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山田寺(浄土寺)跡 見学記 on 2017-2-5

2017年02月07日 05時39分15秒 | 奈良情報

2017年2月5日(日)、明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社のおんだ祭
を観るために現地に来ていました。近鉄橿原神宮前駅についたのが9時過ぎで
午前中のフリー時間に本日紹介する山田寺跡に出かけました。

当日はあいにくの天気で雨具をつけて自転車で現地に向かいました。
早速ですが写真紹介します。



上の写真は代表的な写真として多くの方が紹介されている「史蹟 山田寺阯」
と書かれた石碑と背景(塔跡(手前)、金堂跡の基壇の盛り土)

上の写真は山田寺金堂・東回廊復元図 

出典:奈良文化財研究所概要2019 Page14


上の写真は所在地の周辺地図です。右手の方に山田寺跡と書かれたところが現地
所在地住所は奈良県桜井市山田1258








上の4枚の写真は現地の説明板

 右大臣 蘇我倉山田石川麻呂の発願で建立。 連子窓の説明など 



1.山田寺の概略伽藍配置


上の写真は約1370年前の山田寺と周辺の様子推定図
出典:藤原京資料室の大パノラマ模型の中の山田寺付近の部分写真
当時の様子がビジュアルに想像できます。
上記説明版に描かれているようにメインの伽藍は中門・塔・金堂・講堂が南北に
一直線に並んでいます。
伽藍を囲む回廊の外側に南門があり塀に囲まれている構造となっている
東西118m、南北185m
南門の前に3m幅の溝が発掘調査で見つかったことから防御用の堀がめぐらされて
いたことが想像されます?。


上の写真はGoogle Earthを利用した山田寺の伽藍配置

2.山田寺の建立過程

 山田寺の建立について聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」の用紙の裏側に
 書かれた文書が詳しい 内容は下記のとおり

①舒明13年(641) 3月15日浄土寺を始む 地を平す
  乙巳の変(645)で蘇我入鹿暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で
  読み上げた蘇我倉山田石川麻呂が氏寺として計画、建設が開始された
②皇極2年(643)  金堂を立つ
③大化4年(648)  初めて僧住む
④大化5年(649) 蘇我倉山田石川麻呂、害に遇う
⑤天智2年(663) 造営工事が再開し、塔を構える
⑥天武2年(673) 塔の心柱を立てる。舎利を納める
⑦天武5年(676) 露盤を上ぐ
⑧天武7年(678) 丈六仏を鋳造する
⑨天武14年(685) 仏眼を点ずる


3.山田寺発掘調査

  第1次 中門・塔・西面回廊  1976.4~1976.10
  第2次 金堂・北面回廊    1978.1~1978.7
  第3次 講堂・北面回廊    1979.5~1979.9
  第4次 東面回廊・寺域東限  1982.8~1983.1
  第5次 東面回廊       1983.5~1983.10
  第6次 東面回廊・寺域東北隅 1984.8~1984.12
  第7次 南門・寺域南限    1989.10~1990.2
  第8次 東面回廊・宝蔵・寺域西限 1990.8~1990.12
  第9次 寺域東南隅      1994.11~1994.12
  第10次 南面回廊      1996.5~1996.8
  第11次 寺域南辺      1996.10~1996.12

  2001年3月に史跡整備工事

4.宝蔵



上の2枚の写真は宝蔵の盛り土と説明板


上の写真は宝蔵が写った遠景 北側より南側を臨む

5.東面回廊







上の4枚の写真は東面回廊の現地(13・14・15間目)と説明版
南北23間(86.9m)基壇幅6.4mの回廊であったことが判明しています。
昭和57年(1982)の第4次発掘調査で回廊を埋めていた土が取り除かれると
大量の瓦が出土、その下に回廊の基壇や建物の跡さらに土製品、金属製品や
木簡など多様な遺物が出土1982年12月1日の各新聞は1面で報道し
全国的に大きな話題となった。
礎石は花崗岩で直径60cmの円座がありその下には連弁が彫られています。
回廊の建物が倒壊したままの状態で見つかった。特に連子(れんじ)は
破損や腐朽も少なくそのままの形で見つかったことで当時の建築状態を
解明し再現できた。白土を塗った土壁もそのままであったとのこと。
平成19年(2007)には国の重要文化財に指定されています。
また、飛鳥資料館の第2展示室に東面回廊(13・14・15間目)が再現展示
されています。

飛鳥資料館1997年春期特別展示 「山田寺東回廊再現」

6.金堂





上の写真は金堂跡の遠景と説明板

7.塔

上の写真(再掲)の手前は塔跡
東京護国寺に伝わる「諸寺縁起集」によれば山田寺の塔は五重塔であった。
基壇は一辺が12.6mの正方形で高さ1.8m それぞれの辺に幅3mの階段
基壇の中央地下1mのところに心礎 舎利容器を収納する穴があけられており
中は朱塗りであったことも判明しています。

8.中門と南回廊
中門の基壇は中世に大きく削り取られていた 中門の幅は4間
南回廊は左右9間ずつあり合計で東西約84m(22間)であったことが判明

9.南門と参道
南門は東西約11.6m、南北7.8mの基壇に建っている。
正面3間(8.8m)、側面2間(5.2m)の建物で三つの扉があった。
両脇には掘っ立て柱の塀が取り付けられていた。

南門の南側には路面幅8.6mの参道があった
門の前には幅3mの石組みの溝がつくられ木橋を渡って伽藍へと入る

10.現在の山田寺




上の2枚の写真は現在の山田寺

山田寺について、Wikipediaより引用紹介させていただきます。
「山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺
または華厳寺と称する。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、
石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。平安時代には藤原道長がこの寺を
訪れている。「扶桑略記」によれば、治安3年(1023)、山田寺を訪れた道長は
堂内の「奇偉荘厳」は言葉で言い尽くせないほどだと感嘆しており、11世紀前半
には山田寺の伽藍は健在であったことがわかる。その百数十年後の記録である
『多武峰略記』(建久8年・1197年)によると、当時の山田寺は多武峰寺
(現在の談山神社)の末寺となり、伽藍は荒廃して、一部建物は跡地のみに
なっていたことがわかる。さらに、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。
その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。」

現山田寺の山号は大化山。宗派は法相宗。本尊は十一面観音である。


上の写真は現地の説明板


上の写真は観音堂と境内の小祠(右手)
境内は講堂のあった場所だと思われる。
1916年に天沼俊一氏が講堂を実測し建物が桁行7間、梁間4間と推定しています。


上の写真は本堂 大化山 山田寺の看板がかかっています。


上の写真は忠魂碑


上の写真は大正13年(1924)に建立の「史蹟 山田寺阯」と書かれた石碑
大正10年(1921)に国史跡 昭和27年(1952)に特別史蹟に指定
昭和57年(1982)12月4日に追加指定


上の写真は雪冤碑(せつえんひ)の碑。
建立した人物は山田重貞で、蘇我倉山田石川麻呂が無実の罪で自害に貶められた
無念を思い、石川麻呂の命日の前日、天保12年(1841)3月24日に建立

「雪冤碑」の碑は書道界では重要視されている。


上の写真は万葉歌碑
「山川に 鴛鴦(おしふた)二ついて 偶(たぐ)ひよく 偶(たぐ)へる妹を
 誰か率(い)にけむ」と書かれています。
作者:野中川原史  筆:前川佐美雄

大意は「山川におしどりが雌雄離れることなく二つ並んでいるように、私と夫婦
仲睦まじくしていた媛を、心なくも誰がいったいひき連れ去ったのでしょうか。」


関連サイト

 文化財動画 特別史跡 山田寺跡 - 全国遺跡報告総覧 (nabunken.go.jp)

 豪華な伽藍だったことが発掘調査で判明した山田寺跡 奈良・桜井市


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