歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

阿修羅像 お顔の変化はどうしてなの?

2009年07月23日 | お寺・神社
昨日の続きです。

それで、阿修羅像なんですが、「阿修羅」と云えば、先ずは「修羅」です、そして「修羅場」です。争い、闘い、戦争なのです。

でも、この阿修羅像からは、そんなイメージはまったくありません。どうしてなの? 


何故、どうして、


こんなに哀しそうな表情をした、


こんな青年のような、


阿修羅像創ったのでしょう。


やっぱり、何か、悩みがありそうです。


正面、左には、


下唇を噛んだ、10~12歳の少年が、


正面、右には、


眉頭を正面像より、より強く寄せた、14~16歳の少年が、


そして、この正面の表情は、18~20歳の青年が、


3面の表情は、眼、鼻、口、の位置関係の変化を計測するまでもなく、明らかに、成長過程を表現しています。

3面の顔、6本の腕、この阿修羅像の様式で創られた、この像は、ホントに阿修羅なの? 

制作を依頼した人の想いが、このような表情を創らせたのでしょうか?

それで、そこいら辺の事情は次回とします。


それでは、また明日。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿修羅像 眉頭の、憂いと、悲しさと、寂しさと・・・・・・

2009年07月22日 | お寺・神社
3月31日から6月7日の期間、上野の国立博物館で開催された「国宝阿修羅展」、見に行く予定をしていました。

一番の目的は、あの「海洋堂」が制作した「阿修羅像のフィギュア」です、ところが開催後直ぐに、販売予定数が売り切れました。

会場も大混雑で、ゆっくり、じっくり、眺めている状態ではない事が報道され、ここは、きっぱり、上野での対面は諦めました。

その後、5月17日にNHKのハイビジョン特集「阿修羅 天平の謎を追う」が放送されました。

きっと、いつの日か、奈良興福寺で直々のご対面を楽しみに、今は、画面の中の阿修羅様を見つめることにしたのです。


それで、ハイビジョン特集「阿修羅 天平の謎を追う」なのです。

やはり、輸送中は“仏の魂”を抜いて、只の物体に戻すのでした。


人間の都合で、魂を入れたり、抜かれたり、阿修羅様も大変なようです。

思っていたよりも、阿修羅様は“かなり小柄”で“軽量”でした。身長?153㎝で、材質?は“乾漆像”と云って、中は骨組みの空洞で、表面は麻布に漆を塗り固めて造られているそうです。

緊急事態が発生した、その時は、小脇に抱えて運び出せるのです。“乾漆像”と云う製法は、漆が高価な為にあまり造られていないそうです。

昔も今も、漆って、そんなに、とてつもなく、高いの? 


それで、奈良で、お寺で、仏像ですが、中学と高校の二度、修学旅行で訪れています。

お寺で覚えているのは、線路脇でご近所の“薬師寺と唐招提寺”ですが、中学の時だったのか、高校の時だったのか、はっきりしません。

興福寺には、行ったような、行かなかったような・・・・・・。どちらにしても、当時はお寺にも、仏像にも、まったく興味はありませんでしたから、何を見てきたのか、まったく記憶には残っていません。

境内の脇を通る“線路”の風景とセットになって、何故か? 二つのお寺の名前だけが記憶に残っています。

それで、興福寺の阿修羅様ですが、何とも、腕を骨折してギブスが巻かれているようで、とても痛々しいお姿です。


この荷台に阿修羅様が乗って居られます。厳重な警戒体制のもと東京上野に輸送されるのです。


何たって、巷では、国宝で、仏像で、1位か2位かと噂される人気者です。まぁ、私のなかでは、きっぱり一位は広隆寺の弥勒菩薩だと、興福寺の阿修羅像は2位と決めております。

しかし、大変な賑わいだったようで、期間中の入場者が90数万人に達したと聞いています。


閉館時間も延長して対応したようです。


皆さん、何処に、惹かれるのでしょうか?


