2022年1月9日(日)、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まります。
そこで、基本的な疑問「鎌倉殿とは」と「鎌倉殿の13人は誰か」の2つの問いに答えたいと
思います。
NHKの公式サイト:
鎌倉殿とは
Wikipedia(鎌倉殿)では次のように解説しています。
鎌倉殿(かまくらどの)は、鎌倉幕府の棟梁、また、そこから転じて鎌倉幕府そのものを指すこともある。源為義あるいはその子の義朝以降は清和源氏(武家)の棟梁を鎌倉家、鎌倉殿、鎌倉流とも呼ぶようにもなった。「平家物語」では「鎌倉殿」とは頼朝を指し、歴史的には源頼朝と強く結びついた言葉である。
「幕府」の語は江戸中期以降用いられたものであり、鎌倉時代の武士は鎌倉幕府を「鎌倉殿」と呼んでいた。
また、室町幕府の長である足利将軍についても鎌倉幕府の継承者として捉えられ、当初は「鎌倉殿」「鎌倉将軍」の呼称が用いられていた。例えば、二条良基が著した『連歌十様』(高野山正智院本奥書)には、三代将軍足利義満を「鎌倉将軍」と呼称している部分がある。後に義満が京都室町に居宅を置くと、室町幕府将軍は「室町殿」と呼ばれるようになり、代わって室町殿の分家である鎌倉公方が「鎌倉殿」と呼ばれるようになった。
あとで述べる鎌倉殿の13人とは2代将軍の源頼家を支えた13人の有力御家人のことを
指していることを考えると鎌倉幕府の3代目までの歴代将軍を鎌倉殿と定義したい。
上の写真は鎌倉幕府の歴代将軍。代々、鎌倉殿と呼ばれていました。
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
Wikipediaでは北条政子も鎌倉幕府の尼将軍として鎌倉殿と定義されています。
吾妻鏡では北条政子を4代目将軍との記載があります。
鎌倉殿の13人は誰か
建久10年(1199)正月、源頼朝は突如没した。跡を継いだのは嫡子の頼家である。その年の
4月、訴訟について頼家が直接処理することを停止し有力御家人13にんが合議して裁定する
システムとなった。13人の御家人は下記のとおりである。
1.北条義時(江間小四郎義時)
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
2.北条時政
北條義時の父
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
3.比企能員(ひきよしかず)
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
4. 三浦義澄(みうらよしずみ) 5.安達盛長(あだちもりなが)
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
三浦義澄は三浦義村の父
6.梶原景時(かじはらかげとき)
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
7.足立遠元(あだちとおもと)
8.大江広元(おおえひろもと)
9.中原親能(なかはらちかよし)
10.二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
11.八田知家(はったともいえ)
12.三善康信(みよしやすのぶ)
13.和田義盛(わだよしもり)
出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」
2022年1月9日から始まる「鎌倉殿の13人」で13人がどのような形で描かれるのか楽しみである。
個々の人物像についてはおいおい書いていきたいと思っています。
また、ゆかりの地についてもバーチャル訪問していきたいと考えています。(コロナ禍のため)
三浦義村(三浦義澄の子)については下記ブログで記載しています。
源実朝公御首塚(秦野市東田原)へのバーチャル訪問 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
三浦義村は山本耕史さんが演じられます
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます