本日は舞鶴への訪問記シリーズの第4回で11月17日に訪問の復元引揚桟橋について
紹介します。
過去の訪問記
第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
舞鶴引揚記念館の駐車場に上の写真の案内板がありこれに従い復元された引揚桟橋
に向かいました。
復元引揚桟橋は平成6年(1994)5月、引揚者が帰国の第一歩を踏みしめ、感動の
舞台となった「平引揚桟橋」が「引揚を記念する舞鶴・全国友の会」により展望台の
眼下にある平湾に復元されました。
上の写真が復元引揚桟橋の現場です。
当時の桟橋は今の3倍の長さだったそうです
上の写真は引揚桟橋の遠景です。
上の写真は現地説明板。
記載の内容をそのまま転記しておきます。
引揚桟橋(復元)
舞鶴港は昭和20年から昭和33年まで、延346隻の引揚船が入港しました。
特に昭和25年以降は、舞鶴港が日本唯一の引揚港でした。
引揚船の乗船人数は1隻あたり約2,000~3,000人で、引揚船に小型船が横づけされ、
引揚者はこれに乗り換えて桟橋に上陸していました
平成6年(1994)5月建立
北桟橋・・・昭和27年の大雪で壊れるまで、引揚桟橋の右手に見える白い三階建の
建物(大浦小学校)付近の海岸にありました
南桟橋・・・昭和28年からは、北桟橋に代わり上陸桟橋として使用されており、
復元桟橋より約20m北側にありました。
上の写真は説明板の写真の部分の拡大版
復元引揚桟橋は南桟橋があった場所の近くに建設されました。
北桟橋は現在、大浦小学校の近くにあったようです。
上の写真は引揚桟橋の復元に注力された引揚を記念する舞鶴・全国友の会のメンバーの
名前が記載のボードです。
引き揚げの母として有名な田端ハナさんの名前も見られました。
上の写真は招霊の碑
説明板には次のように書かれています。
昭和二十年八月八日、日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により発生した六十万兵士のシベリア抑留(強制労働)と、満州における一般邦人(婦女子)の悲劇。
この死没者の鎮魂のため、各収容所跡、墓地、自決地付近の小石を蒐集、納石し、断腸の思いも空しく異国の地に果てた同胞のため、引揚桟橋の傍に招霊の碑を建立する。
上の写真は復元引揚桟橋の場所あたりにあった南桟橋
上の方には舞鶴地方引揚援護局の建物群が写っています。
舞鶴地方引揚援護局の跡地は現在「平工業団地」となっています。
上の写真は興安丸
上の写真のような碑もありました。引揚者の方だと思います。
Wikipediaによる平桟橋の解説文は以下のとおりです。
平桟橋(たいらさんばし)は舞鶴港にある桟橋。中国からの帰還者や、ソ連に不法抑留された引揚者が夢にまでみた祖国の土を踏んだ地である。引揚桟橋とも。
太平洋戦争(大東亜戦争)が終結した当時、海外に残された日本人は660万人以上といわれ、その引揚げのために舞鶴港の他9港が指定され、引揚援護局を設置して業務を開始された。舞鶴港では当初は舞鶴西港が引揚げ港に指定されたが、ソ連地域からの引揚げが開始された1947年(昭和22年)には舞鶴東港の平桟橋へ変更され、その後13年にわたって多くの引揚者が祖国への一歩を平桟橋に記した。
youtube動画
舞鶴引揚桟橋(舞鶴市平)
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