歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「海街diary」鰺の南蛮漬けの次女長澤まさみ!竹輪カレーの三女夏帆!イイです!主役は鎌倉の街?

2015年08月03日 | 映画の話し
前回の続きです。

それで、次女の足の爪のペインティングからドラマが始まり、少しずつ、少しずつ、いろいろな男女が登場して、その関係が、過去のいきさつが、少しずつ分かり始め、物語に入っていったのです。

両親の居ない三人姉妹の話しで、長女が看護師、次女が信金の職員、三女がスポーツ店の店員、ペインティングの足は次女。

家を出て行った三姉妹の父親の葬儀から物語が動き出し、これまでが、どのようなこれからに変化していくのか、その思いでスクリーンを見つめるのでした。

舞台が鎌倉で、三姉妹の家が昭和の匂いが漂う木造二階建て、庭に梅の木、木立の繁る裏山、彩度も明度も抑えられた映像、これだけで、なんか、とても、イイ気分になったのです。



そして、いろいろな食べ物から、それにまつわるいろいろな人が、いろいろと語られる、この展開がイイのです。

わたくしの想い出も、必ず、食べ物と繋がっているのです。父親と映画の帰りに食べた“肉なしカレーライス”、狭い階段を上がったラーメン屋で初めて食べた餃子、池袋の路地裏のてんぷら屋で食べた穴子のてんぷら。

すべて小学校低学年の頃の想い出。“肉なしカレー”は店先に看板に“肉なし”の表示があったような?一皿50円だったような?そのとき観た映画が“隠し砦の三悪人”だったような?

人の想い出は、食い物記憶から手繰り寄せられるのです。みんな、みんな、そうなのかも?それともわたしだけ?

それで、前々回に、書き忘れたのですが、最初に登場した食べ物は、野菜のてんぷらと蕎麦でした。庭先の縁側で食べるシーン、そこで登場する三女の恋人?の店長。お腹が空いていたので、ホント!蕎麦が、てんぷらが美味そうでした。

美味そうで、野菜のてんぷらと蕎麦が誰の想い出に繋がっていたのか忘れました。それと、この店長ですが、凍傷で足の指が6本失っているのです。そして、朗らかに“失った足見ます?写メ撮ります?と、周囲の空気を読まない発言。

アフロヘアーで、元登山家?で、軽い乗りで、そんなところが三女と波長が合っているのです。三女は、父の影響はまったく受けていないのようです。でも、母が作ってくれた、“竹輪カレー”が好きで、一人こっそり食べるのです。三女は母親似?

長女は母の作る竹輪カレーや、シーフードカレーは嫌いなのです。母がカレーにシーフードを使ったのは、煮込まなくていいからだ、との解釈。料理に手間暇を掛けない、いい加減主婦、いい加減な母親と、とても批判的なのです。

次女“長澤まさみ”は、どんな食べ物が好きだったのか?映画を観てから一週間が経ち、記憶が薄らいできました。アジの南蛮漬けだったかも?でも、誰かと繋がる記憶は描かれていなかったような?

それで、足の爪のペインティングですが、腹違いの“すず”にペインティングをしながら、昔、小学生の頃、父にしてもらったのが初めてで、学校で見つかり教師に注意された想い出を語っているのです。

きっと、そのとき、父は教師だった厳格な祖父母に、そうとう叱られ、両者の間には、かなり、かなり、気まずい空気が流れ、これをきっかけとして、妻の“都”からも心が離れ、二度と通い合うことは無くなった?

ペインティングにまつわる父のことを、それなりに楽しく、それなりに好意的に“すず”に語る次女。かなり自由で奔放で、惚れっぽくて、次女は父に似ている?

そんな物語が、兎に角、あの鎌倉の風景を背景に展開するのですから堪りません。なんと云っても鎌倉です。

どんな風景を切り取っても、歴史が、趣が、物語が、映し込まれ、作品に、奥行きとか、広がりとか、落ち着きとか、味わいとか、そして、人生も見えてきたりするのです。

次女の長澤まさみ、三女の夏帆、イイです。“長澤まさみ”のスタイルの良さが印象に残りました。そんなカットがかなりありました。連れ合いが「長澤まさみって、あんなにスタイルヨカッタった?」と、見終わって一人呟いていました。

長女の綾瀬はるか、とても、しっかり者で、落ち着いていて、“おとな”を演じていました。連れ合いが「綾瀬はるかって、いくつになった」と、見終わって一人呟いていました。

それで、この作品、主演は綾瀬はるか?

それとも、三姉妹と腹違いの妹の四人?

物語的には、スクリーンに姿を現さないお父さんが“主役”だと思います。脇をかためたのは、なんと云っても、それは鎌倉と云う街です。

いや、もしかして、主役は鎌倉の街? 描かれたのは“鎌倉の街”で、物語が背景?

