同じ表題でブログを作成しています(下記ブログ)。若干の写真を追加し再掲します。
神戸から始まった事項はたくさんあるのがスポーツの分野でもいくつかが神戸
から広まったものです。その一端を紹介します。
神戸でのスポーツの振興にとって大事な役割を果たした明治3年(1870)9月23日
に会員43名で創設されたKobe Regatta & Athletic Club(KR & AC)があります。
KR&AC又はK.R.A.C(神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部)の創設者は
居留地18番に住むスポーツ万能のA.C.シムです。
上の写真はKR&ACの創設を呼びかける Hyogo News(1870-9-21付)と
12名の発起人 オリエンタルホテルで発起集会が行われ新たに31名が
入会して43名で発足した。出典:KR&ACの公式サイト(About us)
ボーリング(明治2年(1869)~)
上の写真は東遊園地内にある「ボーリング発祥の地 1869年」の碑
長崎1861年、横浜1864年で1969年の神戸は3番目である。
長崎、横浜のボウリング場は外国人居留地にあり、日本人がゲームをした記録は
確認されていない。
「日本人が初めてプレーした場所。それが神戸と考えられています」
神戸にオープンした施設は、駐在外国人の交流の場として69年に誕生したと
されるユニオン・クラブにあった。ユニオン・クラブはその後、
「The KOBE CLUB」と名前を変え、日本人の出入りもあったとされる。
上の写真は東公園にある神戸クラブの建物に関する現地説明板
上の2枚の写真は昭和初期の東遊園地付近の模型でKR&ACと神戸クラブの建物
を示しました。 出典:神戸市立博物館の模型展示
クリケット(明治2年(1869)~)
明治2年(1869)、クリケットを楽しむ兵庫倶楽部ができています。
ボート、ヨット、カヌー(明治3年(1870)~)
KR&ACの創設当時からレガッタ(ボート)が行われました
KR&ACのボートハウス 京橋→小野浜→敏馬→「幻の深江浜」
サッカー(明治4年(1871)~)
明治4年(1871)2月11日付けの英字新聞「The Hiogo News」にフットボールの
試合が神戸居留地で開催の記事が掲載されています。
KR&ACと交流試合をしたチームとして御影師範、神戸一中、神戸二中などがある
御影師範などの神戸勢は「全国フートボール大会」で大正7年(1918)~15年間
決勝戦を独占した。
陸上競技(明治4年(1871)~)
KR&ACのメンバーが生田神社の東側にあった競馬場で陸上競技会を開いた
この時、英国のH.S.パークス公使(オールコックの後任)も臨席した。
長距離走(明治5年(1872)~)
神戸居留地と摩耶山を往復する14.5Kmする長距離走’(A.C.シム記念マラソン)が
この年に始まりました
ラグビー(明治9年(1876)~)
明治9年(1876) KR&ACと英艦モデスト号の試合が行われました
上の写真は内外人遊園(現在の東遊園地)でインターポートマッチラグビー(ラクビー対抗戦)
が行われた大正5年(1916)の写真です。
野球(明治13年(1880)~)
Wikipediaによれば日本で野球が初めて紹介されたのは明治4年(1871)に来日
した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科で教え、その後
全国的に広まった。
神戸では明治13年(1880)KCCと米国艦リッチモンド号が対戦したのが初めて
テニス(明治18年(1885)~)
Kobe Loan Tennis Clubが現在の市役所の位置に存在していた。
大正元年(1912)12月、横浜のLLT&CC(明治11年(1878)設立)との
インターポートマッチが行われました。
毎朝登山(明治33年(1900)~)
J.P.ワーレンにより毎朝登山が始まった
善助茶屋跡の説明板では明治38年(1905)より毎日登山が始まったと記載
善助茶屋跡、KWSシーダーカテジ跡、善太郎茶屋跡 on 2018-11-17
上の写真は毎日登山発祥の地の石碑(善助茶屋跡)
明治時代の中期、E・H・ドーントを中心とする外国人たちによって毎日登山する習慣ができた。
ゴルフ(明治34年(1901)~)
神戸ゴルフ倶楽部が9ホールになったのは明治36年(1903)5月24日でこの年から
起算して今年(2020)で117年を経過しています。
神戸ゴルフ倶楽部はA.H.グルーム(1846-1918)の六甲山の山荘で友人のG.M.ミルワード
J.アダムソン、T.C.トルニクラフトらとゴルフの話をしていたグルームが「ここに
コースを造ろう」と発言したことに始まり、明治31年(1898)造営がスタートし
明治34年(1901)に4ホールのゴルフ場が出来た。その後、明治36年(1903)には
9ホールに拡張、さらに明治37年(1904)には全長3,576yd、18ホールになった。
