2022年2月22日、兵庫県立図書館で劇場用映画「島守の塔」が2022年公開予定である
ことを下に添付のリーフレットにより知ったので調べてみました。
「島守の塔」は、2022年夏に全国公開予定の日本映画です。 沖縄県最後の官選知事
である島田叡(神戸市出身)と元沖縄県警警察部長の荒井退造(宇都宮市出身)の目を
通して、最後の沖縄戦における悲惨な実態を描いていく。
監督は五十嵐匠、出演は萩原聖人、村上淳、吉岡里帆ほか。
終戦記念日の8月15日や沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日までの完成を
目指して製作されていると思います。
Wikipediaより劇場用映画「島守の塔」についての情報を引用紹介します。
概要
2019年9月25日に島田叡の出身地である兵庫県の神戸新聞社や荒井退造の出身地である栃木県の下野新聞社、さらに沖縄県の琉球新報社や沖縄タイムス社などによって製作委員会が結成され(#スタッフを参照)、映画製作の発表が行われた[3]。なお、製作委員長は元沖縄県副知事で島田叡氏事跡顕彰期成会会長の嘉数昇明が務める[3]。2020年1月22日に「映画『島守の塔』製作を応援する会沖縄」が結成され、沖縄県の経済界や有識者47名が呼びかけ人となり、那覇市のホテルで結成式と説明会が行われた[4]。結成式に出席した監督を務める五十嵐匠は「島田さん、荒井さんの偉人伝を作るつもりは全くない」とした上で「鉄の暴風の中、極限状態の沖縄戦で人間は他人を思うことができるかというのがこの映画製作の最大のテーマである」と語った
キャスト
島田叡 - 萩原聖人
荒井退造 - 村上淳[5]
比嘉凛(沖縄戦時)- 吉岡里帆[1]
比嘉由紀 - 池間夏海[2][6]
泉守紀 - 勝矢[1]
比嘉凛(戦後)- 香川京子
スタッフ
監督・脚本 - 五十嵐匠
脚本 - 柏田道夫[7]
製作 - 映画「島守の塔」製作委員会(神戸新聞社、サンテレビ、下野新聞社、琉球新報社、沖縄タイムス社、毎日新聞社)[2]
関連サイト:[1]神戸新聞NEXT|総合|映画「島守の塔」キャスト発表 島田叡役に萩原聖人さん (kobe-np.co.jp)
(2020年3月17日 神戸新聞電子版NEXT)
[2] 主演に萩原聖人さん、村上淳さん 映画「島守の塔」 吉岡里帆さんも出演 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト (ryukyushimpo.jp)
[3]沖縄戦下の苦悩と命の尊さ発信する映画に 島田知事と荒井警察部長を描く 戦後75年の来秋公開へ - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト (ryukyushimpo.jp)
[5] 映画『島守の塔』にW主演いたします。 - 株式会社ディケイド (decadeinc.com)
[6] 池間夏海:2021年夏全国順次公開! 映画「島守の塔」に出演! (rising-pro.jp)
[7] 柏田道夫さん脚本の映画 沖縄戦の実像描いた「島守の塔」来秋公開 - ishidatamikai ページ! (jimdofree.com)
Wikiediaによれば映画「島守の塔」は2020年3月25日に沖縄県うるま市の伊計島でクランクイン、4月下旬に兵庫県神戸市や三田市などの兵庫ロケでクランクアップの予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、撮影休止。2021年11月に撮影を再開、12月にクランクアップした。
撮影再開の関連情報として、サンTVが製作したYoutube動画をGooで共有させていただきました。
映画「島守の塔」再クランクイン
上述した「島守の塔」のリーフレットに掲載されている資料も紹介していきます。
沖縄戦の死者
沖縄戦に関する年表及び島田叡・荒井退造の事跡
上の写真は昭和16年(1941)~昭和19年(1944)
上の写真は昭和45年(1945)1月~5月22日まで
昭和20年(1945)5月25日~昭和26年(1951)6月25日
米軍の沖縄上陸全般図
軍人と一般市民の南部への避難経路
映画製作の支援
私も島守の塔サポーターとして1万円を送金しました。
劇場用映画 島守の塔の公式サイト
島守の塔::第2次世界大戦のとき、沖縄を守るために命を懸けた島田 叡と荒井 退造、二人の島守を描く映画 (shimamori.com)
島守の塔製作委員会の公式サイト
島守の塔::第2次世界大戦のとき、沖縄を守るために命を懸けた島田 叡と荒井 退造、二人の島守を描く映画 (shimamori.com)
島田叡の功績と略歴
島田叡知事の略歴と功績について過去に下記のブログで書いていますが再述(一部加筆)します。
沖縄の島守「島田 叡」を描いたTBS系TVドラマ「生きろ」を視聴して : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
最後の官選の沖縄県知事「島田叡」の功績を讃える - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
略歴
島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 – 1945年(昭和20年)6月27日?)
氏について略歴を簡単に書いておきます。
明治34年(1901)12月25日、開業医・島田五十三郎の長男として生まれる
出生地:神戸市須磨区西須磨上樋詰1番地(現在の須磨寺町2丁目2番地)
生家の写真を下記ブログで紹介しています。
沖縄県最後の官選知事 島田叡氏の実家神戸市須磨区の「島田医院」 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
明治40年(1907)須磨尋常高等小学校入学(現在の西須磨小学校)
大正3年(1914) 同校を卒業
大正8年(1919) 神戸第2中学校(現在の兵庫高校)卒業
大正11年(1922) 三高文科丙類卒業
神戸二中、三高では野球部で活躍、東大時代は野球部のスター選手
学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された
戦没野球人モニュメントに名前が刻まれている。
野球のユニフォーム姿の島田叡さんの写真を下記ブログで紹介しています。
故島田 叡 元沖縄県知事の野球選手姿 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
大正14年(1925) 東大法学部政治学科を卒業
大正14年(1925)4月 山梨県属 内務官吏 を皮切りに全国を転勤して歩く
昭和3年(1928)1月 徳島県保安課長、昭和4年(1929)12月 岡山県保安課長
昭和6年(1931)1月 三重県警務課長、昭和7年(1932)1月 長崎県警務課長
昭和9年(1934)11月 福岡県警務課長、昭和12年(1937) 大阪府土木部総務課長
昭和13年(1938)1月 佐賀県警察部長、昭和17年(1942)7月 千葉県総務部長・内政部長
昭和18年(1943)3月 愛知県警察部長
昭和19年8月(1944) 大阪府内政部長
昭和19年(1944)10月10日 沖縄に初めて米軍が空爆(日本軍の反撃なし)
昭和20年(1945)1月8日 当時の大阪府知事より沖縄県知事への異動の打診
「誰かが、どうしても行かなあかんのなら、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、
日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して単身沖縄へ飛んだ。
昭和20年(1945)1月31日 沖縄県知事に単身着任
昭和20年(1945)2月26日、決戦施策の3大目標(国土防衛の強化、食料自給、自主輸送の確立)を発表
ドラマでは前任の沖縄県知事 泉守紀氏のことが悪く語り継がれており悲運な人物
10月10日の空襲以降沖縄県からの転出を画策実際に香川県知事へ転出した。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日)
野里洋 『汚名--第二十六代沖縄県知事泉守紀』 講談社(原著1993年12月)
上記の書籍に泉守紀氏のことを擁護する内容も記載されている。
島田 叡氏の功績
(1)着任後に真っ先にやったのが沖縄住民を安全な北側や九州へ疎開させた
約10万人がこれにより救われたといわれる
(2)台湾総督府総務長官(成田一郎元兵庫県知事)に米3,000石を調達してもらう
当初、沖縄にこの物資が到達しなかったということになっていたが
52年後に米が沖縄に到達していたことが証明された
(3)大田実海軍中将(1891-1945)との間で官庁と軍の関係修復に成功
自決する(6月13日)前の昭和20年(1945)6月6日に海軍次官あてに
打った電信は余りにも有名でドキュメントでも詳しく紹介されていました。
念のためにその電報の内容をWikipediaより引用添付させていただきます。
6月6日20:16発 6月7日18:05再発 6月7日17:32受信
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク
三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ
非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ
暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ
捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ
軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ
生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ル
モノアリ所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ
供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目
ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力
皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ
(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ
抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト
化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
電報の現代語訳 [編集]
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
島田 叡知事と最後まで仕事に邁進した荒井退造警察部長の存在が大きかったのは
いうまでもない。
最後に島田叡元沖縄県知事と沖縄戦について今迄に紹介しなかったブログにリンクして筆を置きます
【動画あり】首里城下の旧日本軍壕爆破された最深部の映像第32軍壕、11年ぶり撮影 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
2017年5月19日の第47回神戸まつり懐古行列で島田叡知事役を久元神戸市長が務めました
第47回神戸まつりで17年ぶりに復活した懐古行列 on 2017-5-19 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
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