CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

忠蔵蔵に関する話題

2021年12月13日 07時44分52秒 | Weblog

毎年この時期になると忠臣蔵に関する話題が出てきます。

BSTBSの「忠臣蔵・女たち・愛」

昨日(2021-12-12)、BSTBSで「忠臣蔵・女たち・愛」1987年の作品の再放送があり、

一部を視聴した。ドラマは1987年に橋田壽賀子・石井ふく子・鴨下信一により

制作されたもので赤穂義士周辺の女たちのドラマが見事に描かれていました。

番組の内容は下記サイトを参照してください。

 BS-TBS|忠臣蔵 女たち・愛

 忠臣蔵・女たち・愛 - Wikipedia

番組からハイライト場面の写真を何枚か添付しておきます。

上の写真は主君の浅野内匠頭の墓前で吉良上野介(義央)の討ち取りに成功したことを

奉告する大石内蔵助以下の赤穂藩義士の面々。

上の写真は討ち入り前の出陣準備をする赤穂義士。

吉田忠左衛門:大坂志郎、吉田沢右衛門:篠田三郎ほか

上の写真は長山藍子が演じる「さと」大高源吾の行きつけのうどん屋の女将

赤穂市の忠臣蔵所縁の場所

上の写真は2007-10-10撮影の花岳寺

上の写真は大石家長屋門

上の写真は大石神社

宮内庁の赤穂義士に関する資料

2013年12月2日、皇室に伝わる古文書など約39万点を所蔵する宮内庁書陵部の図書寮文庫が、赤穂浪士の吉良邸討ち入りに関する資料6点を、同庁ホームページ(HP)に初めて掲載されました。

これらの文書は江戸後期から幕末に作られた写本で、明治以降に収集家らから皇室に献上された。

現在ではその情報への宮内庁へのリンクは切れており参照できません。

現在でも参照が可能なものについてはリンクを張っておきました。

 1.大石内蔵之助屋敷図

 討入りのリーダー大石内蔵助が赤穂に構えていた屋敷の図面。1500石,浅野家筆頭家老の家格がうかがわれる。

  

 2.吉良上野介屋敷図

 赤穂浪士討入り時の吉良家の屋敷図。堀部安兵衛,大石主税など,建物を取り囲む各浪士の配置位置が朱字で記されている。下記サイトで確認できます。

  吉良邸討ち入りの配置図、宮内庁がHPで公開へ: 日本経済新聞 (nikkei.com)

  吉良上野介屋敷図 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム (kunaicho.go.jp)

 3.浅野内匠頭家来口上書等
 

 大石内蔵助等が幕府に提出した口上書をまとめたもの。浅野内匠頭の勅使馳走役就任,刃傷事件,討入り等が語られている。

 4.赤穂浪人御預之記

 討入り後の浪士10人を預かった大名毛利家の記録。切腹場の敷設図などもみえる。

 5.赤穂義人録
 

 高名な儒学者室鳩巣の代表的著作。討入り直後の時期に,浪士を弁護・賞賛したもの。

 討ち入り翌年の元禄16年、儒学者の室鳩巣は、主君への忠義を評価して四十七士を「義人」と呼び、「赤穂義人録」を著した。江戸時代の庶民に人気だった浮世絵などでは「義士」「義臣」と表現。その後、明治天皇が四十七士の墓に勅使を送り、行動をたたえたことも「義士」の評価を高めたという。

 一方の「浪士」はどうか。四十七士が吉良邸に討ち入った時、赤穂藩は取りつぶされて既になかったので、彼らの身分は「浪人」。当時の文書には「牢人」の文字も見られるが、「浪」と書くのが一般的だ。江戸期の文書には「赤穂浪人」の表記もあるという。

 6.吉良家日記
  吉良上野介(義央)など,高家として幕府の儀礼をつかさどった吉良家の日記。

 

 

吉良家の菩提寺

 吉良家の菩提寺華蔵寺(けぞうじ)の墓所には義安以下、代々の墓が建ち並んでいます。毎年、吉良公の命日である12月14日には毎歳忌法要が行われ、たくさんの参拝客が訪れるといいます。

 

吉良邸跡

 

上の写真は本所松坂町公園として一部が残されている吉良邸跡
 所在地住所:東京都墨田区両国3丁目13番9号

撮影は2006年頃、私が東京で単身赴任で働いていた時に撮ったものです。

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

また江戸時代の嘉永年間(1848-1853)に作成された地図上にも吉良邸の位置を

示しました。(下の写真:方角に注意右側が北)

出典:人文社 「まち歩き 江戸東京散歩」(2006)Page88 

本所松坂町公園は「忠臣蔵」で広く知られる赤穂義士の討ち入りがあった場所です。
吉良上野介義央の上屋敷のあったところです。

討ち入り当時は約8400平方メートルを占める広大な
屋敷でしたが、年とともに民家が立ち並び今はその面影もありません。

昭和9年(1934)3月に地元の有志が遺跡を後世に残そうと旧吉良邸の一部を購入し
史跡公園として昭和25年(1950)9月、墨田区に移管されました。

周囲の壁は高家肝煎(筆頭)の格式をあらわす海鼠(なまこ)
壁長屋門を模したつくりとなっています。

井戸や稲荷社が中にあります。


吉良上野介義央は江戸城呉服橋門内に屋敷を与えられていたが、刃傷事件後隠居した。
幕府は吉良家に対して呉服橋門内の屋敷を召し上げ代替に本所松坂町に屋敷となった。

 

2021年赤穂義士祭

 例年12月14日に開催されていた「赤穂義士祭」は新型コロナウイルス感染症の影響で

 昨年(2020)に続き本年(2021)もパレード、露店販売など会場行事は中止。

 義士追慕の祭典及び法要については、大石神社、花岳寺において実施されます。

 大石神社では「義士追慕の大祭」、花岳寺では「義士追慕法要」が実施されます。

 義士装束をまとった47士が参列し、赤穂城内を練り歩きます。

 花火の打ち上げは行われるが時刻は公表されない。

 義士祭は明治36年(1903)から開催。終戦直後の昭和20年(1945)~昭和23年(1948)は

 GHQの指令で中止されていた。

コメント (2)
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長野県佐久市の香坂山遺跡(旧石器時代の遺跡)

2021年12月13日 03時48分25秒 | Weblog

長野県佐久市の香坂山遺跡は日本列島でも最も古い年代をもつ旧石器時代遺跡のひとつです。

2021年12月7日(火)神戸新聞の夕刊に「香坂山遺跡 3万7千年前 旧石器人の家?石刃や

火を使った痕跡」という見出しで紹介記事がありレビューすることにしました。

代表的な報道の内容は下のリンクのとおり。

 長野の香坂山遺跡で3万7000年前の「旧石器人の生活拠点」か - 社会 : 日刊スポーツ (nikkansports.com)

 長野の石刃、国内最古と判明 現生人類流入の手掛かり: 日本経済新聞 (nikkei.com)

発掘調査は奈良文化財研究所の国武貞克第1研究室長らのグループの手で進められています。

共同研究者は須藤隆司さん、池谷信之さん(明治大学黒耀石研究センター)

堤 隆さん(八ケ岳旧石器研究グループ)

香坂山遺跡はガラス質黒色緻密質安山岩の原産地で著名な八風山遺跡群の東側の

標高約1080mの尾根上に立地する。

発見は平成8年(1996年) 日本道路公団による上信越自動車道の第2トンネルの立坑の

地上部施設の建設事業に伴い、(財)長野県埋蔵文化財センターによって試掘調査が

実施されて旧石器時代の遺跡と確認されて新規に香坂山遺跡として登録された。

引き続き、翌平成9年(1997)に本発掘調査が実施された。

その後、本格的な調査が2020年からスタートし1次調査から第5次調査まで実施されて

います。

石刃(せきじん)として国内最古の3万6,800年前の遺物が発掘確認が発表され新聞各紙が

報道され初めてこの遺跡を知りました。

上の写真は香坂山遺跡と八風山遺跡群の位置を示したものです。

出典:資源環境と人類第11号 (meiji.ac.jp)

ここで旧石器時代の一般的な知識を書いておきます。

 世界レベルで旧石器時代を概観すると

  旧石器時代前期(400万~20万年前)  12万5千人

  旧石器時代中期(20万~4万年前)   100~120万人

  旧石器時代後期(4万~1万3千年前)  220~300万人

 日本の人口は1万3千年前の縄文草創期で約2万人と言われているが旧石器時代では
 寒冷期が長かったので人口1万人以下であろうと推測する。
 日常生活は10人前後の小集団で生活しており、住居は移動に便利なテント式小屋
 や洞穴や岩陰での夜営生活であったと考えられています。

 日本においては樺太と北海道が陸続きになっており気候は現在より寒冷でナウマンゾウや

 ヘラジカ、オオツノジカ等の大型の動物を追って狩猟生活をしていた。

 石器時代の遺跡は現在のところ、全国で約5,000箇所の遺跡が確認されています。

 旧石器時代で現在最古とされるのは金取遺跡(岩手県宮守村)で中期石器時代で

 約8万年前~3万8千年前と鑑定されています。

 日本列島に旧石器時代が存在しないと考えられている時期もあったが1946年に
 相沢忠洋(あいざわただひろ)氏が群馬県の岩宿遺跡で打製石器を発見し
 1949年に再調査が行われた結果旧石器時代の人類・文化の存在が確認された。

出典:NHK高校講座 2021年4月9日放送「原始社会の生活と文化」

次に人類の進化の過程を纏めてみました。

約400万年前 猿人 アウストラロピテクスに進化(上の2枚の写真)

出典:NHK Eテレ 高校講座「地学」

上の写真は猿人以降、ホモサピエンスまでの進化過程を示したものです。

約400~160万年前 猿人 アウストラロピテクス

約160~13万年前  原人 ホモ・エレクトゥス

約13~4万年前   旧人 ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス

約4万年前~    新人 ホモ・サピエンス・サピエンス

現代         現代人(新人) ホモ・サピエンス・サピエンス

出典:明石市立文化博物館の常設展示

奈良文化財研究所の国武貞克第1研究室長によれば香坂山遺跡からは大型石刃を含め、アフリカで誕生し、ユーラシア大陸を東に拡散した現生人類に特有の石器群が、国内で初めてそろって出土。同様の石器群は、中央アジア、南ロシア、中国などで5万~4万年前のものが出土。朝鮮半島でも4万1千年前の大型石刃が見つかっている。日本列島への現生人類の到達にも関わる事例で、国武氏は「ユーラシアの系譜を引く石器群が、朝鮮半島を通じて流入したという評価も可能」と指摘。

また、3万6,800年前頃は樺太と北海道も陸続きであったので北から南下してきた可能性もあると考えられる。

旧石器時代の狩猟

上の写真は兵庫県立考古博物館の展示でナウマンゾウの狩猟の場面です。撮影:2021-7-4

ナウマンゾウのいた時代は3万年前頃で気候は今より涼しくナウマンゾウの他にオオツノジカ

などの大きな動物を狩猟していました。大きな動物をしとめると解体し、肉や皮や骨を

無駄なく利用していました。

年代を簡単に評価できる地層として2万5千年前に大噴火があった姶良(あいら)カルデラ層

があります。その他代表的な地層としては下記のようなものがあります。

 7,300年前、鬼界カルデラの海底火山の爆発により垂水地区においても50~60cm
 の火山灰が堆積した層として明確に確認できるのは10cm程度。
 鬼界アカホヤテフラ(K-Ah)と呼ばれる火山灰層で地下を掘っていった時の時代鑑定に
 用いられています(7,300年前)
  姶良テフラ(Tn):2.2~2.5万年前
  阿多テフラ:9~11万年前
  阿蘇テフラ:7~9万年前

上の写真は同じく兵庫県立考古博物館の展示でナウマンゾウの狩猟の解説

旧石器時代の気候

200万年前というと地質学でいう新生代第4紀が始まった頃であり、地球は氷期と

間氷期を繰り返しています。日本では旧石器、縄文の時代に相当します。

上の写真は旧石器時代(新生代第4紀)の年代を示したもので氷期と間氷期の時期を

確認できます。

出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page11

 

旧石器時代、大型動物の渡来

上の写真は大型動物の渡来を説明したものです。

出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page11

 

旧石器時代の主な遺跡を列挙しておきます(除く岩宿遺跡、明石人、金取遺跡)

 置戸安住遺跡(北海道)
 白滝遺跡群(北海道)
 樽岸遺跡(北海道)
 野尻湖立ケ鼻遺跡(長野県)
 茶臼山・上ニ平遺跡(長野県)
 葛生人(群馬県)
 茂呂遺跡(東京都)
 月見野遺跡群(神奈川県)
 浜北人(静岡県)
 牛川人(愛知県)
 国府遺跡(大阪府)
 早水台遺跡(大分県)
 聖岳人(大分県)


 神戸市における旧石器時代の遺跡を列記する
  -北区の神出町の遺跡

  -灘区の桜ヶ丘B地点遺跡
  -垂水区の大歳山遺跡
  -垂水区東石ケ谷遺跡
  -垂水区境川遺跡
  -垂水区鉢伏山遺跡
  -灘区の滝の奥遺跡
  -兵庫区会下山遺跡

 上記の遺跡の数から現在の神戸市域の人口は100人程度か?

旧石器遺跡の発掘現場例

上の写真はたつの市の碇岩南山遺跡の石器ブロック(旧石器時代)

姶良Tn火山灰層と三瓶U2火山灰層の間でナイフ形石器を中心に発掘された。

出典:櫃本誠一、岸本一宏著「兵庫県の古代遺跡」1.摂津・播磨 口絵

 

過去の香坂山遺跡の発掘成果については下に添付のYoutube動画で纏められています。

香坂山旧石器遺跡:第5次発掘調査 現地説明会

香坂山旧石器遺跡:第4次発掘調査 現地説明会

香坂山旧石器遺跡:第3次発掘調査 現地説明会

香坂山旧石器遺跡:第2次発掘調査 現地説明会

香坂山旧石器遺跡:第1次発掘調査 現地説明会

 

浅間縄文ミュージアム(長野県御代田町)での速報展示

【初公開】香坂山旧石器遺跡2020年発掘資料速報展示!!

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