“仏像らしくない”この表情でしょうか? 確かに、迷いとか、悩みとか、憂いとか、寂しさ、悲しさ、とか、見る人によって、いろいろな想いを感じさせるのでしょう。

若い世代は共感を抱き、若くない世代は・・・・・・、何を想い、見つめるのでしょうか?

確かに、すらりとした身体、細く伸びた6本の腕、造形的に、とても、美しく、気高く、感じるのです。

ここで、敢えて、主張します!

わたしとしては、カニ脚のような4本の腕と、左右にある2面の顔が、くっついていなければ、“普通の仏像”として、とても良いと思うのです。

何と云っても、見る者を惹き付ける、正面の、この微妙な表情。後の2面は、世間でもあまり話題にはなりません。


微妙な表情を表現しているのは“眉毛”です。“眉頭”の立ち上がりです。眉を寄せているのです。

それで、次に・・・・・・、え~と、この辺で今日は終わりとします。

この先は、次回と云うことで・・・・・・。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草食系・年寄り系男子と八幡様で遭遇

2009年05月19日 | お寺・神社
昨日の続きです。

公園なのか? 緑地帯なのか? よく判らない場所を後に、244号線をつくば市に向かって、右側の歩道を走ります。

緑地帯?の斜め向かいは、郊外型家電品量販店の“あの店”が、しかし、まあ、何ともデカイです。


こんなデカイ店を、こんな処に開いて、ホントに大丈夫なの? もう、こんな出店攻勢戦略も、そろ、そろ、終わりが見えてきたような・・・・・・。まぁ、そんなことは、余計なお世話でした。


それで、Ks’を過ぎたところで、木立の中に神社が見えてきました。大木も目立つのですが、それよりも、鳥居です。


下の方が、土砂で埋もれたの?と思ったのですが、礎石が顔を覗かせているので、そうではないようです。それにしても、兎に角、低い、頭が危ない。


享和2年ですから1802年、壬(みずのえ)で、戌(いぬ)の年に建立ですか、207年前です。十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を出した年のようです。

いろいろな事情で、このような低い鳥居となったのでしょう。

この大木は、市民の木だそうです。


樹齢は400年ぐらいのようです。400年前ぐらいと云うと、関ヶ原で家康が勝利し、江戸に幕府が開かれた頃です。歴史のお勉強でした。


村の外れの鎮守の森です。


しかし、デカイ! 太い! スゴイ!根っこだぁ!


この脇道はなかなかです。すげ笠にわら草履の村人が、鍬を肩に歩いて来るような・・・・・・。


何となく境内を見つめていると、相撲の土俵がうっすらと見えてきました。


奉納相撲が行われていたのでしょう。何たって、ここは牛久市です、“稀勢の里”の出身地です。あまり関係ないかぁ? 

今場所、前半は頑張っているようですが、後半戦に不安があります。



一通り見学、参拝、撮影を終えて、自転車の処に戻ると、同じような自転車が、そして、同じように、デジカメをぶら下げた、ひとりの青年が居りました。


若いのに、こんな処が好きなようです。草食系で、年寄系なのでしょうか? 若いうちから、神社仏閣に興味があるとは、何か、とても、心配です。

世の中の、少子高齢化現象が、若者の行動に大きく影響し、みんな“年寄り臭く”なってしまったの?


まぁ、兎に角、八幡神社でした。


それでは、また明日。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉並区 “真盛寺は三井寺”で入れませんでした!