また鎌倉に行きたくなりました。作品に映し出される鎌倉は、海街の鎌倉で、わたしが歩いたのは“山街の鎌倉”だけです。

生シラス丼も、不漁のため食べていません。

「海街diary」イイです。

まだ、話しは続きます。


それでは、また。


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「海街diary」婿養子?の父は辛い日々を送り?そして妻を捨て!娘を捨て!家族を捨てたのです?

2015年07月30日 | 映画の話し
前回の続きです。

前回、最後に「詳しい話しは、次回」と書いたのですが、ビデオと異なり、聞き逃したり、見逃したり、セリフが聞き取れなかったり、意味が直ぐに理解できなかったり、等々、くり返し再生は不可能なので、詳しい話しには、それなりに問題があるかも?です。

それで、歳の所為で?確かに、聞き取れない台詞が何カ所かありました。

創る側としては、当然、台詞のひと言一言に、意味と思いとを込め、考え抜いての一言です、が、観ている方は一瞬にして消えて行きます。聞き逃し、聞き間違いは、作品の理解に大きく影響します。

何だか、冒頭に釈明的、言い訳的、年寄りの愚痴的な話しを綴ってしまいました。確かに、気力、体力には自信があるのですが、聴力の衰えを感じる今日この頃なのです。

まあ、兎に角、不確かな記憶?に基づいて、「海街diary」のあれこれのお話です。

それで、冒頭、次女佳乃(長澤まさみ)がベットで男と寝ているシーンから始まるのです。その時、佳乃の足の爪がアップになります。爪にはペイントがされていたような?

映画でも小説でも、冒頭、書き出しは、相当に悩み、工夫し、思いを込め、伏線として仕込み、それなりの意味が、それなりに語られているものです。

“足の爪”に何が込められ、何が語られているの?と思いつつ、作品の中に入っていったのです。

この作品、原作は“少女コミック?”だと、それなりにうっすらと耳にしてはいました。知っている人は、それなりに知っていた?暗示的なカット?何て、思いつつ、男の腕の中で眠る佳乃を見つめつつ、物語の展開に期待しつつ、スクリーンを見つめたのでした。

見始めは、いろいろな人物が、いろいろ登場して、誰と誰がどう云う関係で、これまでを把握し、これからを想像し、それなりの期待を抱きつつ、頭をそれなりに回転させます。



それで、三姉妹が一緒に暮らしていて、長女“幸”が看護師、次女“佳乃”が信用金庫勤め、三女“千佳”がスポーツ店勤め、そして、父親は不倫で家を出て行き、母も三姉妹を置いて家を出て行き、姉妹は祖父母に育てられて・・・・・・。

まあ、そんな三姉妹ですが、祖父母に育てられ、それなりに暮らしているのですが、出て行った父が病死して、腹違いの娘を三姉妹が引き取り、物語がはじまります。

腹違いの娘“すず”の登場で、父への想いとか、母への想いとか、家族への想いとか、親子の繫がりとか、男と女の愛とか、いろいろな想いが、いろいろと変化していく・・・。

それぞれが、どのように展開し、どう云う結末を向かえるのか? そんな期待を胸に抱きつつスクリーンを見つめたのです。

それで、前回、“舞台が鎌倉で、衝撃的事件が起きる訳でもなく”と書きましたが、父親は他に女をつくり家を出て行き、母親も男をつくった?のか家を出て行く、まあ、こんな家庭は、まわりに良く見かける訳でも無いが、衝撃的設定でもなく、それなりにありえる設定かと思いつつ・・・・・。

それで、すべては父親の不倫から始まったのですが、何故に父は不倫に走ったか?その理由は語られないのです。観る人の想像に任せるのです。もしかして、誰かの、どっかの台詞で、それなりの示唆があった?見落とした?

それで、画面に登場しない父親ですが、そもそも、婿養子だったのでは?それで、夫婦の暮らしに、嫁の両親の干渉が、かなり、かなり、あって、夫婦の関係にひびが入ったと思ったりしたのです。

それで、パンフレットを“チラ見(読んでしまうと感想に影響が出るので一通り綴った後で読むのです)”したら、三姉妹の姓が“香田”で、腹違いの娘“すず”姓が“浅野”となっていたので、やっぱり、これは婿養子だと確信しました。

それに、いま思うと、出て行った母が“家を売ろうと考えている”と、娘達に告げ揉めるシーンがあったのですが、これで、やっぱり、婿取りに間違い無しです。

出て行った母親(大竹しのぶ)が“佐々木都”となっていたので、こちらも再婚。やっぱり、祖父母が、両親の関係に大きく影響していたのです。

ホントに、よく観ていないと、よく聞いていないと、作品の組み立てが理解できないのことがあります。考えて、考えて、作り上げた筋立て台詞が、一瞬のうち流れ消えて行くのです、見逃したり、聞き逃したり、する危険性があるのです。やっぱり歳の所為?

やっぱり、年寄りには、何度も再生できる録画で観るのが楽です。それと最近、ホント、他の観客の気配が気になるのです。

他の観客と云えば、当日は10スクリーンある中で、一番少ない85席の処で、日曜日の11時25分からの上映で、中学生風の二人組の女子と、40代の男女ペアと、60代のペアが我々を入れて3組み、総観客数は10名でした。

それで、話しを戻します。

祖父母ともに?教師で、両親の居ない三姉妹を立派に育てたのですから、それなりの人達なのです。それなりの家庭に婿養子として入った男。かなり“きつかった”のです。きっと、きっとそうです。

お父さんは、どんな想い出、他に女をつくり、妻を捨て、娘を捨てたのか?

本日は、これまで。


それでは、また。



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「海街diary」見終わって静かにゆっくりと手を叩きたくなる心がやわらかくなる是枝監督の代表作に?

2015年07月28日 | 映画の話し

先日の日曜日、連れ合いと一緒に観て来ました。

結論から言います。とても、とても、ヨカッタです。

わたし的には、是枝裕和監督の代表作になると思っています。

まあ、とは云っても、これまで是枝監督の作品は、『誰も知らない』、『歩いても 歩いても』、『そして父になる』の三作しか観てはいませんけど・・・・・・。

『誰も知らない』は衝撃的事件の映画化で、それなりに衝撃的でした。『歩いても 歩いても』はビデオで見たのですが、あまり印象には残っていません。

『そして父になる』はお金を払って映画館で観たのですが、何で今頃、こんなテーマで、こんな役者で、こんな作品なの?でした。

そして、今回の『海街d i a r y 』は、見終わって、静かに、ゆっくりと手を叩きたくなる、こころが、とても、とても、やわらかくなる作品でした。




そして、観ている途中で、何か、小津安二郎の作品を観ている気がしてきたのです。

舞台が鎌倉で、衝撃的事件が起きる訳でもなく、いまと云う時代を意識している訳でもなく、それでも、家族のひとり一人を、その繫がりを、丁寧に描くことで、それなりの時代が撮し込まれていたりして・・・・・・。

物語は“鎌倉”を舞台に描かれるのですが、鎌倉でなければ、絶対に物語りとして成立しない作品だと思います。北千住や、麻布や、広尾では物語にならないと思いました。

四人姉妹の住む、昭和の匂い漂う、木造の二階家、裏山の風景、庭の梅の木、このロケーションが鎌倉的で小津的。

そして、登場する食べ物、おはぎ、竹輪のカレーライス、アジフライ、アジの南蛮漬け、生しらす丼、しらすトースト、そして、梅酒。これらが旨く、巧く、物語に絡まってくるのも、鎌倉的で小津的。

それで、上映時間が11時25分からで、昼食前で観ていて、とても、とてもお腹が空いてきて、食べたくなったりしたのです。特に“おはぎ”は堪りませんでした。

綾瀬はるか、こんな役柄を演じる歳に・・・・・・、と思ったり。

長澤まさみ、その顔、その名前、見たような、聞いたような、と思ったり。

夏帆、こんな面白い?女優が居たの、と思ったり。

広瀬すず、ホント! 健気で、可哀想で、可愛いい、と思ったり。

兎に角、みんなヨカッタです。

兎に角、イイ作品でした、連れ合いも、そう云ってます。

詳しい話しは、次回。


それでは、また。







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満島ひかり“川の底からこんにちは”ホント!しょうがないと云うより!しょうもない!そして動的平衡です!

2015年03月20日 | 映画の話し
最近?録画したと思いますが、昨日、やることも、見るモノもなかったので、しょうがなく観たのでした。

それで、主役の“満島ひかり”が何かにつけて「しょうがない」を連発するのです。最初は“避けられない ・ 免れ得ない ・ 避けることができない ・ 逃げられない”的な意味に解釈していたのです。

しかし、です。話しが進み、いろいろ登場してくる人物は「しょうもない・ばかばしい・くだらない・どうでもいい」、そんな奴ばかりで、そんなストーリー展開なのです。

最初から、最後まで、ホントに、ホントに「しょうがない」と云うよりも、「しょうもない」映画なのです。でも、しかし、何故か、最後まで観てしまいました。

自分なんて、人生なんて、世の中なんて、所詮は「しょうがない・しょうもない」と思って生きている方、生きてきた方には、とても、とても、今更なんですけどね。

でも、未来のある、夢のある、自分探し真っ最中の方が、しょうもないこんな映画を観たらどう思うのでしょうね?

変に、過大に、自分に、世の中に、大きな夢と大きな希望を抱くと、間違い無く、圧倒的多数の方は、挫折し、悩み、苦しみ、打ちひしがれのです。

でェ、だからと云って、最初から、夢も希望も抱かない、そんな訳にもいかないのが人の常。兎に角、大きな夢が破れ、大きな挫折を経験し、そして、のり越えて、強かに生きて行く、そんなパターンが、平均的で、健全なのでしょう。

でも、その過程で、かなりの悲劇も起こるのです。そこが、人生で、辛くて、悲しくて、ドラマチックで、面白いのです。

人生は、川底の泥にまみれたシジミのように、目立たなくても、それなりに、味わい深く、それなりに価値あるもので、それなりに頑張って生きていると、それなりに楽しいこともある。

と、まあ、人間みんな“チョボチョボ論的”な、そんなメッセージが聞こえてくるのです。

でも、しかし、です。これって、かなり危険をはらむ気もするのです。現状肯定的で、全ては命ぜられるままで、川の流れに身を任せ的で、大勢に迎合で、体制に迎合で、これでは、いつか、きっと、世の中が、壊れ、廻らなくなると感じたのです。

世の中は、世の中も、『動的平衡・・・マクロ的には変化して、いないように見えても、ミクロ的には変化し続けないと、安定しない、ミクロとして絶え間なく動き、入れ替わりながらマクロとして恒常性が保たれている』と、彼の分子生物学者も仰っていた?と思います。違った?福岡 伸一先生。

兎に角、“満島ひかり”が主演との事で観たのですが、ツマランようで、それなりにツマル、微妙な味わいの作品でした。

それと、満島ひかりですが、エキセントリックなようでいて、とてもフツウなようで、小悪魔的なようで、とても純真そうで、とても味わいのある女優です。

それにしても、満島ひかり以外は、観たことも、聞いたことも無い役者ばかりでした。父親役の方だけは、何となく観たような?気がする顔をしていました。


それでは、また。



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映画『セントラル・ステーション』で万引き犯へためらい無き銃弾の日常と通貨危機を考える

2015年01月20日 | 映画の話し
先日、いつものように録画しておいた『セントラルステーション』を観ました。

まず、驚いたのは、冒頭での“銃撃シーン”です。

エッ!ホントに撃つの?脅し?威嚇?と、思っていたら、殺さないでくれ!と命乞いをした瞬間、躊躇いもなく至近距離から銃弾が発射されました。

撃たれたのは、露天商から雑貨品?を盗んで逃走した、窃盗犯と云うか、万引き犯と云うか、たぶん貧しい青年。

撃ったのは、露天商から所場代を徴収し、露天商の商売を、それなりに守るマフィヤ?の男。たぶん撃たれた青年は死亡したようです。

無抵抗の万引き犯を、警察に引き渡すことなく、撃ち殺しても特に問題は無し、これが、この国の日常風景?

この惨劇は、坦々と、日常の一コマとして描かれています。作品のストーリーとは直接的に関わりは有りませんでした。“この国”の、“この街”の、このドラマの背景としてのワンシーンでした。

舞台のこの国は“ブラジル”で、この街は首都の“リオデジャネイロ”です。

ブラジル映画は初めて観ました。ホントに驚きです。ブラジルってそう云う国だったの?でした。いつ頃の作品と思ったら1998年制作でした。

ワールド杯が半年前の6月でした。16年前のブラジルが描かれているのです。ワールド杯の時も治安が悪いと云われていましたが、16年前のブラジルには驚きました。今でも、そんなに変わらないの?

兎に角、未だ、貧しいのです。何か、終戦後の貧しい時代を描いた、あのイタリア映画の、モノクロームの、あの『自転車泥棒』的な世界でした。

主人公は六十代と思われる独身女性で、文字の書けない人を相手に、駅頭で手紙など綴る代書屋をして暮らしているのです。

訪れる客は、自分の想いを伝えるために、いろいろな人生の断片を語り、その想いを手紙にしたためるのですが、その手紙、ほとんどが投函されないのです。

代書料金が1レアル、郵送代が1レアル、でも、彼女の勝手な判断で破り捨てられ、ゴミ箱に投げ捨てられるのです。主人公は、それほどの善人でもなく、それほどの悪人でもなく、かなり、平均的なブラジル人?

それで、対円1レアルの本日午前の為替相場は『44円30数銭』です。98年当時を調べてみたら、112円90銭でした。“98年”を境にしてブラジル経済は混乱していったのです。

作品は“98年制作”と冒頭に書きましたが、ちょっとだけ詳しく調べたら、ブラジル公開が1998年4月3日でした。

それで、通貨危機ですが、1997年7月からの“アジア通貨危機”98年8月からのロシア通貨危機、そして、“1999年1月”からのブラジル通貨危機とつながるのでした。

と、云う事で、この作品はブラジルの経済危機直前に制作されたのでした。と、云う事は、庶民の暮らしは、映画で描かれていたよりも、公開後は、もっと、もっと、厳しくなった?

