2018年4月29日、明石市大蔵谷を散策しました。このシリーズの第7回として
西林寺をテーマに書いていきます。
大蔵谷散策シリーズのこれまでの目次とリンク
第1回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その1 大蔵院
第2回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その2 法華塔
第3回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その3 宿場町 大蔵谷
第4回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その4 稲爪神社
第5回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その5 穂蓼(ほたて)八幡神社
第6回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その6 休天(やすみてん)神社
西林寺の基本情報
住所:明石市大蔵町11−22 TEL:078-911-3226
宗派:浄土真宗 東本願寺派(寛文4年(1664)天台宗より改宗) 山号:蓮台山
創建:二階堂出羽守三代の孫の空円上人により康安2年(1361)に創建
御本尊:阿弥陀如来
上の写真は境内の本堂など
上の写真は道路(旧西国街道)より西林寺の山門を臨む
西林寺は永井荷風(1879-1959)が昭和20年(1945)6月3日~12日にかけ滞在した
ことがあることでも知られています。
永井荷風は昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館が消失、都内を転々とした後、
再び5月25日、東中野の国際アパートでも空襲を受けています。その後空襲を避けて
6月2日に東京を立ち、菅原明朗氏の実家のある明石に向かいます。
「断腸亭日乗の昭和20年6月3日の記述」に次のように記述しています。
「邸内(菅原明朗氏の実家)には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く空室なしとの
事に、三、四丁隔りたる真宗の一寺院西林寺といふに至り当分ここに宿泊することになれり。
・・・西林寺は潅岸に櫛比する漁家の間にあり、書院の縁先より淡路を望む。
海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に
背かず、殊に余の目をよろこぼすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり。
墓地につづき数傾の菜園崩れたる土墻をめぐらしたるあり。蔬菜の青々と茂りたる間に
夏菊芥子の花の咲けるを見る。これまた海を背景となしたる好個の静物画ならずや。
余明治四十四年湘南逗子の別墅を人に譲りてより後三、四十年の間、一たびも風光明媚なる
海辺に来り遊ぶの機会を得ず。然るに今図らずもこの明石に来りその静閑なること雨声の如き
濤声をきき、心耳を澄ますことを得たり。何らの至福ぞや。」
注1)マラルメ:フランスの詩人
注2)断腸亭:永井荷風の父が住んでいた場所でパリから帰朝した明治41年(1908)から
大正7年(1918)の約10年間住んでいた場所。ここで代表作を多数輩出。
大正5年(1916)庭内に新築した離れ家に「断腸亭」と名付けた
所在地は現在の東京都新宿区余丁町 郵政省の官舎となっています。
明石も川崎航空機明石工場が近くにあるため空襲(6月9日と6月22日)があり
危険であるため6月13日に岡山に向かいます。
永井荷風の詳細については東京紅團(東京紅団)のサイトに詳しく記述されています。
西林寺墓地でそこに眠る著名人
上の写真は境内に掲示の「西林寺墓地でそこに眠る著名人」の看板
菅原明朗
上の写真は菅原明朗(1897-1988)が眠る菅原家累代の墓碑
上の写真は菅原明朗の略歴
菅原明朗の公式サイト:https://sugaharameirou.jimdo.com/菅原明朗について-1/
伊藤明瑞
上の写真は伊藤明瑞(1889-1948)の墓碑
左隣には16歳で亡くなった妹、宮本梅子の墓があります。
西林寺の住職二階堂正信との親交の縁で大蔵町3丁目に住んでいたそうです。
下記の説明書き(Wikipediaの解説と同じ)で没年は昭和23年(1948)11月23日
と書かれていますが墓碑には昭和23年11月13日と書かれていました
上の写真は伊藤明瑞の略歴
舩脇新平
上の写真は舩脇新平家の墓碑
生没年不明 明石藩の学者 以上は説明書きより
最後に墓所の遠景と元禄4年(1691)7月7日の銘がある六地蔵の写真を添付して
筆を置きます。
西林寺をテーマに書いていきます。
大蔵谷散策シリーズのこれまでの目次とリンク
第1回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その1 大蔵院
第2回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その2 法華塔
第3回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その3 宿場町 大蔵谷
第4回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その4 稲爪神社
第5回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その5 穂蓼(ほたて)八幡神社
第6回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その6 休天(やすみてん)神社
西林寺の基本情報
住所:明石市大蔵町11−22 TEL:078-911-3226
宗派:浄土真宗 東本願寺派(寛文4年(1664)天台宗より改宗) 山号:蓮台山
創建:二階堂出羽守三代の孫の空円上人により康安2年(1361)に創建
御本尊:阿弥陀如来
上の写真は境内の本堂など
上の写真は道路(旧西国街道)より西林寺の山門を臨む
西林寺は永井荷風(1879-1959)が昭和20年(1945)6月3日~12日にかけ滞在した
ことがあることでも知られています。
永井荷風は昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館が消失、都内を転々とした後、
再び5月25日、東中野の国際アパートでも空襲を受けています。その後空襲を避けて
6月2日に東京を立ち、菅原明朗氏の実家のある明石に向かいます。
「断腸亭日乗の昭和20年6月3日の記述」に次のように記述しています。
「邸内(菅原明朗氏の実家)には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く空室なしとの
事に、三、四丁隔りたる真宗の一寺院西林寺といふに至り当分ここに宿泊することになれり。
・・・西林寺は潅岸に櫛比する漁家の間にあり、書院の縁先より淡路を望む。
海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に
背かず、殊に余の目をよろこぼすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり。
墓地につづき数傾の菜園崩れたる土墻をめぐらしたるあり。蔬菜の青々と茂りたる間に
夏菊芥子の花の咲けるを見る。これまた海を背景となしたる好個の静物画ならずや。
余明治四十四年湘南逗子の別墅を人に譲りてより後三、四十年の間、一たびも風光明媚なる
海辺に来り遊ぶの機会を得ず。然るに今図らずもこの明石に来りその静閑なること雨声の如き
濤声をきき、心耳を澄ますことを得たり。何らの至福ぞや。」
注1)マラルメ:フランスの詩人
注2)断腸亭:永井荷風の父が住んでいた場所でパリから帰朝した明治41年(1908)から
大正7年(1918)の約10年間住んでいた場所。ここで代表作を多数輩出。
大正5年(1916)庭内に新築した離れ家に「断腸亭」と名付けた
所在地は現在の東京都新宿区余丁町 郵政省の官舎となっています。
明石も川崎航空機明石工場が近くにあるため空襲(6月9日と6月22日)があり
危険であるため6月13日に岡山に向かいます。
永井荷風の詳細については東京紅團(東京紅団)のサイトに詳しく記述されています。
西林寺墓地でそこに眠る著名人
上の写真は境内に掲示の「西林寺墓地でそこに眠る著名人」の看板
菅原明朗
上の写真は菅原明朗(1897-1988)が眠る菅原家累代の墓碑
上の写真は菅原明朗の略歴
菅原明朗の公式サイト:https://sugaharameirou.jimdo.com/菅原明朗について-1/
伊藤明瑞
上の写真は伊藤明瑞(1889-1948)の墓碑
左隣には16歳で亡くなった妹、宮本梅子の墓があります。
西林寺の住職二階堂正信との親交の縁で大蔵町3丁目に住んでいたそうです。
下記の説明書き(Wikipediaの解説と同じ)で没年は昭和23年(1948)11月23日
と書かれていますが墓碑には昭和23年11月13日と書かれていました
上の写真は伊藤明瑞の略歴
舩脇新平
上の写真は舩脇新平家の墓碑
生没年不明 明石藩の学者 以上は説明書きより
最後に墓所の遠景と元禄4年(1691)7月7日の銘がある六地蔵の写真を添付して
筆を置きます。