2009年03月20日 | お寺・神社
昨日の続きです。

環七に出て来ました。この辺り環七の外側は、妙法寺から繋がる、お寺だらけ、お墓だらけの寺町となっています。

先ずは、環七に面した日蓮宗の宗延寺。こぢんまりした境内に観音様が目立ます。かなり新しそうです。後は、特に眼を引くものは無さそうでした。


こちら、お隣の真盛寺は、以前より車で通過する度に、気になっていたお寺です。両側の長い塀、長い石畳みの参道、環七に面しているとは思えない佇まい、期待できそうです。


教育委員会の案内板を読むと、現三越の創業者三井高利の菩提寺だとか、書院と本堂は江戸時代の建築だとか、客殿と庫裡は細川侯爵邸から移築しただとか、庭には謂われのある池があるだとか、数多くの文化財が所蔵されているだとか、これは、もう大変なお寺のようなのです。


立派な山門です。


ところが、足下を見ると、一般の参拝見学は受け入れていないのです。これだけの寺が、と云うか、ふつう、寺は参拝を拒絶することありません。はじめて見ました、こんな立て札。


やはり、三井家一門だけの、極々私的な寺のようです。まぁ、事前に連絡していれば、三井家でなくても参拝見学は可能だと思いますが、それにしても、守りの堅い真盛寺です。

なかなか、良さそうに見えます。


しかたなく、参道を引き返します。両側は桜、満開になると綺麗なことでしょう。


左側を歩く二人の女子、寺の中から出て来たのです。小学校3、4年と云った年格好、どことなく、それとなく、歩き方と云い、顔つきと云い、服装と云い、三井家の関係者のような、育ちの良さを漂わせていました。ちょっと考え過ぎ?

真盛寺を出て、寺の脇の路地を奥に入って行きます。密集した住宅の屋根越しに、宗延寺の屋根が覗きます。


コンクリート塀の間を分け入ります。塀から卒塔婆が覗く風景。


左側は、ずっと、ずっと住宅地。右側は、ずっと、ずっと墓地。寺と墓地の隙間に住宅が密集しているのです。


この辺り、お彼岸、お盆になると、お線香の煙と匂いが立ちこめるのです。

夏になると、どこからともなく、冷く妖しい風が吹いて来たり、妖しい光が飛んでたり、風も無いのに卒塔婆が揺れていたり・・・・・・。

マンションの窓から眺める墓地の風景、それなりに風流かもしれません。


まだ、もう少し、堀之内界隈を歩きます。


それでは、また来週。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安福寺で“真言”で舌を噛む!

2009年03月11日 | お寺・神社
昨日の続きです。

境内の見学して、そして参拝です。

こちらにも、あの東京は巣鴨で有名な“とげ抜き地蔵尊”が居られます。


こちらでも、貼れば手足のトゲを抜き、丸めて飲み込めば喉に刺さったトゲを抜く、霊験あらたかな“お札”を頂けるのでしょうか。

この説明書きには、トゲについては一言も触れていません。巣鴨の“お札販売所?”でも、お札は売っているのですが、使用方法、御利益については、まったく触れていませんでした。
)

具体的、生理的、身体的、効能を謳っては、お寺と云えども“薬事法”違反で告発される危険性があるのでしょうか?

“悩み苦しみを救ってくれる”との、精神的領域での効能を謳っても、薬事法には違反しないのです。

但し、身体的、精神的でも、対価として世間一般の常識的な範囲を越える“お布施”を要求すると“詐欺罪”に問われてしまうのです。

後半の説明にある、“真言”ですが、「オンカカカビ・サンマエイ・ソワカ」を三回唱えて、とあります。

わたし、この文字を見つめながら唱えてみたのですが、出だしのオンカッカッッ・・・で舌を噛んでしまいました。これは、誰がやっても、かなり危険な呪文です。

噛まずに、スラスラ唱えられるようになるには、相当の修行が必要です。子供は絶対に真似しないで下さい危険です、絶対に舌を噛みます。

そう云えば、思い出しました! この呪文は先日のお葬式で、坊さんが読経の前に唱えていました。調べてみたら、密教系の真言宗と天台宗で唱えられているそうです。

この「オンカカカビ・サンマエイ・ソワカ」は、サンスクリット語(梵語mantra)だそうで、仏・菩薩の誓いや教え・功徳などを秘めている呪文的な語句だそうです。

語句の多いものを陀羅尼(だらに)、数語からなるものを真言、一、二字のものを種子(しゆじ)と云うそうです。

大変勉強になりました。それにしても、この呪文は、どんな意味の言葉なのでしょうか? 呪文ですから、やっぱり、そこの処は・・・・・・秘密なのでしょうか? 

