礼拝宣教 ローマ1章8~17節
この手紙を書いた使徒パウロも又、復活の主イエスと出会い、キリストの弟子、福音の使者、使徒とされた人物であります。
彼は当時のローマの属州キリキア(現・西トルコ)の主都タルソスで、紀元前後に生まれたようです。厳しいユダヤ教徒に対する迫害から両親がタルソスに逃れ、その地でパウロは生まれるのです。タルソス市民には当時特別にローマの市民権が付与されていたようです。したがってパウロは生まれながらローマの市民権を享受していたのです。その一方で、彼はユダヤ教徒の家庭で、その教育と教えの中で育まれたのです。
パウロは、若くしてファリサイ派の一員、リーダーとなりユダヤ教の律法に対して熱心な生き方をしていくのですが、その熱意のゆえにキリストの教えとその救いを信じる人たちを憎んでキリスト教会を迫害し、それを撲滅する活動に従事しました。
しかし、その迫害の只中で復活の主、イエス・キリストのみ声を聞き、出会うのです。そこでパウロは律法に対する熱心さによって行ったキリスト教会とその信徒たちに対する迫害や撲滅活動が、実はこれまで自分が神として敬い、あがめてきたお方に対してなしてきたことだということを思い知らされるのです。自分がよく物事を見ている、見えていると思ってきたけれど、実は何にも見えていなかった。その衝撃からか彼の目は閉ざされるのですが。その失意の中で、まさに自分が主なるお方を十字架にはりつけにして殺したのだと罪を認めるに至り、さらに、主のお導きによるクリスチャンとの出会いをとおして、イエス・キリストがその自分の罪を担い、贖ってくださる救い主であるとの確信を得るのです。それは旧約の預言者たちが告知した「やがて来るべきお方」「神にとりなしをする者」のお姿であることを彼はさとったのです。こうしてパウロは閉ざされていた心の目が開かれ、主なる神に180度向きを変えて悔い改め、キリストの使徒となってキリストの十字架と復活の福音を特にユダヤ人以外の人たちに伝えていくのです。
先週はRさんの、イエス・キリストを救い主と信じる「信仰告白」を共にお聞きしましたが。そこに至る道においても、神のお導きとしかいいようのない出来事がその折々に備えられていたとのお証しがありました。キリスト者、クリスチャンにはそれぞれにそういった神のお導きと道が備えられていることに気づかされいった者ではないでしょうか。
話を戻しますが。
新約聖書にはパウロが書いた手紙がこのローマの信徒への手紙の他にも、コリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロ二ケの信徒への手紙などありますが。
これらの教会はパウロが3回に亘る伝道旅行の折、実際にその地に赴いてキリストの福音を伝え、そこでキリストの教会の基礎が築かれ、建てられていったのです。
しかしこのローマの教会は、パウロ自身が伝道する前に、ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人クリスチャンはじめ、ローマのクリスチャンたちによって建てられた教会でした。
パウロがローマの信徒への手紙を書いたきっかけの一つは、コリント(ギリシャ)の町でのアクラとプリスキラ夫妻との出会いが大きかったようです。彼らはユダヤ人であるためローマから追放されたクリスチャンでした。彼らからローマの信徒や教会の事情を聞いたパウロの思いは熱くされ、まだ一度も赴く機会がなかったローマの信徒たちをぜひ訪問したいと強く願ったのです。
パウロはローマ訪問に先がけ、信徒たちに宛ててこの手紙を書くのですが。その内容も彼自身が受けた福音、又、信仰の義人(これは次回以降お話しますが)と、そのキリスト信仰の集大成ともいえる書簡です。
ところが、その第3回伝道旅行中にエルサレムの教会に献金を届けた折、パウロは捕えられてしまいます。その後パウロは裁判のためローマに連行され、そこで軟禁状態におかれながらも訪ねてくる信徒はじめあらゆる人たちに最後まで福音を語り続け、紀元60年頃に処刑されたと言われています。
本日はその1章の8-17節よりみ言葉を聞いていきます。
パウロは8節で、「まず初めに、イエス・キリストをとおしてあなた方一同についてわたしの神に感謝します」と述べています。
パウロにとって遠く離れているまだ一度も会ったことのないローマの信徒とは直接親しい関係があるわけではありません。しかし彼は、「祈るときはいつもあなたがたのことを思い起こし」と記しているように、その心には常にローマの信徒への熱いとりなしがあったのです。
私たちにも、それぞれに思いを持って祈りとりなす人たちがいるでしょう。家族、友人、知人。又、職場の人たち。信仰の友、そしてパウロがそうであったように、未だ直接、個人的に近いわけではなくても、諸教会とその信徒、又、災害や社会の状況にあって苦境に立たされた人たちと。その一方で、私たちも又、気づかないうちに覚えられ、祈られていることも確かにあります。その祈りのつながりによって教会も私たちひとり一人の今日があるのです。
パウロの場合、ローマの迫害からコリントに逃れて来たアクラとプリスキラ夫妻との出会いをとおして苦境にあるローマのまだ会ったことのない信徒たちのことを覚え、切なる祈りと願いを持ち続けていたのです。
そのローマ訪問を願い出るにあたりパウロは、まず「主に感謝」をささげます。それは、彼らが忍耐をもってキリストの福音、その救いの信仰を固く守り、それが証しとなって各地に伝えられていたからです。「そのようあなた方のことを覚えて祈っている。何とかして、そのあなた方のところへ行くことができるように願っている」と、パウロは書き送ります。
そして、「あなたがたにぜひ会いたい」そのわけは、12節「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」からだというのです。
