2018年11月17日、神戸市立外国人墓地で堺事件犠牲者の墓とモニュメントの写真を
撮ってきましたので紹介します。
上の写真は堺事件で犠牲になった仏水兵11名の墓とモニュメント。
当初は小野浜の墓地に葬られましたが昭和36年(1961)10月に現在の場所に移設
されました。
上の写真は小野浜にあった外人墓地(戦前)
上の写真は小野浜墓地の遠景(神戸税関より観た眺望)(戦前)
堺事件についてはWikipediaより引用紹介します。
堺事件(さかいじけん、仏: Incident de Sakai)は、慶応4年(1868)2月15日
(太陽暦1868年3月8日)に和泉国堺の堺港で起きた、土佐藩士によるフランス帝国
水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件、
摂津国堺の妙国寺において処刑が行われたため、妙国寺事件(みょうこくじじけん)
[1]とも呼ばれる。
慶応4年に近畿で起こった外国人殺傷事件は三度ある(神戸事件、堺事件、
パークス英公使襲撃事件)が、外国側・日本側ともに最も多くの犠牲者を出した[2]。
攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日(新暦換算1868年3月8日)午後3時頃、
フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事
M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、
同時に港内の測量を行った。
この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわる。
夕刻、近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長・箕浦元章(猪之吉)、
八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、
土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、
逃亡しようとしたため、土佐藩兵側は咄嗟に発砲。
和泉国堺栄橋通・旭町(現・大阪府堺市堺区栄橋町・大浜北町)一帯で銃撃戦となり、
土佐藩兵側が仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。
遺体は16日に引き渡しを終えた。なお詳細な原因は話者ごとに食い違っており、
フランス側は何もせぬのに突如銃撃を受けたと主張している。 死亡した仏水兵は11名。
いずれも20代の若者であった。怪我を負った仏水兵は5名であった。
(死亡者の名前は大岡昇平『堺港攘夷始末』による[3]
シャルル・P・アンドレ・M・ギヨン(第一級見習士官、22歳)
ガブリエル・マリ・ルムール(第一級一等水兵、28歳)
ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ(機関運転手、24歳)
オーギュスト・ルイ・ランジュネ(三等水兵、22歳)
ラザル・マルク・ボベス(三等水兵、22歳)
ピエール・マリ・モデスト(ニ等水兵、27歳)
アルセーヌ・フロミロン・ユメ(三等水兵、23歳)
ジャン・マチュラン・ヌアール(三等水兵、22歳)
ジャック・ラヴィ(三等水兵、22歳)
(以上9名は3月8日死亡)
ヴァンサン・ブラール(三等水兵、20歳)
フランソア・デジレ・コンデット(水兵希望、23歳)
(以上2名は3月9日死亡)
殺害された仏水兵11名は、神戸居留地外人墓地において駐日仏公使レオン・ロッシュ、
駐日イギリス公使ハリー・パークスのほかオランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに
埋葬された。ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げたが、それには
「補償は一層公正であり、少しも厳しくないことはないであろう。私はフランスと
皇帝の名において諸君に誓う。諸君の死の報復は、今後われわれ、わが戦友、
わが市民が、諸君の犠牲になったような残虐から免れると希望できる方法で
行われるであろう」[9]という、復讐を誓った一文が込められていた。
フランス公使ロシュの猛抗議と多額の賠償金の要求に対し、日本政府は当事者の
土佐藩士を堺の妙国寺で20人の切腹を行うということで決着。フランス側と
日本政府の立ち合いのもと切腹が行われました。切腹は土佐藩士11人目で終わりました。
上の写真は堺市妙国寺の土佐藩士11名の墓 撮影:2008-9-10
妙国寺への訪問記は下のブログ
堺散策 その19 妙國寺 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
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