何と云っても密教です、真理はそう簡単に凡人に理解できるものでは無いのです。オンカッカッカッ・・・・・・。

こちらの観音様の足下、よく見たら、何と、子供ではなく、お爺さん、お婆さんです。
)

高齢化社会に対応しているのです。ボケ封をじて、苦しまず“ポックリ”と、この世から“おさらば”させて頂けるのです。


私も“元気でおさらば”を願い手を合わせました。皆さんも、画面の観音様に手を合わせてお祈り下さい。

本堂のお詣りを済ませ脇を見ると、


このお寺を、立派にしたお坊さんの銅像が座っていました。この方が、本堂とか、山門とか、境内の“整備”をされたのでしょうか。

七福神も、


並んでいます。


孫と同じ年頃の女の子と、妹、そしてお母さん。迎えに来たのです。お寺の隣には幼稚園が併設されています。孫は今年から“年長さん”になります。

もうすぐ春休み、お泊まりに来ます。今度も「2バク」、楽しみで~す。


大仁王門をくぐり、振り返ります。


思いもよらぬ処に、思いもよらぬ、なかなかのお寺を発見しました。

つくば市にも、まだまだ、いろいろ、ありそうです。

さぁ、急いで“トイレ”を探して、“かなりの尿意”を素早く解消しなければと、差し迫った思いを抱きつつ足早に、安福寺を後にしました。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安福寺は“つくば研究学園駅”の近所です。

2009年03月10日 | お寺・神社
先日、つくば研究学園駅の近所をウロキョロしてきました。

この辺りは、これまでも、何回も、歩いていたのですが、まったく気付きませんでした。こんな処に、こんなお寺があったのです。この辺りにしては、なかなか立派な山門です。

真言宗豊山派、金剛山安福寺です。


“大仁王門”と云うようです。昭和59年ですから、1984年です。つくば市ができたのが1987年ですから、それより3年前に門は完成していたのです。


24年の歳月で、こんな具合になってしまうのです。陽当たり、風当たり、雨当たり、が良いので、劣化の進行が早いのでしょうか。

それとも、“機械カンナ”で表面を仕上げた最近の木造建築は、表面の平滑度が落ちるために、雨水が内部へ浸透し易く、劣化の進行が早いと聞いた事があります。

この門も、そのせいでしょうか。それとも、これが標準的な劣化状態?


江戸時代末期の建造と云っても、“そうか、そうか”と納得してしまうような外観。


石柱を入れて山門を撮ったのですが、大失敗の構図。石柱と山門の位置関係が悪い? いゃ、そうではない、撮す側の立ち位置が悪い!


実は、これには、深~い、理由があったのです。何を隠そう、このとき私は、下腹部に、かなりの“尿意”を感じていたのです。

ですから、お寺を参拝し、観察しているときも、何処かに「トイレ」、いや、「ご不浄」らしき、施設が設置されていないか、辺りの様子を窺っていたのです。

その様な身体的、生理的な状況が、観察に、撮影に、大きく影響を及ぼしていた事は否めないのです。

有名観光地の、参拝者、見学者等が、多数が集まる宗教施設であれば、必ず「ご不浄」は設置されているのですが、ふつうの宗教施設には、“そのような設備”は、ふつうは無いのです。

まぁ、それは、それとして、ふつうの、参道、境内、本堂です。


こちら、古いお寺に良くある光景です。境内の新規整備にあたり、散らばっていた古い石塔を、一カ所に集約して祀り直したものと思います。

ふつうは、こんな窮屈に配置しないと思います。

この頬杖をつく“如意輪観世音菩薩”、思いを巡らしていると云うよりも、うとうと微睡んでいるようで、とても好きなのです。


本日は、更新が遅れ、こんな時間(3時)になってしまいました。まだ本堂に辿り着いていませんが、後半は次回とします。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女化稲荷神社は木造で美しい

