2021年11月4日、JR神戸駅前の戦災復興記念碑の写真を撮っていますので紹介します。
上の写真はJR神戸駅前の戦災復興記念碑 昭和57年(1982)11月当時の市長 宮崎辰雄氏
の名前で建立されたようです。
設置場所住所:神戸市中央区相生町3丁目(JR神戸駅北側)
先の大戦で壊滅状態となった神戸の都市復興のため、戦災復興土地区画整理事業によって
進められた戦災復興都市計画があった。
その計画を積極的に行ったのが昭和20年(1945)11月の発足した「戦災復興院」である。
その後、戦災復興院総裁は国の事業として実施しない方針を示し、各地方自治体に委ねられた。
但し予算措置のみを行い、各自治体に配分された。
計画の対象は全国の戦災都市115箇所。約600㎢。兵庫県では神戸市を含め11市村が復興事業
を行うことを決定した。
昭和23年(1948)には和歌山県田辺市、群馬県伊勢崎市、鹿児島県東市来町が除外され、
112都市330㎢となり、翌昭和24年(1949)にはドッジライン等の影響で281㎢となった。
こうして進められた土地区画整理事業は、最終年度とされていた昭和29年(1954)に
至ってもまだ完了の見込みが立たなかった。そこで昭和32年(1957)に至り、
事業収束のために195㎢にまとめ、今後も事業が必要な地区は、都市改造事業等の
別事業として継続されることになった。
都市別に見ると、策定された戦災復興土地区画整理事業は都市によって様々な命運を
辿ったことがわかる。全体的には、大都市よりも中小都市の方が事業が順調に進んだが、
大都市でも仙台市、名古屋市、神戸市、広島市などのように都市計画関係者の努力や
市民の理解により当初の計画に近い形で実現された例もある。
神戸市では昭和20年(1945)11月に「神戸市復興本部」を設置さらに重要な企画を論議
する機関として「神戸市復興委員会」ができた。「戦災復興計画基本方針」を受けて
神戸市は昭和21年(1946)に「神戸市復興基本計画要綱」を定めた。
旧市街の被災地域に対する戦災復興計画をしっかりと立てることと将来の使命などを見据えた
大神戸構想を提示した。この戦災復興計画に基づいて11地区が昭和22年(1947)度の事業計画
を決定して始めた。終わったのが(換地処分)早くて昭和27年(1952)で、平成になって
決定された場所もある。戦災復興記念碑はちょうどその地区の換地処分が完了した年、
昭和57年(1982)に建てられました。
尚、生田地区の戦災復興事業着手したのは昭和22年(1947)です。