と、云うことで、本日は社会科のお勉強でした。

でも、映画をキッカケとして、世界を、ちょっとだけ覗くのも、それは、それで、映画の楽しみ方なのです。

作品の話しは、次回とします。

たぶん、もう少し、社会科のお勉強は、続くかもね。


それでは、また。





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映画『ツレがうつになりまして』を観て病気は生活環境?習慣?それとも体質?遺伝?を考える

2015年01月12日 | 映画の話し
先日、いつものように録画しておいた映画『ツレがうつになりまして』を観ました。以前、同じ原作で、NHK制作のテレビドラマも観ていました。

テレビドラマは2009年放送で“藤原紀香と原田泰造”でした。映画は2011年制作で“宮あおいと堺雅人”です。

配役によって作品のイメージは、それなりと云うか、かなりと云うか、変わることを改めて確認した次第。

それと、二人の住まいが、テレビではマンションで、映画ではそれなりに古い、昭和の匂い漂う庭付き一戸建て、住まいが異なると、生活感が異なり、流れる時間が異なり、作品から受けるメッセージも異なってくるのです。

まあ、テレビドラマでもそれなりにですが、フツウ、映画では、かなりオープニングとエンディングの場面は重要で、それなりのメッセージを込めるものです。

それで、映画では、オープニングで庭付き一戸建てをクレーン撮影でズームインして、エンディングは縁側に寄り添う二人を配してズームアウトするのです。

暖かな陽ざし、庭の草花、縁側で寄り添う二人、もう、これで、安心、安心、で、ヨカッタ!ヨカッタ!で、観客は映画館を後にするのです。

やはり、それなりの古さで、木造で、庭付きで、一戸建ては、人間の暮らしの速度が緩やかに流れそうで、暖かそうなのです。

それに対して、やはり鉄筋コンクリートの高層アパートは、心と身体によく無さそうに思えるのです。鉄筋も、コンクリートも、冷たいのです。高いところは不自然で不安になるのです。

確か、以前、高層階に暮らす住民に、心と身体の変調を来す確率が高い、なんて研究結果を見たような気がします。やはり人間は地面の近くで、草花や樹に囲まれて、ノンビリがイイのです。自然なのです。

それで、作品の方ですが、地面近くに住んでいたのに、心を病んでしまった訳です。何故?どうして?なのです。

住環境はヨカッタのですが、先ずは性格が、キッチリで、キッカリで、几帳面で、真面目過ぎるのです。そして、職場はクレーム処理の窓口で、毎日、毎日、謝りの日々で、神経を磨り減らすのです。

そして、遂に、こころは、その許容量を超え病んでしまうのでした。

主人公は、私と、かなり、かなり、性格が異なり、そんな事で悩むか?と思ったり、それなりに同情したり、観ていました。実は、何を隠そう、この私も、むかしクレーム処理係にら長らくと云うか、半生を献げていた?のでした。

でも、当時、私は、鉄筋コンクリートの低層アパートで暮らしていましたが、鬱病に罹らずすみました。鬱病は何故?発症するのか?

作品のなかでは、原因は、性格とか、職場環境とか、体質とか、いろいろな要因に触れており、鬱病は心がひく風邪で、誰でも罹る病との説明がされています。

誰もが罹る?でも、しかし、精神的なストレスへの耐性が、人に寄って異なる処が、とても、とても、ムズカシイのです。

私は、知っている人は知っていると思いますが“二型糖尿病”なのです。二型糖尿病は生活習慣病とされています。生活習慣に問題がある病とされています。

でも、しかし、同じような食生活をしていても、発症する人と、しない人がいるのです。と、云う、ことはです。生活習慣は二次的な要因で、一次的な要因は体質なのです。元もと、インシュリンの分泌が少ない体質だと思うのです。

ですから、鬱病も、同じ職場で同じストレスに晒されても、何故?発症する人と、しない人に別れるのか?これも、体質だと思うのです。性格や、根性の問題では無いのだと思います。

心の安定は、神経の物質、ドーパミンと、ノルアドレナリンと、セロトニンの三つバランスで安定が保たれているそうで、心を平常心に保つのがセロトニンだそうで、セロトニンの減少が鬱病を発症させるそうです。

と、云う、ことは、鬱病になる人は、ストレスを受け、心の安定を保つ為、セロトニンが消費され、その生成限度を超えた時、発症する? 生成能力には個人差があり、同じ環境でも、発症する人、しない人がいる。

する人、しない人がいる、これが問題なのです。タバコを吸っても、肺癌になる人と、ならない人がいます。でも、肺癌でも、それなりに同情されます。

でも、心の病は、ナカナカ同情されません。心が弱いと云うのは、世間では、とても、とても、マイナスイメージで、同情されにくいのです。身体が弱い人は、それなりに同情されます。

心が弱い、気が弱い、根性が無い、こんなことは、自分の気持ちの持ちようで、どうにでもなる、と、思われているのです。

こころの病は同情されず、身体の病は同情され、でも、生活習慣に起因する病は、自己責任で同情はされません。大酒飲みの糖尿病患者は、失明しても、脚を切断しても、心筋梗塞、脳梗塞、人工透析でも、あまり同情されません。

と、云うことで、長くなったので、病は、体質で、体質は遺伝と云う事でまとめとします。まあ、兎に角、そんな事で感想とします。

これからの時代、間違い無く、心の病は、増えます。職場環境が、生活環境が、人間を取り巻くすべての環境が、人間の生理を超えてしまっているからです。と、偉そうな、ご神託を述べて終わります。