2008年12月02日 | お寺・神社
昨日の続き女化神社です。

なかなかいい境内です。


しゃがみ込み草取りをしている作務衣姿の男性、私が周りをウロキョロと歩き回っても、視線は下に向けたまま、黙々と作業を続けていました。

昔の参拝風景を描いた絵馬。昔は石畳に正座して参拝していた様です。


何だか判らない絵馬。


絵馬の狐の石像には子狐は描かれていません。


絵馬はどれも、絵の具の剥脱状態から推測して、古くても明治から大正の時代に作られた様に見えます。

しかし、今そこにある、狐の石像には“子狐”彫られているのです。


台座に彫られた年号が判読出来なかったのですが、大正や明治ではなく、江戸時代の元号であることは間違いありません。


こちらは、江戸は深川の“大黒屋藤助さん”の寄進です。江戸からここまで参拝に来て、狐の像まで寄進していたのです。

こちらも、深川の“高田屋宇兵衛さん”寄進です。

“藤助さん”と“宇兵衛さん”きっと、近所のお知り合いなのでしょう。

そうでした、狐の話し何ですが、猟師に撃たれるところを、土浦からの帰り道、通りかかった忠五郎さん助けてあげたそうです。

その狐が“白い女狐”よくある話です。助けられた女狐が、その晩、忠五郎の家に現れ、二人は夫婦になり、3人の子供が生まれたのです。

ある晩、狐である事を忠五郎に知られ、女狐は子供を残し山に逃げ帰る。哀れに思った忠五郎は、祠を建て祭るのです。

そんな謂われの女化神社。社伝によると永正2年(1505年)の創建だそうです。現在の本殿は、平成14年に再建された建物です。

どうです! この欄干。 


美しいです!


この手摺りも、この戸板も、美しいです。


やっぱり、神社は木で造るのが正しいのです。鉄筋コンクリートでは、神様も居づらい筈です。


若い男女の二人ずれ、何を神様にお願いするのでしょうか?


女化稲荷神社、なかなかケッコーでした。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手市は毘沙門天で 海中山で 福永寺は天長3年(826年)の建立?でとても古かった!?

2008年11月14日 | お寺・神社

“小貝川・利根川沿いシリーズ”です。

利根川の土手を離れ「バス通り」を利根町方向に走り、合流地点に戻る事になります。

今回の“ぶらぶら走り”も折り返しとなります。それと、「東京芸術大学」と、“思しき”建物の確認をしたいと思います。

お寺の看板?です。この日始めての神社仏閣です。“海中山”が気になります。脇道に逸れ、見学とお詣りをします。


本堂も、ブロックも、アルミフェンスも、そして“墓地”も、新しそうです。この辺のお寺は“墓地の分譲”で潤っているようです。


“海中山”です。何故に海中なの?


本堂から続く“庫裡”も新しいのです。


本堂内部をチョットだけ覗きます。ピンボケでした。まぁ、ごく普通。


“ヨガ道場”をやっています。ヨガも仏教もインド発祥、問題は無さそうです。


海中の謂われでもと、記念碑を眺めます。


この福永寺は、天長3年の建立とあります。西暦826年です、今から1182年も前の事です。へぇー!そんなに古いお寺? 最初からこの地にあったのでしょうか。

“毘沙門天像”が海中から湧き出たようです。それで、海中山なのです。千年前はこの辺りは海だった事は考えられます。



文久2年(1862年)と、明治29年(1896年)と二度も火災で本堂が消失しています。よく燃えるお寺です。

宗派がどこにも書いてありませんが、弘法大師に触れているので真言宗なのでしょう。

取手駅前にある、あの長禅寺が承平元年(931年)ですから、この福永寺はそれよりも、百年も古いお寺なのです。

こんな処に、こんな古いお寺があったのです。でも、そう言い伝えられているだけで、確かな記録は無いのかも知れません。

お賽銭を上げ、参拝しました。

さぁ、「芸大」を目指し、通りに戻ります。


※シャットダウンは起こりませんでした。でも、まだ、油断できません。



それでは、また明日。いゃ、来週でした。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宜雲寺に一蝶そして石畳のズレは?

2008年09月05日 | お寺・神社
昨日の続きです。と、云うか、宜雲寺そして雑談と云った内容になりそうな、そんな感じがしています。

“英一蝶”、歌を詠み、絵を描き、遊郭に遊ぶお座敷芸人であり、そして、権力から睨まれ、犯罪者として囚われる。

そんな一蝶に、庶民はどんな夢を託し、何を見ていたのか? すべての遊びに通じ、すべてに一流だった封建社会の英雄・・・・・・。

世の中、適度な重石が必要? 伸し掛かり、覆い被さる重石を、知恵と技と芸で払い除ける・・・・・・。

禁を破り 掟を破り 形式を壊し 常識を壊し

建前ではなく本音で すこし斜めに 上目使いに 

真ん中ではなく端っこから 

熱くならず 静かに 世の中を渡って行く・・・・・・。

一日3合の焼酎を飲み 楽しく笑って暮らしていく

ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイフモノニ ワタシハナリタイ・・・・・・。

何ちゃってねェ。


兎に角、英一蝶は魅力的な人物のようです。そのうちに、墓参りに行って来ようと思います。港区高輪二丁目の「承教寺」にお墓があるそうです。



それで、話は当日(8/9)の宜雲寺に戻ります。二人でお墓参りに来たのです。


この本堂ですが、鉄筋コンクリート造りですが、変に木造を偽装するようでも無く、まぁ、いいと思うのです。


入り口の山門をくぐると、直ぐに右に折れ、7、8歩進んで左に折れると、目の前が開け、本堂前の庭に出ます。

狭い敷地のなかで、それなりの工夫が窺えます。左隅の石畳に注目です。


石畳の中心軸をずらしてあるのです。たぶん、“庭”と墓地に続く“通路”との境界を、この“軸ずらし”で、表現したのでしょう。



昔から造園の技法として、こういう細工があるのでしょう。日本庭園は芸が細かいのです。

それで、こんな細工に業界用語か何かで、なんと云う名称が付いているのか調べていたら、こんなモノを発見しました。

【石畳の配列軸をわずかにずらし、非対称化することで人間の行動を変化させ外部空間を動的に引き寄せる。この時の景観の動的変化は時間的連続性を持ち、刻々と変化する景観で内外空間の一体化を図っている】

スゴイ表現の文章です。これはある都市の景観を争う裁判の原告側の準備書面と云うものなのです。

裁判は、こんな言葉が法廷で行き交うのです。順調?に行くと「裁判員制度」は来年からスタートします。刑事裁判ではもっと複雑怪奇な言葉が飛び交いそうです。

暇で、好奇心旺盛な私としては、裁判員に選ばれることを切に願っているのですが、判事による最終面接で怪しい言動をして、ふるい落とされるのではと、危惧しております。

それで、お墓への道はこんな感じで、


六地蔵が、こちらと、


こちらに並んでお出迎えです。


狭い都会の墓地、びっしり並んでいます。


宜雲寺、そして、一蝶寺の謎、今回でお終いです。

それにしても、英一蝶、もっと、もっと調べてみたくなる魅力的な人物です。


それでは、また次回。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一蝶寺は宜雲寺で“英一蝶”を“片岡鶴太郎”が演じていました

2008年09月04日 | お寺・神社
昨日の続きです。

一蝶が15歳の時、一家で江戸に移住した“事件”・・・私の勝手な想像で事件としました・・・とは、何だったのか?、伊勢亀山藩で何があったのか?

想像では、何か権力闘争があったのでは、医者であった父“多賀伯庵”もその争いに巻き込まれ、そして、弾き出されてしまったのでは?

