2019年12月8日、林小学校の近くにある宝蔵寺を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
地元では「毘沙門さん」と親しみを込めてこう呼ばれています。
宝蔵寺の基本情報
住所:明石市林2丁目1-12 TEL:078-922-2635
宗派:真言宗大覚寺派 山号:海門山 御本尊:木造毘沙門天像
本堂
上の3枚の写真は宝蔵寺の本堂を中心とした遠景、中景、近景
雌鹿の松
上の写真は手水舎と昭和23年(1948)に植え替えられた2代目「雌鹿の松」
上の写真は「めじかの松」の碑
一、昔、小豆島から渡ってきた雌鹿が沈んだところが赤石となり、その後、この場所に
若松を植えて供養したのがめじかの松である。
一、初代の松は、東隣の若宮神社まで見事な枝をはっていたが、戦災(昭和二十年)で
寺とともに焼けてしまった。
一、歌碑は清香が詠んだ歌を、玉木愛石が書き、それを彫ったものである。
しきかえる なみにとはばや はりまがた めじかの松の 千世のむかしを
明石市教育委員会
上の写真は上述の歌の歌碑
上の写真は「雌鹿松」と書かれた石碑
上の写真は同じく雌鹿の松に関する伝説を紹介している説明板。
雌鹿の松
むかし、林村の浜におささという名の美しい雌鹿が住み、四国の小豆島には元気な雄鹿が
住んでいた。二頭は仲むつまじい夫婦だった。潮が引くと、小豆島まで浅瀬が浮かび上がった。
この時を利用して、おささはピョンピョンと浅瀬を往復した。天下の好漁場「鹿ノ瀬」
という名は、ここから付けられた。ある嵐の日、おささは漁師の起した過ちで命を落とした。
このためか、嵐は何日もつづいた。怖くなった漁師は、神仏にお祈りをした。満願の夜、
「お前が殺した白鹿は赤石となり、うらんでいるぞ。早く弔ってやれ」とお告げがあった。
漁師はさっそく翌朝、宝蔵寺の境内に若松を植え、ねんごろに霊を慰めた。嵐は、ぴたりと止んだ。
この松は「雌鹿の松」と呼ばれ、空を隠してしまうほど大きくなっていたが、昭和二十年
(一九四五年)七月の空襲で焼け崩れてしまった。今は二十三年に植えた、二代目の松である。
海門山宝蔵寺
木造毘沙門天像と両脇侍像
宝蔵寺の縁起に関わる伝承が紹介されています。応永3年(1396)の頃、林崎に藤原太郎左近
という人がいました。5月2日の夜、夢の中に毘沙門天が現れ「私は長い間、海の中にいる。
引き揚げて祀ってくれれば、末代までいいことがある」と告げました。
あくる夜も、その次の夜も同じお告げがありました。左近は舟を出して鹿の瀬にさしかかると
海の中が光っていました。覗いてみると4尺(約1.2m)の毘沙門天像が沈んでいました。
左近はどうして上げてよいか判らずに家に帰ってしまいました。
するとその夜、また毘沙門天が現れ「三またの銛(もり)で突けばよい」と言いました。
翌日、左近はモリで仏像をついて引き揚げ、お堂を建てて安置しました。
このお堂が宝蔵寺です。
この伝説は本尊の脇腹にこぶし大の穴があいていることからできたものと考えられます。
神戸新聞社明石総局編『あかし昔ばなし』のPage67-68に紹介されて伝説では、さらに
尾ひれがついてモリで突いた左肩の穴から毎日お米が少しずつ出てきたことで
左近の家はお金持ちになった。しかし、欲張ってたくさんのお米を出すために左肩の穴を
大きくするためモリで突き刺したところお米が一粒も出なくなり貧乏な家に戻ったと
綴られています。
かくれキリシタン
本堂前に、遺跡「毘沙門天とかくれキリシタン十字架」と記された標柱がある。(上の写真)
以下は宝蔵寺とかくれキリシタンに関しての話題です。
神戸新聞社明石総局編『あかし昔ばなし』のPage77-78に、次のような記述があります。
高山右近は明石川の西、河口に近い船上城にはいり、さっそくキリスト教を広めはじめました。
城の近くの宝蔵寺は教会堂に変わり、青い目をした宣教師たちがたくさん来て、キリストの
教えを説きました。領民たちは珍しい外国の服装やビードロ(ガラス)望遠鏡などの品物に
びっくりし、知らずしらずに信者になっていきました。
キリスト教関係の遺品は少ない。宝蔵寺に縦25cm、横20cm中央に合掌した仏像が鋳込まれた
鉄製の十字架が伝わっている。標柱に記載のように昭和になって発見されたようです。
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