でも、私を取り巻く環境は、緊張感の欠片も無く、ストレスが少な過ぎて、とても、とても、耐性を低下させているようで、心配しているのです。ストレスは有り過ぎても、なさ過ぎても、とても問題なのでした。

そうでした。最後に一言、“藤原紀香と原田泰造”のテレビドラマの方がヨカッタです。堺雅人は生理的にダメなのです。それと、オジサンとしては“宮あおい”より、“藤原紀香”の方が“魅力的?”なのです。作品の出来とは関係ないのですが・・・・・・・。

と、云う事でした。

それでは、また。




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映画『クレアモントホテル』で英国の祖母と孫の関係に思いを馳せる

2015年01月09日 | 映画の話し
先日、録画しておいた“クレアモントホテル”(2005年制作イギリス・アメリカ合作)を観ました。

出だしは、とても、退屈で、退屈で、時間のムダのようで、停止ボタンに指をかけようか、どうしょうか、迷っていたりしたのです。

それが、少しずつ、少しずつ、それとなく、なんとなく、じんわりと物語にのなかに引き込まれていったのでした。

ストーリーとしては、配偶者を亡くした老婦人、一緒に暮らしていた娘の家を出て、旅に出て、ロンドンのホテルで一人、これまでの事、これからの事、いろいろ考え、整理し、清算し、それなりに、新しい出発を・・・、何て、思って観ていたのです。

ところが、この老婦人、先ずはたったひとりの可愛い孫、でも、今では自立した26歳の男、電話を入れても留守、手紙を書いても返信無し、一ヶ月が経過しても逢えない話しからドラマは始まるのです。

この展開には驚きました。日本ならともかく、舞台は英国です、その英国の祖母が、何故、それほど孫に会いたがるの?と思ったのです。

欧米では、成人した子供は親と一緒に暮らすのは、とても憚られる事だと、そう記憶していたのです。ですから、祖母と孫との関係となれば、それは、それは、もっと、もっと、距離がある、と、そう思っていました。

この私でも、祖父母にとっての孫の存在は大きく、孫にとっての祖父母は、意識の片隅に小さくボンヤリと存在する過去だと思っております。

これからが長い青年と、これからが短い老婦人では、なかなか互いの関係はムズカシイのです。いつまでも可愛い孫は過去のものです。

それにしても、日本とあまり変わらない関係に、驚いてみたり、やっぱりそうかと、納得してみたり、そうこうしているうちに、少しずつ面白くなり、展開が気になり、そして、ラストまで観てしまったのです。

それで、孫に会えない老婦人と、孫と同い年の小説化志望の青年とが、トラブルをキッカケにして出会うのです。そして、物語が始まるのです。

この青年なんですが、登場したとき、わたしにはどう見ても、汚らしく、貧乏くさく、好男子には見えなかったのです。ジーンズの綻びも、肩まで伸びた長髪も、お洒落と言うよりも、経済的困窮の結果としか見えなかったのです。

それで、いろいろあって、この青年をホテルでの昼食に招いたとき、その出で立ちにびっくり、借り物の上下のスーツはサイズが小さく、ツンツルテンの上着とズボン、ネクタイはそこらの切れっ端的で、靴は履き古しで、とても、とても、ショボイク、トンデモスタイルなのです。

でも、しかし、ホテルの同宿の老人客も、ウエイトレスも、全員が、何と素敵で、何と立派な青年だと、そういう反応を示すのです。何故?どうして?これで?と思うのでした。

この青年を孫と思い込む老人達、それを否定しないままドラマは展開されます。

青年は母親との関係がギクシャク、老婦人は娘や孫とギクシャク、でも、ギクシャクどうしの二人は。それなりに良い関係を続けるのです。

肉親との関係は、肉親であるが為に、互いの距離を計ることなく、すべてが許されるとして、何処まで踏み込んできます。

それが、他人であれば、他人として、互いに一定の距離をとり、踏み込んではイケナイ領域を意識しつつの関係となり、そのことで、互いに、肉親よりも素直な自分を出せる、そんな現象を発生させる確率は、高くなるのです。

趣味や、考え方、生き方に共感がもてれば、歳の離れた男女の関係は、変な?思惑が入り込むことなく、それなりに快適なのかも。まあ、莫大な財産をお持ちの方は別ですけどね。

何てことを思いつつ、自分の孫を思いつつ、英国も、日本も、あまり変わらないのかと思いつつ、年寄りは、若き日の記憶を手繰り寄せ、ゆっくり、静かに、穏やかに、老いを楽しむのも、それは、それで・・・。

そんな、日々を・・・、何て、一瞬、頭を過ぎったのです。

が、しかし、しかし、です。今年で私も高齢者となりましたが、未だ、未だ、これからを考え、これまでをふり返るには、未だ早い!絶対早いと!気合いを入れつつ、エンドマークを見つめたのでした。

まあ、それなりに良い作品でした。


それでは、また。




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小泉今日子の映画『毎日かあさん』は“頑張るオカシャン”とキャパには遠いオトシャンでした

2014年11月26日 | 映画の話し
先日、いつものように録画しておいた『毎日かあさん』を見ました。

先日と書きましたが、たぶん一週間くらい前だったような? でも、このところ更新が途絶えがちで、怠け癖からなかなか脱け出せず、このままでは、ちょっとヤバイ?と思い立ち・・・このところ何度も思い立っています・・・。

まあ、そんな、こんなで、今朝、寝床のなかで中でホンヤリと、この作品ことを思い出したのです。

兎に角、書かないと、惚けるのです。それでは、それでは、と、思い立ち『頑張るかあさん』の感想など綴ろうと、タイトルを確認したら『毎日かあさん』でした。やっぱり!ヤバイかも?

でも、しかし、ヤバイ!記憶を辿って思い返すと、『頑張るかあさん』の方がそれなりにタイトルとして相応しいと思ったりもするのです。

この作品は新聞連載マンガで、その新聞が毎日新聞だったことで、たぶん、それなりに引っ掛けて付けられた、そんな気のするタイトルです。

と云うことで、毎日新聞の連載マンガの実写版で、現在も連載は継続中だそうで、作者は“西原理恵子さん”です。

西原理恵子と云えば、十数年前、週刊誌の連載マンガを見ていた記憶が、うっすらとあるのです。最近では、NHKでアフリカ?だったかに行って、自分用のアヒル型?棺桶を製造以来した様子を描いた、ドキュメント番組でお目に掛かっていたのです。

面白いと云えば面白いし、変わっていると云えば変わっているし、自然体だと云えば自然体な、それなりに可愛らしく魅力的な女性です。1964年11月1日生まれで現在50歳。作品公開は2011年2月。

うん、なんか、前置きが長くなってしまった。それでは、それでは、“頑張るかあさん”では無かった、“毎日かあさん”のお話です。

かなり私小説的な、実話的なストーリーのようです。無職のアル中亭主と、少しお間抜けな小学生の息子と、カワイイ幼稚園児の娘が、いろいろ織りなす非日常的?な、日常を描いた作品です。

兎に角、制作者の意図は意図、観る側は観る側で、勝ってに、それなりに、作品を観て、いろいろ思いを巡らし、詮索し、褒めたり、貶したり、いろいろ楽しみます。

と云うことで、結論を先に云ってしまうと、幼稚園児の娘が両親のことを、“オトシャン”、”オカシャン”と、可愛い表情で、可愛い口元から発する、可愛い声に救われた作品でした。

これで、お終い、では、何じゃ!そりゃ!ですから、これから、それなりに、ボチボチと話しを続けます。

それで、アル中亭主ですが、元は戦場カメラマンなのです。戦場カメラマンと云えば、あの戦場で散ったロバート・キャパを想い浮かべます。

でも、しかし、彼、オトシャンは、戦場での体験から精神を病みアルコール中毒となるのです。これはそれなりの実話だそうです。

戦場カメラマン、どのような人が、どのような動機で、選択するのか? 平和を願い、戦争の残酷さを、虚しさを、世界に訴える為? 極限状況で、戦争は単なる背景として、人間とは?を描く為?

しかし、オトシャンは優しくて、気が弱くて、動機も曖昧で、、自分には向かない戦場カメラマンを、一時の憧れで選択してしまった、情け無い、フツウの人だったように思えるのです。

オカシャンは、そんなオトシンに、何故?惚れてしまったのか、出会った時は戦場カメラマン、出会った場所は戦場に近い?東南アジアで、市場の屋台で、下手物料理を無造作に喰らう戦場カメラマン、そんな姿に、“それなりの男”を見たのでしょう。

でも、しかし、出会った時のオットシャンは、自分に偽りがあったのです。ホントはとても優しい、気の弱い、ダメ男だったのです。ロバート・キャパは、かなり、かなり遠かったのです。

それでも、ダメ男にはダメ男の魅力があるのです。そういう男に、しっかり女は嵌る傾向があると、世間で囁かれているのを耳にします。

一般的に、しっかり女とダメ男の組み合わせは、必ず、必ず、互いの資質を増幅する法則が働くのです。オトシャンとオカシャンもその通りの展開となりました。

と、云うことで、見終わって、ふフツウ人のわたしとしては、この作品を観て、フツウには体験できない、男と女、親と子のフツウではない日常を見て、それなりに、面白さ、可笑しさ、そして、悲しさ、を抱いたりするのです。

でも、しかし、よくよく考えると、“しっかり女とダメ男”の組み合わせは、何か、とても、フツウの男と女の関係で、ほとんどが、自分を含めて、みんな、そんな感じに思えてくるのでした。

兎に角、可愛い、可愛い、幼稚園児の娘の発する、オトシャン、オカシャンの言葉が救いでした。

それと、途中で何となく、“あれ!もしかして?”と思ったら、やっぱり、オトシャン役の永瀬正敏と、オカシャン役の小泉今日子は、やっぱり元夫婦でした。

2004年に離婚していて、別れてから7年後に夫婦役を演じたのです。二人にも、きっと、いろいろあったのでしょう。

と、云うことで、また、次回。


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映画“麒麟の翼”はそれなりに面白く!でもしかし残る不自然の数々