パウロほどの人でありますが、使徒としての自分が一方的に何かを教えたり、与える側に立つのではなく、ローマの信徒と励まし合いたいのだと願っているのです。それも、「互いの持っている信仰によって」励まし合うことを求めています。
私たちの信仰は神と私という一対一の関係が基礎にありますけれども、独りだけで信仰を保つことはできません。現に計り知れない多くの信徒の祈りと献身によって今、私のもとに福音がもたらされているからです。又、主にある信仰の交わりを持たなければそれは独りよがりな解釈に陥りやすく、受けた恵みも色あせていきます。人はそんなに強くありません。たとえ個人の信心を保ったとしても、とりわけ神の家族として召された人と御言葉に生きることの確信や実践がなされなければ信仰はなえてしまうでしょう。互いに持っている信仰によって励まし合い、御言葉に生きていく。それがキリストの救いに生き続けることであり、そのためにキリストの教会が建てられているのです。
さて、16節以降において今日の御言葉の核心ともいうべき、「福音について」、「神の力」についてパウロはこう記します。
16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
福音とは十字架にかけられた神の救い、イエス・キリストであり、そのあがないの業による罪の赦しと神との和解であります。その福音をしてパウロは、それを「恥としない」と、はっきりと宣言します。
この恥という言葉の背後には、キリストの福音を軽蔑し、キリストの十字架の死は敗北だとさげすむ多くの人がいたということです。
しかしパウロはここで、そういう世の勢力にあらがい、ひるむことなく「福音を恥としない」と宣言します。
先にも申しましたように、かつて熱心なユダヤ教徒であったパウロ自身、キリストの福音に逆らい、それを蔑視し、憎んでキリスト教会と信徒を迫害していた者でした。律法の行いによって義を得ようとし、目に見えるしるし、証明を求めるユダヤ人。又、己を誇るための知恵と知識を求めるギリシア人にとって、十字架に架けられたキリストの姿はまさに愚かであり、敗北者であり、躓き以外の何ものでもなかったのです。又、あらゆる政治・経済・軍事力を世界に誇っていたローマ人にとって、ナザレの大工の子イエスが神の子であると信じ告白するなんぞ、しかも十字架刑で死んだイエスなんぞ信じるとは、はなはだ馬鹿げたことのように思えたでしょう。
しかしそれはなにも昔のことではなく、神がおられることを信じることさえ嘲笑されるようなこの世の中にあって、私たちもまたキリストの十字架の福音を公然と言い表すことの難しさを覚えることもあるでしょう。ただ目に見える力が誇りとされ、ほめたたえられる世の中で、キリストの福音に生きることは容易なことではありません。
罪を認め、キリストの十字架の救いにすがり、主に立ち帰って恵みに応えてゆこうと努める。キリスト信仰は世の風潮からすれば愚かに見えるかも知れません。
パウロ自身熱心なユダヤ教徒であった時、十字架をかかげるキリスト教会に敵対し、これを攻撃し、その信徒たちを徹底的に迫害しました。
しかし、復活の主イエスとの出会いを経験したパウロは、これまで自ら誇りとしてきた血統、学歴、知識、能力、業績などのすべてが、このイエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何にそれらが塵あくたのようなものであるかを思い知ったと、彼はフィリピの信徒への書簡でそのように告白しているのです。
人の目には愚かと見えるイエス・キリストの福音。それこそが、信じる者に救いを得させる「神の力」である。それを自ら体験したパウロだからこそ、「わたしは福音を恥としない」と宣言し得るてのです。
また同時に、パウロは「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす」と、宣言します。
16節にあるように、「福音」はユダヤ人はじめ、ギリシア人にも、あらゆるちがい、立場、あり方を超えて、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのです。」
今日は福音と信仰、そのキリストによる救いの本質を共に聞いてまいりました。十字架のキリストを信じ受け入れることは、ある意味自分の弱さをさらけだすことです。それはある人にとっては恥ずかしいことかも知れません。又、勇気のいることです。それは自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力が働くのです。パウロが自分の身体のとげについてそれを取り除いて欲しいと主に3度祈った時、主はその祈りに答えられず、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた、とコリント信徒への第2の手紙に記しています。
まさにパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力は弱さの中で、又罪深さ、足りなさ、至らなさに泣き、嘆く中で自分を主にすべて明け渡して生きていくとき、十分に発揮され、神の栄光が現わされていくのです。
最後の17節で、パウロは次のように述べます。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終りまで信仰を通して実現されているのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いているとおりです。「神の義」を前にして一体だれが立ち得るでしょうか。ただ人を義とする神の力、キリストの十字架の救いの御業を通して、神の恵みにより、信仰によってこれを受け、私たちは神の義に与る者とされるのです。それは神の一方的な賜物であります。そこには何の分け隔てもないのです。
ハレルヤ、主の御名を賛美します。日毎主の救いの事実に与りつつ、キリストの福音を誇りとする人生を歩みぬいていきたいと願うものです。