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松原城に関わる伝説「タンポポ城と鶴の松」

2021年08月25日 04時35分49秒 | 神戸情報

松原城(神戸市北区)は南北朝時代(14C後半)に三田城の付城として赤松円心則村の

四男弾正少弼氏範(赤松氏範:1327-1383)の子氏春が居城として築いたが、永徳3年

(1383)に赤松氏範と赤松氏春は播磨の清水寺に敗死したので、しばらくの間、

廃城となった。室町幕府に仕えた三田の住人松原兵衛尉貞朝の子貞直が、その後、

松原城に入り天正年間(1573-1592)頃まで代々松原氏の居城とした。

天正7年(1579)の三木城攻めの時、秀吉方に包囲され落城し、城主の貞利以下が

討死し、または自刃してお家断絶となり、廃城となった。

別名として蒲公英(たんぽぽ)城、道場川原城、道場城

別名の「タンポポ城」の由来は城主の娘が鼓の名手であったことから

(たんぽぽは「つづみ草」とも呼ぶ)名付けられました。

鼓の音が「タン、ポン、ポン」と聞こえることからタンポポ城と呼ぶようになった。

松原城跡(住所表示:神戸市北区道場町日下部字西山)は神戸市文化スポーツ局文化財課

により平成31年(2019)3月18日から令和2年(2020)1月28日まで発掘調査されました。

松原城跡は宅地開発のため消滅してしまいます。

私が訪問した(2020年9月30日)時点ではすでに宅地造成工事が進行しており城の面影

は確認できませんでした。

発掘調査の結果概要は後日纏めていこうと思っています。

上の2枚の写真は松原城跡の遠景 撮影:2020-9-30

上の写真は北神第4地点遺跡の1984年、1985年調査地点及び1991年・1992年発掘調査地点(保存地区)の地図

に写っている松原城の地図 神鉄道場駅の東側になります。

上の写真は松原城跡の位置図 

出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

上の写真は松原城近景 出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

 

前置きが長くなりましたこれからは本題の松原城に関わる伝説「タンポポ城と鶴の松」

の話に写ります。

参照資料は 田辺眞人編著「神戸の伝説」(1976)Page125-127で要約しました。

松原城の城主松原貞時には一人の可愛い娘がいた。

姫はとても鼓が好きで、よく城内から「タン、ポン、ポン」という鼓の音が響いていた。

近くの人々は、いつの頃からか、城をタンポポ城と呼ぶようになった。

この松原城(道場城)はある時、敵の大軍に取り囲まれた。城主も姫も城兵とともに

必死に武器を取って戦ったがついに落城の時がせまり「もう落城もまぢか」と長刀を

捨て愛用の鼓を胸にいだいて城下を流れる道場川(有間川)の深みに飛び込み死去した。

それからは毎夜、姫が身を投げた淵のあたりからは「タン、ポン、ポン」と悲しげな

鼓の音が聞こえてきたという。

話は変わりますが天正5年(1577)3月15日、松原城の城下である事件が起こりました。

城下町の侍屋敷に、山本清右衛門という武士が住んでいました。この屋敷の庭には

千年も経ったかと思われる「鶴の松」と呼ばれる松の木がありました。

もともと武勇の誉高い清右衛門なのだが、最近は病のため登城もかなわず毎日家に

閉じこもって、むしゃくしゃしていた。

城内のどこからでも見えるこの松のために、同僚はよるとさわるとわしの噂をしておる。

酒宴の席でも、この松を見ては、その根もとで病気のために寝ているわしをあざ笑っておる。

この松さえなければ、皆は忘れて、わしのことをあれこれ言わなくなろう

妻の反対を押し切って彼は松を切ってしまった。

それから間もなく場内は大騒ぎとなった。何も知らなかった若侍は老臣の松原祐右衛門と

藤野牧右衛門から「鶴の松」にまつわる話を聞かされた。

「清右衛門め、何ということをしでかしたのじゃ。もう城は終わりじゃ」祐右衛門は言った。

「これは永禄3年(1560)の春のことじゃった。ひとつがいの鶴が、あの松に巣をつくった。

その巣の中で二羽のヒナが育ち、親鳥とともに元気に飛んでいきました。」

「それで鶴の松というのですな」

「さよう。ところでご先代の城主筑前守定友様は、これはめでたいことだと考えられた。

そこで鶴のように城が長く栄えるように、鎮守の日下部大明神に「この鶴が巣立った松の

ある限り、城が無事でありますように」と祈りました。」

「戦いで多くの侍が死んだので、今ではわしたち二人しか知っていまい。」

祐右衛門が言い終わった時、「その松を、やつめ切ってしまいおったのじゃ」と言ったのは

藤野牧右衛門であった。

それから2~3日のち、清右衛門は突然気が狂い、槍を持って暴れて、死傷者を出しました。

病気とはいえ、武勇の優れた彼のことお城から大勢の武士が出て、ようやく討ち取ることができました。

そして、2年後の1579年に松の木が切られたのと同じ3月15日に松原城(道場城)は

織田信長の部下の秀吉によって攻め落とされてしまいました。

 

最後に市民のグラフ こうべ No.39 1975年7月 Page18-19より

松原城(道場城)に関する古写真を添付して筆を置きます

上の写真は松原城(道場城)から有野川(道場川)を臨む風景 松林があったことが判ります

上の写真は松原城跡にあった城山稲荷神社


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