2023年1月18日の書寫山圓教寺「修正会 鬼追い会式」について下記ブログを作成した。
このブログを書写山圓教寺 散策記の第1回としてシリーズで書いていくこととします。
今回は第2回ということで「書写山の名前の由来」をテーマとして書いていきます。
書写山 円教寺の開基「性空上人」が九州から京都へ行く途中に初めて書写の山を登られた時に
出会った一人の老人が「この山はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の土を分けて
造った山で、形も書き写したように似ています。
だから書写山と名づけなさい」と言われた。
この老人は実は文珠菩薩だったという話が古文書に残っています。
写真が無いと寂しいので性空上人の尊像を添付して筆を置きます。
上の写真は開山堂に安置されている性空上人像 撮影:2016-1-18
この尊像の中に性空上人の真骨が埋められています。
この当時はNHK大河ドラマ「軍司 官兵衛」が放映されており姫路が盛り上がっていました。
上の2枚の写真は性空上人の尊像
出典:2023年1月7日 9:00~SUNテレビで放送の「はりまサタデー」
性空上人(910-1007)についてWikipediaの解説を引用添付しておきます。
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
圓教寺には肖像彫刻・性空像(重要文化財)があり、東京大学史料編纂所は性空像の模本(画像)を所蔵している。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
圓教寺には肖像彫刻・性空像(重要文化財)があり、東京大学史料編纂所は性空像の模本(画像)を所蔵している。
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