江戸に出た父の伯庵は、生涯を通して、悔やみ、嘆き、愚痴り、酒におぼれる、傷心の日々を送り、寂しくこの世を去っていた・・・・・・・。

そんな父の姿を見て、息子の一蝶は、この世での金、地位、名誉、そんな現世利益を追い求めて、あくせく生きることの、虚しさ、儚さ、バカバカしさ悟ったのでは・・・・・・・と思うのです。

かなり、これは、勝ってな想像ですが、それなりに、かなりイイ処を突いているような、そんな気がしてきました。

狩野派を2年で破門されたのは、権力に庇護された“武家好み”の作風に対して、かなり批判的な言動を吐いたり、まったく異なる“庶民好み”の作風の絵を描く、その結果として、と・・・・・・思うのです。

絵師として“多賀朝湖(たがちょうこ)”を名乗り、“暁雲(ぎょううん)の”名で俳句を詠み、“書”もかなりのものだったようです。

絵師として、俳諧師として、書家として、江戸中にその名を知られた文人だったようです。

そして、そのうえ、何と、遊郭で「幇間」をしていたのです。幇間としても、一流の芸人であったようです。

この幇間に一蝶らしさが、そして、父“伯庵”への“想い”が現れている気がするのです。

文人であり芸人。大名旗本、豪商の紀伊国屋文左衛門、そして松尾芭蕉とも交流があった一蝶。

ここまで調べたところで、一蝶の生涯を描いたドラマを製作したら、かなり面白いものができそうな気がしてきました。

そうしたら、あるドラマに一蝶が描かれていたのです。それは、NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」、1999年1月~12月放送の“赤穂浪士の討ち入り物”で、少しだけ出てくるのです。

それで、一蝶を演じていたのが、あの“片岡鶴太郎”でした。確かに、絵師、書家、芸人と来ると、それなりに、表面的に、鶴太郎なのかも知れません。


それで、本物の一蝶の方ですが、元禄6年(1693年)に入牢、罪名は不明。2ヵ月後に釈放。元禄11年(1698年)47歳の時に三宅島へ流罪。罪名は不明

11年の流刑後、57歳の1709(宝永6)年に、吉宗の死による大赦で江戸に戻り、英一蝶と改名したそうです。

この“英一蝶”の名ですが、三宅島から江戸に戻る時に、舟上で舞う一匹の蝶を見つけ、“多賀朝湖”の名を捨て、“英一蝶”となったのです。

英(はなぶさ)は母方の姓「花房」からです。ここで、父方の姓である「多賀」を捨て、父の“残像”を消し去ったのだと思います。間違いない!

それにしても、この船上のシーンは絵になります。ここで一蝶を演じるのは、鶴太郎では無理があります。それでは、誰が?と、いろいろ考えたのですが・・・・・・、浮かびません。

江戸に戻り、そして、どういう伝なのか宜雲寺で暮らすようになり、多くの作品を残したそうです。

それでは、早速、宜雲寺に行き作品を拝見して来なければと、思ったのですが、昭和二十年の“東京大空襲”で一蝶の絵はすべて焼失してしまったのでした。残念!

それでも、多数の作品が他の場所に残っているようで、私の歩き回る範囲にある、「板橋区美術館」にも、3点の所蔵されているので、近いうちに覗いてこなければと思っています。

島流し後、一蝶の時代の絵は多数残っているのですが、島流し前、朝湖の時代の絵はどうなのか良く判りませんでした。

朝湖の時代と一蝶の時代、絵に変化があったと云う説、無かったと云う説があり、どちらなのか? 気になります。

私としては、題材の選び方、描き方に変化があって当然だと思うのです。朝湖の時代より、一蝶の時代の方が人気は上がったようです。

それにしても、一蝶と云う人間は“面白い方”です。いい人を知りました。これは、墓参りの御利益です。


明日も、すこしだけ、宜雲寺の話です。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする