主日礼拝宣教 ローマ2章1~11節
先週の1章のところでは、パウロのローマ訪問への熱い思いが語られていました。それは共にキリストの福音を分かち合いたいという願いからでありました。それが今日の2章になりますと、一転して厳し口調になります。
その前の1章18節以降において、パウロは「人類の罪」について記します。「天地万物を創造された神とその永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通してこの世界は神を知ることができるのに、神を神としてあがめないし、感謝することもしないでむなしい思いにふけり、心が鈍く、暗くなっている。(人は)自分では知恵がと吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這う者ものなどに似せた像と取り替えた・・・造り主の代わりに(神が)造られた物を拝んでこれに仕えた」と言及します。
このように神を知る知識は、すべての人に明らかに提示されているのですが、当の人間は神を神として正しく知ろうとしていない神無き世界観が人間の罪の状態と結びついていると指摘するのです。
それが1章29-31節の「不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意・・・」と続く長い罪のリストであるのです。ここを読むと、人間の悪とその罪の深さ、恐ろしさを知らされます。これらが社会にまん延しているとするなら、それは天地創造の神を神として認めず、その神を畏れず感謝もない、そういった状態から生じているということです。
そして、パウロはその1章32節の最後で、「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」と、人類の罪について総括します。
これはどこか遠い世界の話ではなく、今なお日常的に繰り返されている私たちの世界、社会であることを知らされるわけです。
さて、本日は2章から御言葉を聞いていくのでありますが。
パウロが先ほどのように人類の罪について言及したことに対して、ユダヤ人たちは一様に「そのとおり」だと同意したと思われます。
しかしこの2章で今度は、その彼らに対して、「すべての人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」と、批判がなされてるのです。それは正確にいいますと、「ローマに住むユダヤ人キリスト者」であったと考えられます。
彼らは異邦人とは違い、自分たちは神に選ばれた民であり、神の律法が与えられている、異邦人は律法を持たず、それを知らないと裁き、非難し、自分たちの優越性と正当性を主張していたのであります。
人は時に先入観や思い込みによって他者を裁いてしまうことがあります。服装、話し方、立場、様々な差別もそうですが。自分の概念に合わない、そぐわない者を排除し、レッテルを貼っていく。それは結局自分自身の世界を狭くし、苛立ちが生じさせて社会の息苦しさを作り出しています。昨今ヘイトクライム(憎悪犯罪)が増加していることもその一因であり、残念なことです。
先週も触れましたが、パウロはイエスさまと出会い救われる前までは、自分が考え、行っている事に間違いがいはない、と信じ疑いませんでした。パウロは神の教えである律法を熱心に学び、守ることに一生懸命でした。ユダヤ人として現れたイエスとキリスト教会とその信徒を憎み、捕まえてはひどい目にあわせていました。それがパウロには神に従い、神に対して正しいことを行っている、と思っていたのです。
復活の主イエスはそのパウロと出会い声をかけられました。「サウロ、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。この主イエスのみ声を聞いた時、パウロは自分が神に対して正しいことをしていると、キリスト教会とその信徒たちを憎み、迫害していたことが、実は彼が信じてやまなかった神さまに対するものであったと知り、衝撃を受けるのですね。自分はどんなにわかっていなかったか。狭く偏った考えに縛られて、真実が見えていなかったかを思い知るのです。
しかし、主イエスはそのパウロを断罪し、罰するのではなく、赦し救われました。パウロはその主の愛によって、本心から神の御心に生きる人生を歩み出すのです。それが「悔い改め」、メタノイアです。それは単なる一時的な後悔や懺悔で終わりません。パウロが以降の生涯文字通りそうでありましたように、日々神に祈り、神との対話の中でただされ、神の恵みのみ座に立ち返り、主に従って生きていく。それが悔い改めであります。
本当に自分が赦されていると知った人は、神より先走って人を裁くようなことは慎むようになっていきます。神は私を赦し、受け入れてくださったことを知っているからです。
私たちが「キリスト者である」ということもそういうことではないでしょうか。
ところで、その時のユダヤ人のキリスト者たちがユダヤ人以外のキリスト者たちを裁いたことと、パウロがそれを批判していること、その裁くこと批判することとはどう違うのでしょうか。
パウロはここでかなり厳しい批判をしていますが。それは人を裁いているのではありません。パウロはユダヤ人であれ異邦人であれ、「主の福音に分け隔てなく与ってほしい」という熱い願い、神の愛がその言葉の根底にあったのです。
一方、この時のユダヤ人のキリスト者たちの律法主義的な裁きは、独善的になりがちで、自分がどのようであるかも忘れて他者を評価し、善し悪しをつけるようなことをしていたのです。主の憐みによって生かされている、という自覚が欠如していたのです。
「裁きは神のものである」(申命15章・マルコ15章)と聖書にあるように、すべてをご存じの神だけが人を正しく裁くことがおできになるのです。
話を戻しますが、
4節でパウロは、「神の憐れみがあなたがたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」と、述べます。
神はすべての人間に、特にイスラエル、ユダヤ人に対し、恵み豊かであられました。
それは旧約聖書の歴史を読みますと理解することができます。
一方でユダヤの人々は神に選び立てられたがゆえに様々な苦難や窮地も経験しますが、その中で神に守られ、導かれていきました。ところがイスラエルの民はその神の深い憐みをすぐ忘れ、神の教えに逆らい、罪を繰り返すのです。にも拘わらず神はイスラエルの民をお見捨てになりませんでした。それはまさにここに示された、神の「慈愛」と「寛容」と「忍耐」がたゆみなくあったからです。
旧約の神は怒りと裁きの神であると言われることがありますが。確かに神は「義」そのものであり、そのみ前にあって人は立ち得ない者であります。しかし又、神は憐み深く、慈しみにとんでおられる「愛」なるお方であられるのです。神はすべてを知っておられ、人の弱さをご存じです。神の「寛容」と「忍耐」は、憐みと慈しみによるものであり、人を断罪するのではなく、人が罪を悔い改めるのを耐え忍び、待ち続けていて下さるのです。
イエスさまがお話になった「放蕩息子のたとえ」、みなさんもよくご存じだと思います。放蕩息子を本心から、本来あるべきところへ立ち帰らせたのは、他でもありません。ひたすら放蕩の限りを尽くした息子を待ち続けた父の愛でした。その姿こそ、御神の慈愛、寛容、忍耐のお姿であります。その神の寛容と忍耐に気づく時、放蕩息子の弟は真の悔い改めへと導かれるのです。
しかしこの話は、悔い改めに導かれた弟だけでなく、自分は正しく悔い改める必要などないと思っていた兄の話でもあります。兄は父が罪深い弟を、ただ許し受け入れ、祝宴まで開くその様子を知り、不平を言い腹を立てます。兄は実は父のそばにずっと居て、父の慈愛の中にあったのです。しかし、自分は正しい行いをなし、立派に父に従って生きてきたというおごりが、逆に父の無条件の愛とあわれみを見えなくし、自分だけが子として祝福を当然受ける資格があるかのように思っていたのです。その傲慢さが父や弟に対する非難と裁きの言葉になっていったのです。
パウロがこの2章でローマのユダヤ人キリスト者に対して、「人を裁くな、あなたも同じことをしてしまっているからです」と、幾度も「裁くな」と繰り返し訴えていますが。
それはマタイの福音書7章1節以降で、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分を裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤ではかり与えられる。兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と、これは他でもなく、イエスさまご自身がよくよくおっしゃった言葉なのです。
しかし、「自分の目の中の大きな丸太」に気づかない、気づけなくなってしまうのはなぜでしょうか。
それについてパウロは5節で、「あなたは、かたくなな心で悔い改めようとはしない」からだと言っています。実に多くの人が「なぜ悔い改めなどする必要がある。私は何も悪いことはしていない」と口にします。しかし、それは神の前に出ようとしないからであって、そこで神の前に出たならば、だれ一人立ち得る人などいないでしょう。自分の目の中にある丸太に気づくからです。パウロはかたくなな心で神に向き直ろうとしないなら、その人は「神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きが行われる怒りの日に現れるでしょう」と述べます。
パウロは熱心に律法を学び守っていましたが、その生き方は的外れでした。けれど生きておられる主と対面したとき、自分の目の中にある大きな丸太に気づくのです。
パウロはこんな自分の罪のために神の御子・イエス・キリストが十字架で死なれたことを知ったのです。そしてイエス・キリストの十字架の死をとおして、神はまことに正しい裁きを行われるお方であられることをさとるのです。それがどれほど深い神の愛のお姿であるかをわきまえ知ることになるのです。
慈愛と裁きの神は別々のものではありません。神の裁きを知らずに神の慈愛を知ることはできません。それがはっきりと啓示されたのが、主イエス・キリストの十字架であります。
義であられる神は人間の罪を決してお見逃しになるお方でありません。その罪の代価は死と滅びです。しかし、憐み深い神は御独り子・イエス・キリストをこの世界に救い主としてお送りくださって、すべての人類の罪の贖い、清算を為してくださったのであります。イエス・キリストの十字架によって、まさに神の義と愛が示されたのです。
何よりも、神は私たちの罪の裁き、滅びから救うために、その独り子なるイエス・キリストをお与えくださり、私たちの罪を贖うために尊い血をながし、肉を裂かれたのです。
今や、この神の義と愛によって、どのような人も分け隔てなく、この神のみ救いを受けることがゆるされているのです。
さて、パウロは6節から11節のところで、「神はおのおのおの行ないに従ってお報いになります。すなわち忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて善を行なう者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません」と、述べています。
ここでパウロが主張していることは、神の憐みと正しい裁きによって救いを知った者各々がその後の人生をどう生きていくか。それが重要だということです。ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、律法を知っていようが、いまいが。神の愛と義を知り、その救いに与った者が如何に、感謝と喜びをもって如何に神の御心に生きて行くか。最後の審判の時には、そのことが主のみ前にあってみな等しく明らかになるということであります。
神の憐れみと正しい裁きによって、救われ、生かされたキリスト者としてのまさにその新しくされた生き方が問われるのです。
主の愛と恵みに心新たにされ、この礼拝からそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう