神戸市立名谷図書館から借りた本「内山正熊著の神戸事件~明治外交の出発点~」の
Page157に滝善三郎の切腹検証人の配置(下の写真)が掲載されていました。
このデータを基に切腹場面の図に検証人の名前を書き出してみました。
上の写真で立会人の名前を記載していますが読み難いので説明しておきます。
黄色で囲ったのが字を記載。
奥は外国の検証人、左よりハール、サベース(伊)、クレントジース(蘭)、
ハンデルフォー(仏)、サトー(英)、ミットフォード(英)、クリートン(米)
左手は伊藤博文と中島作太郎
中央は瀧善三郎と介錯人の佐藤佐源次?
慶応4年(1868)1月11日(1868.2.4):神戸事件、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。
慶応4年(1868)1月15日(1868.2.8):
勅使・東久世通禧、神戸で外国代表に政権交代を告げ事件処理。
東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の
政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。
慶応4年(1868)2月9日(1868.3.2):
午後11時30分、備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で
切腹した。
神戸事件解決交渉において活躍した伊藤博文について初代兵庫県知事時代の事象を
記しておきます。
神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。
伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日 新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日 新暦換算では1869年5月21日
伊藤博文の兵庫県知事時代は上記のように1年にも満たない短期であったが26歳
の伊藤博文は若輩ではあったが1863年に長州ファイブの一員として英国に留学
さらに英国から帰国後の1864年に高杉晋作、井上馨とともに下関戦争の戦後処理
1868年1月(旧暦)に起きた神戸事件の処理、さらに政府の要職参与にも
なっていた外交問題などに精通した大物の政治家であった。
尚、伊藤博文が兵庫県知事就任時は伊藤俊輔と称していました。
神戸事件関連、過去に書いたブログ
瀧善三郎正信の顕彰碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
神戸事件と三宮神社 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
滝善三郎が切腹した永福寺(かって神戸市兵庫区にあった) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
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