に倣い、ゆるし、とりなし、和解に生きる人生でありましょう。

  • 「わたしの十字架」
 さて、この十字架上でのイエスさまのとりなしの祈りは、同様に十字架に磔にされていた二人の犯罪人にももちろん聞こえていたでしょう。
しかし犯罪人の一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしった、というのです。イエスさまのとりなしの言葉はその彼の心に届きません。彼は心を閉ざしイエスさまを「ののしり続けた」(原意)のです。彼はユダヤの議員たちやローマの兵士たちと同じように、イエスさまに向かって「自分を救ってみろ」といい、さらに「我々を救ってみろ」と言うのです。彼はおそらくユダヤ人であったと考えられますが。ローマ帝国に対して何らかの政治犯か活動家であったとも言われています。ローマ帝国の支配の下でユダヤ民衆はいつか救世主(メシア)が現れて、政治的な指導力や軍事的力を発揮し、ユダヤの民を解放に導くと、期待していたと考えられます。それがもしかしたら、「あのイエスという男かもしれない」。そんな期待が、十字架にはりつけになった無残な敗北者のその姿によって崩れ去った。
イエスさまはかつて、「剣をとる者は皆、剣で滅びる」と、おっしゃいましたが。世の力に依存する者は、その暴力と裏切りの泥沼から抜け出せなくなっていきます。もしイエスさまがそのような世の力をもって無血で、ローマ帝国の支配からユダヤを解放なさったとしても、その平和は一時のものに過ぎなかったはずです。世には争いが絶えず、その強大なローマ帝国さえもやがて衰退と滅亡の時が訪れるのです。そのように世の権力や支配は移り変わりやがて虚しく消えゆきます。
 しかし、イエスさまはとこしえに変ることのない「天の国」(神さまがご支配される国)を人々に伝え、お示しになられました。その究極的現れこそ、この十字架のお姿なのであります。
神の国がなぜ、無残なはりつけの姿に啓示されているのかとお思いになるかも知れませんが。それは、2人の犯罪人のうちのもう1人に、イエスさまが「今日、あなたはわたしたちと一緒に楽園にいる」とおっしゃった、そのお言葉に表されています。

 そのもう1人の犯罪人も、イエスさまのとりなしの祈りを聞いていました。そして、イエスさまをののしる相方の犯罪人に、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言ってたしなめるのです。
 彼ももしかしたら始めはイエスさまに失望していた1人であったかも知れません。ところが彼はイエスさまが、自分を十字架にかけるような人のために天の神にとりなし祈られるその姿を目の当たりにするのです。
彼がどういう人であったかわかりませんが。十字架につけられるのですから暴力に依存してきた人かも知れません。それが、力によらず、ただ神の愛に生きる十字架上の主イエスと出会った時、彼の中で何かが変りました。彼はもう一人のののしり続ける犯罪人に、「お前は神をも恐れないのか」と言います。彼はイエスさまのお姿ととりなしの言葉に、自らを深く省み、真に神を畏れ敬う心を取り戻すのです。十字架刑という極限の状況で、彼はイエスさまの中に神の救いを我が事として見出すのです。
 彼はここで何と、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うのであります。「あなたの御国。」彼はこの主イエスの中に「神の国」「御国」を見るのです。

 イエスさまはその彼の言葉に対して次のようにおっしゃいます。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」原語では、この今日はとは、「もうすでに」という意味です。
 彼は十字架から下りて助かるということはありませんでした。その十字架の上で苦しみながら地上の生涯を終えるのです。けれど彼は、「今日、すでにあなたはわたしと一緒に楽園にいる」という「神の国」の平安の中で召されていくのです。イエスさまの約束、これは罪のゆるしの宣言。その確かな希望を戴いて天に召されていくのです。
 楽園というと、あのアダムとエバ、人間が神と近くにあって共に生きていたエデンの園を思い起こさせます。神の愛と救いの主イエスが一緒にいてくださる。それが彼にとっての、又、同様に主イエスと出会った私たちにとっての楽園、パラダイスなのです。

 主イエスの十字架を挟んで左右に二人の犯罪人の十字架がありました。今から2000年も前の出来事です。けれどもそれは、今を生きる「私のための十字架」でもあります。
2人の犯罪人が十字架につけれられたように、私もまた、罪に滅ぶ外ないような者であります。そのような者のためにイエスさまが十字架にかかり、その裁きの苦しみの中から、神の愛としか言いようのないとりなしの祈りをささげてくださった、いや、ささげててくださっているのです。

 この二人の犯罪人について、皆さんはどうお思いになるでしょうか。
犯罪人の1人は主イエスを最期までののしり続けます。一方の犯罪人は十字架のイエスとの出会いによって神のゆるしと和解を得、神に立帰って救われます。
 十字架にはりつけにされたイエスさまと自分との関係を見いだし、神への畏れを持って立ち返った者と、十字架にはりつけにされたイエスさまと自分との関係を退け、神の救いを拒んでののしり続ける者。
聖書はこの両者に対して何の評価もつけていません。ただ、イエスさまはそんな彼ら二人の真ん中に十字架にはりつけにされておられる。ここにメッセージがあるように思います。
 イエスさまは片方の人に救いの宣言をしながら、一方の自分をののしり続ける人にも、「父よ、彼をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、最期まであきらめることなく、救いのとりなしの祈りを捧げておられるのです。
 アーメン。ああ、何と主の愛といつくしみは深いものでしょう。

 今日、私たちは、イエスさまが苦しみあえぐ十字架上で、あざける人々、十字架の救いを知らず無関心であった人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈られたこと。
また、罪あるそんな私たち人間をあきらめず、執り成しの祈りを捧げ続けていてくださるその愛。主イエスの十字架が私の十字架であることを認める者に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という救いと祝福の宣言の言葉を共に聞きました。
この「いのちの御言葉」によって、イエスの十字架と自分との関係を見つめ、魂新たにされていきたいと願います。
 この受難週、今日の御言葉をもって神の深い愛を覚えてここから遣わされてまいりましょう。
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