日本の最古のゴルフ場として現在も多くの人に愛されています。
上の写真は神戸ゴルフ倶楽部、明治39年(1906)、18番グリーンでの光景
明治40年(1907)には神戸ゴルフ倶楽部は横浜とのインターポートマッチと
日本ゴルフ選手権を開催、注目された。
このゴルフ場で少年時代にキャディーをしていて、日本で2番目のゴルフ場
横尾ゴルフ場(武庫郡魚崎町横屋)6ホールで腕を磨いた初のプロゴルファー
福井覚治がいます。福井覚治は昭和5年(1930)4月13日、38歳で他界。
私のブログでは下記ブログで日本で初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」について
記載しています。
【神戸はじめて物語】六甲山でゴルフ編
スキー(明治35年(1902)~)
明治35年(1902)、神戸に住んだノルウェーの総領事オッチセンが六甲山で
日本人にスキーを教えた。
マラソン(明治42年(1909)~)
日本初のマラソンは、明治42年(1909)3月21日に実施された、神戸-大阪間を
走った「マラソン大競走」がマラソンの言葉のつく日本初のマラソンとされる。
20人のランナーが湊川埋め立て地(現在の新開地)をスタートし、
新淀川の西成大橋までの31.7Kmを18人が完走したということだそうです。
日本マラソン発祥の地として群馬県の 安中にも石碑があるようですが、こちらは
安政2年(1855) ときの安中藩主 板倉勝明公は藩士の心身鍛練を目的として
55才以下の藩士98名を数隊に分け 5月中旬より6月初旬にかけ 安中城内より
碓井峠の北野権現まで七里余の中山道を走らせた
これを「安中御城内御諸士御遠足」ということだそうです。
走った「マラソン大競走」がマラソンの言葉のつく日本初のマラソンとされる。
20人のランナーが湊川埋め立て地(現在の新開地)をスタートし、
新淀川の西成大橋までの31.7Kmを18人が完走したということだそうです。
日本マラソン発祥の地として群馬県の 安中にも石碑があるようですが、こちらは
安政2年(1855) ときの安中藩主 板倉勝明公は藩士の心身鍛練を目的として
55才以下の藩士98名を数隊に分け 5月中旬より6月初旬にかけ 安中城内より
碓井峠の北野権現まで七里余の中山道を走らせた
これを「安中御城内御諸士御遠足」ということだそうです。
上の写真は 神戸市市役所前に建てられた日本マラソン発祥の地「神戸」の碑
2011年4月26日に建立されました。
ボクシング(明治42年(1909)~)
柔道の父、加納治五郎の甥である加納健治が御影の自邸に道場を作り、外国人
船員などから技術を学ぶ国際柔拳倶楽部を発足させた。その後、日本選手権大会
を開催する大日本拳闘会となりました。
バスケットボール(明治45年(1912)~)
1911年に国際YMCAトレーニングスクールで学び帰国し神戸YMCAを立ち上げた
宮田守衛と1913年にFranklin Hartwell Brown(1882‐1973)が来日しバスケットボール
やバレーボールが出来る体育館付会館をW.M.ヴォーリズに依頼して建設。
バスケットボールが普及する契機となった。
F.H.ブラウンは1930年まで日本に滞在してYMCAの発展に貢献した。
クロール(大正5年(1916)~)
敏馬のKR&ACのボートハウスに隣接したプールで神戸居留地出身のE.W.スレードが
米国のNYに留学し水泳を習得、KR&ACのメンバーなどに教授しました。
米国の花形選手のジョニー ワイスミューラーも来て模範演技したとの記録あり。
茨木中学(現茨木高校)の25回生で1928年のアムステルダムオリンピックのメダリスト
高石勝男もワイズミューラーの模範演技を観たという。
茨木中学出身の川端康成や大宅壮一もプールの造営を行ったエピソードが残っています
クロールが伝わる以前から水泳競技は行われており、明治17年(1884)4月、横浜で
日米各1名の選手が対抗戦が行われたのが日本初の競泳国際競技と言われています。
ローンボール(昭和38年(1963)~)
ボーリングの前身、13世紀のイギリスで発祥したスポーツです。日本では1963年
頃から神戸をはじめ横浜、長崎などで競技大会が開催されるようになりました。
兵庫県立明石公園には専用の競技施設があります。
上の写真は明石公園内のローンボウルス場(2020-7-22撮影)
7面でプレーできるそうです。
女子サッカー(昭和42年(1967)~)
昭和41年(1966)、福住小学校で福住女子サッカースポーツ少年団が誕生、昭和42年
(1967)に王子陸上競技場で開催された第1回神戸サッカーカーニバルの神戸女学院
中学部との試合が日本初の女子サッカーの試合と言われています。
神戸ではプロのINAC神戸が結成され「なでしこジャパン」の主力として活躍し、
国際大会でも成果をあげた記憶が蘇ります。
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