2014年11月12日 | 映画の話し
昨日、録画してあった“麒麟の翼”を観ました。

久しぶりのミステリーで、それなりに犯人捜しを楽しみました。

この手の定番として、最初に出て来る容疑者と云うか重要参考人は、犯人ではなく他に真犯人がいる訳です。ですから、重要参考の真犯人らしさと、真犯人を追い詰める細工の組み立てが見物なのです。

重要参考人と真犯人には、それなりの“いま的”な背景に、男と女とか、友情とか、父と息子とか、家族とか、普遍的問題とを絡め、物語として、奥行きとか、厚みとか、重みとかの味付けをすると、観客はそれなりに感動する訳です。

でも、しかし、そこに、人間として、こうあるべき的なメッセージを、面と向かって、胸ぐら掴んで、大声で叫ばれると、すべてがチープなお涙頂戴的な作品に変化してしまうのです。

それで、この作品、終盤までそれなりに謎解きを楽しんでいたのですが、謎が解けた後、「阿部寛」と「劇団ひとり」の取調室でのシーンが、この映画をお説教的お涙頂戴話に変えました。

何~~だァ、そう云う風にまとめるの!と、思ったら、いろいろと、あれこれと不自然な設定が気になり始めたのです。

①そもそもです、キーワードの“麒麟の翼”と云うタイトルを、何故?ブログ名したのか?まったく触れていない不自然。

②高校生がですよ、日本橋界隈の七福神巡りをする不自然。それに加えて、安産祈願で有名な“水天宮”が“水難”にも御利益があることを知っている不自然。

③コーヒーショップで会っていた相手が防犯ビデオに映っていない不自然。そもそも、夜の11時頃の日本橋で、息子の同級生と会う不自然。

④息子が水泳部を止めた時期と、“プールの事故”の時期が重なるのに、その時、何故、疑わなかった?父親が気付かなかったとしても、母親からの話があってもおかしく無い不自然。

⑤被害者が7~800メートルも、腹にナイフが突き刺さし、血を流しつつ、まだ宵の口の11時頃の日本橋界隈を歩いていて、不審に思う通行人が居ない不思議。

まあ、そう云うことで、あれこれと、不自然を感じた事柄を綴ってみました。

2012年制作、原作は“東野圭吾”です。それなりに面白い作品でした。それなりに惚け防止になりました。


それでは、また。


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映画『蝉しぐれ』で大八車の“ふく”に涙して

2014年09月05日 | 映画の話し
昨日は、NHKのBSで“蝉しぐれ”を観ました。今回はめずらしく録画ではなく生放送?です。偶々チャンネルを合わせたので、冒頭の数分と、途中トイレに立った数分を見逃しています。

藤沢周平の代表作らしいのです。舞台はいつもの、東北の小藩で、下級武士で、貧しくて、美しくて、悲しくて、叶わぬ恋で、こころに秘めた純愛で、堪えて、堪えて、堪えて、そして、正義の剣で清く正しく美しく物語はラストを向かえるのです。

最後はそれなりに予想できるのですが、それでもやはり、ハラハラドキドキで観てしまうのです。

世の中はそれなりに単純で、いい人とわるい人がハッキリしていて、男と女な関係も清く正しく純粋で、時代劇でしか表現できない世界。

それにしても、泣けました、涙がポロリでした。処刑された父の遺体を一人大八車に乗せ家に連れ帰る息子“文四郎”が、山の坂道で苦闘している時、坂の上から駈け下りてくる“ふく”の姿。

何も語らず“文四郎”を見つめる“ふく”、何も語らず“ふく”を見つめる“文四郎”

大八車を引く文四郎、後ろから押す“ふく”

映像も、音楽も、ここは“泣き処”と、とても、とても、盛り上げるのです。これはもう完全に嵌ります、泣けます、美しかったです。

何処かで見たような?と、思った親友の“島崎与之助”は“今田耕司”で、えっ、もしかして?と、思った親友の“小和田逸平”が、あの“ふかわりょう”でした。

この二人が藤沢周平の世界に出現するとは、普段のキャラが思い出されたりして、ヨカッタような?ヨクナカッタような?

清く、貧しく、美しく、そして、そして、強く・・・・・・、観る人を、気持ち良くさせてくれます。現実の世の中では、眼にすることの無いドラマです。

でも、しかし、このような映画を観て、主人公に己を投影し、それなりにスッキリ!するのも、生きて行くには必要かも?

それにしても、大八車のシーンでの、文四郎を見つめる“ふく”の表情は、とても、とても、忘れられません。オジサンとしては、できることなら、“ふく”を、強く、強く、強く、抱きしめてやりたかった!

と、云う、事で、“蝉しぐれ”でした。


それでは、また。



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