歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

宜雲寺で“英一蝶”に出会う

2008年09月03日 | お寺・神社
8月10日に書いた続きとなります。

宜雲寺と一蝶寺の二つの名前を持つ“謎”の解明です。



正式名称は“宜雲寺”、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院だそうです。以前は、と云っても昨日今日ではなく、元禄六年(1694年)に深川からこの地に移転したそうです。

それで、またの名を“一蝶寺”と呼ばれた理由は、“英一蝶”と云う絵師が“間借り”と云うか、“居候”と云うか、身を寄せていたので、そう呼ばれるようになったそうです。

“居候”の名前で呼ばれると云う事は、それなりの絵師だったのでしょう。時は“元禄(1688年~1704年) ”ですから、町人文化の華やかな頃です。

英一蝶(1652-1742)は、亀山藩の侍医の家に生まれ、1666年15歳のとき、家族とともに江戸へ移住したそうです。

自らの意志なのか、わけあっての遁走なのかは不明のようです。

彼の生涯を辿ってみると、父親が安定した地位を捨て、江戸の地に移り住んだ“事件”が、彼のその後の生き方を決定付けたと思うのです。

彼は、江戸で狩野派に入門したのですが、2年で破門されます。

牢獄にも入ります。罪状は不明だそうです。

島流しにもなっています。これも罪状がハッキリしないそうです。

島流しは、将軍綱吉の死により恩赦で江戸に戻ります。それから“英一蝶”を名乗ったそうです。

彼は、絵師として、徘人として、著名であり、また、大名、旗本相手の“幇間”としても著名だったそうです。


ここで、私の大胆な推理を発表します。

先ずは、入獄や島流しの原因です。

これは、彼のすべての仕事において、武家社会の風紀を乱し、秩序を乱し、権力を“芸”で嘲笑ったからでは・・・・・・と、思うのです。

このままでは、徳川幕府の“権威・威信”が脅かさると、権力が察知し葬ろうとしたのです。

それでは、反権力の想いをいつの頃からか、何故?どうして?抱くようになったのか?

それは、彼が15歳の時、一家で江戸に移住した“事件”の中に隠されているものと考えます。

今日は、ここまでとします。


それでは、また明日。




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北野神社“元はゴチャゴチャ”

2008年07月22日 | お寺・神社
先週の続きです。

“北野神社”にお詣りします。「北野」と云えば、天神さまで、菅原道真で、学問の神様です。


奥に見える鳥居の手前で、微妙に「正中線」から参道をずらしています。知らない人は、本殿から真っ直ぐに石畳の参道が伸びて居るようにみえます。


この小学生、ここが西武池袋線の大泉学園駅であること、そして、その服装の様子から推察して、たぶん“立教小学校”の生徒でしょう。


この少年、しっかりと、参拝の前にお浄めを行い、本殿では“二礼二拍手一礼”で参拝していました。

かなり、慣れた様子です。登下校の際は必ずお詣りをしている雰囲気でした。でも、しかし、この少年の通っている学校は“立教”です。


立教と云えば、キリスト教を建学の精神とした学校です。厳しい受験競争を勝ち残る為には、イエスキリスト様だけでは、不安なのでしょうか?

ここは、一つ、学問の神様“菅原道真公”のお力も、お借りして・・・・・・、なのでしょうか?



何やら、故事来歴が記されています。「三十番神」何て初めて聞きました。昔は兎に角、神も仏も一緒だったのです。

明治に入って、神も仏もゴチャゴチャの“習合・混淆”を政府が許さなかったのです。神も仏も政府の“命令”で、スッキリ、クッキリ離されたのです。

そんな、こんなの渦中で、三十人の神々より、天神様を選択されたようです。

とても、ふつうな「阿」と、


とても、ふつうな「吽」です。


玉石が敷かれ、きれいに掃き清められています。


参拝は先ず、お浄めから、


この、和やかな少年?の顔、いつか、何処かで、見たような?


学問とはご縁が有りませんが、一応お詣りします。


ふつうの鈴。


ふつうの木鼻の彫り物。



棕櫚は植えたのでしょうか、自然に生えたのでしょうか。


回廊に囲まれています。


これで、北野神社の参拝、見学は、終わります。


それにしても、昨日から、とても暑いです。このところ毎日、10時と3時に、手動式かき氷製造器で、かき氷を食べています。

携帯からの写真添付をテストした“テスト2”に写っていたヤツです。ホームセンターで780円で買ってきました。もう、充分、元が取れました。


それでは、また明日。


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平井聖天と金太郎煎餅

2008年07月03日 | お寺・神社
一昨日の続きです。

外回りの見学を終わり、いよいよ、本堂内部の見学です。広く、高く、重厚な造りです。

正面に立ち、内部をじっくり鑑賞します。


暫くして、掃除機の音が響いてきました。これで、3度目でしょうか? 私がお詣りする時間は、掃除に出くわす確率がかなり高いのです。


見た目の雰囲気、年格好、動作から受ける印象は、住職さんの様な気がします。

本堂、境内を清める事は、仏様へ、そして、お詣り来られる信者の方への、最低限のお勤めである・・・・・・。

何て云う様な事を、何処かの、寺の、お妨さんが云っていたような気がします。兎に角、環境の清浄を保つ事から信仰は始まるようです。

清浄な環境に、清浄な心、汚れた処は、仏様も、神様も、お嫌いだそうです。

でも、しかし、製造業の現場に良く“整理、整頓、清潔、清掃、躾け”何て、ポスターが貼ってあります。所謂“5S”と云うヤツです。

これは、“生産性の向上=利益率の向上”と云う、現世利益を求めた浅ましい魂胆の表現だと思うのです。ある意味で、それなりに、これも“信仰の様なもの”かも知れません。

ここは、俗世間から離れた空間です。雑念から離れて宗教的雰囲気に浸ります。


本堂から、聖天堂を望みます。


こちらは、幼稚園です。かなり大きく、体育館のような建物です。


園児達が遊んでいます。可愛い声がいっぱい聞こえてきます。


最新モデルのベンツです。お寺に坊さんにベンツ、良くある組み合わせです。財務状態はしっかりしているようです。


可愛い“園バス”です。孫も毎日こんなバスに乗って幼稚園に通っているのです。


これで、平井聖天、燈明寺の参拝、見学もお終いです。帰りに改めて本堂を見上げました。


本当に、こんな平井駅の近所に、こんな立派お寺が、これまでまったく知りませんでした。新しい発見でした。

外に出ると、こんな処に、こんな“お煎餅屋さん”です。


田尻商店とあり、何故か“金太郎煎餅”です。

平井聖天、燈明寺の門前です、その辺に“あやかった”名称を付けたらどうか? と思うのです。

平井の聖天様のお帰りには、名代の“聖天煎餅”とか、“歓喜煎餅”とか、どんなもんでしょうか?

聖天煎餅はチョット、あれですから、“美味しくて喜びあまり涙がでる”と云うこじつけで、“歓喜煎餅”の方が、良いと思います。

     

こんな見かけの店(失礼)でも、インターネット販売もやっているのです。写真のザラメ煎餅一枚50円が、店の一押しのようです。

「ザラメ煎餅」を「歓喜煎餅」として売り出すと、いけそうな気がしてきました。甘辛いザラメ煎餅ですから、「歓喜」に繋がる名称だと思います。

勝手な事を書いてしまいました。「金太郎煎餅」と云う名称には、それなりに、きっと、深い愛情と、伝統と、思い入れが、深く、深く、染み込んでいるのでしょう。

そろそろ、お腹が空いてきました。平井の駅前辺りでお昼を食べようと思います。

それでは、また明日。


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平井聖天燈明寺で灰汁抜け!垢抜け!本堂の腰板!

2008年07月01日 | お寺・神社

昨日の続きです。

いよいよ本堂にお詣りと思って、辺りを見回したのですが、コンクリートの台座の上にあがる階段が、正面からは見当たらないのです。

もしかして、通りすがり人間は本堂に直接参拝する事は無理なのかと思いつつ、本堂を見上げていると、作務衣姿の若いお坊さんが現れました。

お坊さんは、幼稚園の向かって歩いて行くところでした。


「スイマセン。本堂に上がっても宜しいでしょうか?」

「どうぞ、お詣り下さい。後ろに階段がありますので、そちらからどうぞ」

と告げ、立ち止まる事も、こちらに視線を向ける事もなく、足早に幼稚園に向かって通り過ぎて行きました。

「はい。ありがとうございます」と、お坊さんの背中に向かってお礼を致しました。師走でもないのに、かなり忙しいようです。

裏に回ると階段があり、登りながら辺りの景色を眺めると、お寺の直ぐ裏を“旧中川”が狭い道路を隔てて流れているのです。


嵩上げをしていなければ、直ぐ水没の危機に瀕する立地条件なのです。

本堂は木造白漆喰。


飾り金具と云い、柱と云い、板と云い、陽射しと、風雪に晒されて変化、変色、腐食、退色して、かなり“劣化”が進んでいます。



劣化と云うよりも、枯れてきたと表現した方が適切かも知れません。真っ白な漆喰と“黒ずん”だ木部との調和が“渋い”です。

こちらは南に面した本堂正面です。


材質は同じ筈ですが、“灰汁抜け”したようで、さっぱり爽やかです。木目に味わいが出ています。

人も、適度に灰汁が抜けると味わいが出てきます。灰汁が強い人間は「あくどい」のです。

風当たり、雨当たり、陽当たり、の差が出ているのでしょう。南側は濡れても直ぐに乾き、他の面はいつまでも湿っている事が原因と思われます。


“灰汁抜け”と書いたところで、何故か突然、“灰汁”気になってしまい、辞書を引いてみました。

【灰汁】
灰を水に浸して取った上澄みの水。炭酸・アルカリ等を含み、汚れの洗い落し、染色などに用いる。

植物中に含まれる渋み、えぐみなどのある成分。「わらびの―を抜く」

肉などの煮汁の表面に浮ぶ白い泡状のもの。

人の性質や文章などに感じられる癖や個性が強すぎてなじみにくい性質。「―の強い人」

○灰汁が抜ける
人の性格・物腰・容姿などに、いやみやあくどさがなくなる。洗練される。

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

と、云う事です。

「灰汁が抜ける」から。“垢抜ける”を思いだしました。そこで、また辞書を引きます。

【垢】
活力を失った皮膚の表皮や脂・汗・ほこりの混合したもの。比喩的に、けがれ、よごれ。

【垢抜け】
洗練されること。素人くさくなくなること。野暮くささを脱していること。「都会風に―のした女」「―した腕前を示す」

【垢抜ける】
(垢がぬけてさっぱりとしている意から) 気がきいている。素人臭くない。洒脱しやだつである。いきである。誹風柳多留129「―・けた浅黄行水聞わける」。「―・けた身なり」

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]



灰汁は内部から発生するので、「抜ける」との表現は納得しますが、垢は表面の汚れですから、「抜ける」よりも、「取れる」の表現が適切だと思うのです。

今まで、「あか抜けている」は、「灰汁」が抜けている事と理解していました。

“灰汁抜け”し、さらに“垢抜け”ている、そんな状態は、何だか、その、チョット・・・・・・、と思うのです。


【正面の折り畳式扉は、日中は畳んでいる為に灰汁抜けしていません】

灰汁も、垢も、すべて抜けきってしまったら、やっぱり、これは、相当に詰まらない人に思えます。

やはり、適度な“灰汁と垢”は、それなりに、個性であり、魅力であると、そう思うのです。

改めて、“灰汁抜けした腰板”を眺め、思いを巡らしてしまいました。

これから、いよいよ、本堂の内部を見学します。


それでは、また明日。


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“関東三大聖天”で“日本三大聖天”は?

2008年06月30日 | お寺・神社
先週の続きです。

先ずは、高くて大きな本堂にお参りします。首を思いっきり後ろに反らして見上げます。兎に角、デカイです。



震災後に建てられた本堂を、昭和40年代にコンクリートの台座に乗せたものと推測しますが、嵩上げ工事はかなり“見物”だった筈です。

7~8メートルの嵩上げですから、一日10数㎝として、3ヶ月ぐらいは?かかったかも知れません。いゃ。もしかして、一日30㎝で1ヶ月くらいかなァ~?

油圧ジャッキで持ち上げ、枕木を入れ、また持ち上げ、枕木を入れる。延々とこれを繰り返す。

こんな工事の光景を、時々テレビで採り上げることがあります。こんな工事をする業者がけっこうあるようです。

曳家(ひきや)、揚方(あげかた)、嵩上げ(かさあげ)等と、その業界では呼ぶそうです。

まぁ。兎に角、見上げたものです。


本堂の見学は後で“じっくり”行いたいと思います。先ずは、山門から正面に位置する“聖天堂”を参拝・見学します。

こちらも、本堂と同じ高さに嵩上げされています。


境内の案内板にあったように、平井聖天は“関東三大聖天”だそうです。


“聖天”と云う神様?を始めて知りました。除災・富貴・夫婦和合・子宝の功徳ある神様のようです。

昔はヒンズー教の神様でしたが、いつの間にか仏教の方に変わられたようです。正式には、“大聖歓喜天”と云うそうです。

歓喜で、夫婦和合で、子宝で、何だかとっても親しみ易そうです。

関東三大聖天とくれば、日本三大聖天は?

知りたくなって調べたところ、そのような表現を使っているのは、「wikipedia」以外に2~3のサイトしかありませんでした。あまり使われないようです。

それで、「wikipedia」に依る、“日本三大聖天”ですが、一つ目が「浅草の待乳山聖天」、二つ目が「奈良の生駒聖天」、この二つ目までは「確定」だそうです。

残りの三つ目が、聖天マニア?、聖天界?、で大きく意見が分かれ、それぞれの社会的、歴史的、宗教的な評価基準と、そして、「好み」により、“以下”のどれかを加えるそうです。

“以下”の三番手を争って?いるのが、熊谷市の“妻沼聖天”、静岡県の“足柄聖天”、桑名市の“桑名聖天”、兵庫県豊岡市の“豊岡聖天”たそうです。

しかし、こんなこと、何処の、誰が、どうやって決めるのでしょうかね。

まぁ。兎に角、“夫婦和合”をお祈り致しました。


山門の方向に振り返ります。真っ直ぐ先に平井駅があります。


隣の諏訪神社。


裏手は幼稚園。


聖天越しの本堂。


いい眺めです。


立派な鯱です。


次は、いよいよ、本堂の見学です。


それでは、また明日。


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平井聖天燈明寺の茶室は何処に?

2008年06月27日 | お寺・神社
昨日の続きです。

諏訪神社を後に、大屋根を目指します。


この日、二つ目の使命である“燈明寺”に到着です。事前の予想とは大違いの大きな“お寺さん”です。


先ずは、塀越しに眺めます。大きくて立派な本堂です。


山門には石造りの仁王様です。


お二人供に、筋骨隆々の大男ではなく、小柄で堅太りタイプの金剛力士です。



それではいよいよ、仁王門をくぐり境内に入ります。


直ぐに眼に付いたのはこの座像です。これまでの経験から、この寺に一番貢献した住職の方と推測します。


いろいろな石像が並んでいます。


石像の傍らに2枚の案内板があります。


木製の案内板に“此の茶室は・・・”とあるのですが、辺りをいくら探しても「此の茶室」と思われる建物は見当たらないのです。


伊藤左千夫が設計して、正岡子規も遊びに来たと云う茶室は何処にあるのでしょうか? それにしても、左千夫が茶室の設計もしていたのには驚きです。

後で判ったのですが、この山門越しに見える、左手の建物が「茶室」らしいのです。しかし、茶室の説明板は向かい側に立てられていたのです。


何故か?建物側に無く、それなのに「此の茶室は・・・」と表記されているのです。「此の」とあれば、その背後か近辺を指す言葉です。

茶室と案内板の位置関係から、敢えて云うならば、「彼の茶室・・・」と表記すべきです。ホントは茶室の前に案内板を立てるべきです。

それにしても、この建物、如何にも案内所的、受付的な外観でした。一部改築されたように見受けられます。

こちらは江戸川区教育委員会が立てた案内板です。


【平井聖天(燈見寺)】と表記されています。「平井聖天」がメインのようです。灯明寺は「新義真言宗」とあります。

調べてみたら、真言宗には「古義」と「新義」があり、それぞれが、いろいろな宗派に分かれているのでした。

“古義真言宗”には、醍醐派、泉涌寺派、御室派、山階派、大覚寺派、善通寺派、東寺派があり。

“新義真言宗”には、豊山派、智山派があるそうです。しかし、まぁ、いろいろあるものです。これでは、ホントに、

『お釈迦様でも、あッ、気が付くめェ~』と、思うのです。

本堂です。大きくて、立派で、美しい建物です。


関東大震災後、26代目の住職、“関澄道さん”の時代に建てられたようです。入り口の座像はこの方のようです。


良く見ると、木造の本堂が、鉄筋コンクリートの台座の上に乗っかっています。昭和40年代の地盤沈下が騒がれた頃、改修工事を行ったものと思います。

台座で嵩上げされた結果、建物の高さが増し、その偉容も増したようです。

“高くて、大きい”と、人は見上げることになります。見上げると、敬う気持ちが自然に生まれるようです。

“高くて、大きい”ことは、宗教にとって必要条件のようです。

これから、じっくり、見学させて頂きます。

それでは、また。


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平井“諏訪神社の富士塚”

2008年06月26日 | お寺・神社
昨日の続きです。

“東大寺大仏殿”のような大屋根に驚き、興奮しながら大屋根を見据えて歩いていると、手前の処で鳥居を見つけました。

素通りすることはできません。兎に角、覗いて見る事にしました。諏訪神社とあります。


それなりに、なかなかの神社です。奥に、目指す大屋根のお寺が見えます。


この諏訪神社は、享保年間(1716年~1736年)の創建だそうです。

“富士塚”がありました。


富士塚は江戸時代に盛んに造られたようですが、ここの富士塚は大正9年に造られたと有ります。かなり新しいものです。


小御嶽神社が祀られています。


富士塚の必需品である“富士山の溶岩”です。これってホントに富士山から運んできたのでしょうか? 

いゃ。神様を疑ってはいけません、罰が当たります。


もしかして、昔は“富士塚”を専門に扱う、造営業者があったかも知れません。

本殿は残念ながら、鉄筋コンクリート製です。


キンキラキンに、極彩色の塗装も日本です。



この際、狛犬も極彩色で派手に決めて見たらと思うのですが、狛犬は本殿と異なり、かなり年代が経っているようです。


本殿の内部をガラス越しに覗いたのですが、神社と云うよりも、お寺の本堂に見えます。神社は質素で自然な白木造りが似合います。


どうですか?この写真、なかなかでしョ! どう見ても、千葉の匂いが漂う総武線平井駅の近所とは思えません。


奈良の香りがしてきます。


諏訪神社には失礼ですが、早く、隣に行きたくなりました。


それでは、また明日。


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妙光寺“文六さんの日蓮像は?”

2008年06月25日 | お寺・神社
昨日の続きです。

妙光寺に到着しました。

どんな処にある、どんなお寺か、楽しみだったのですが、こんな処にある、こんなお寺でした。

“こぢんまり”として、手入れの行き届いた、なかなかいいお寺です。周囲の町並みも“こぢんまり”です。



この墓石のような石柱は、いったい何でしょうか?
 

慶長3年の創建ですから、今から410年前です。元禄年間に津波の被害を受けたようです。この辺りは海に近かったと云うか、海岸淵だったかもしれません。


やっぱり、ここも、“0メートル地帯”の影響を受けているのです。昭和40年代は地盤沈下が騒がれた頃です。

平井橋周辺は「海面下8メートル」だったそうです。あれから、地盤沈下はどうなったのでしょうか? 

地下水の汲み上げは規制されたようですから、8メートルで止まっているのでしょうか?

水害防止で持ち上げた本堂です。


庫裏の方は、持ち上げていません。いざと云う時は2階に避難するのでしょう。


階段を登り参拝しました。質素ですが“きちん”として清潔で、気持ちの良い向拝です。


後で判ったのですが、先ほどの「案内板」には、採り上げてありませんでしたが、『武江年表』の中に、この寺に関する記述があったのです。

「武江」は江戸を意味します。あの有名な『江戸名所図会』の著者でもある、“斎藤 月岑”(さいとう げっしん 文化元年1804年~明治11年1878年)が書いた江戸の年表です。

それで、その年表に、

【文化4年・1807年6月20日、中平井村の百姓文六、蜆取りの際に日蓮上人の像を得、平井妙光寺に収める】

と、記されているのです。文六さんの拾った日蓮上人の像は、それからいったい、どうなったのでしょうか? 

武江年表の信憑性が疑わしいのか、それとも、日蓮上人だと称する像が、文六さん以外の誰が見ても、日蓮上人には見えない、怪しい代物だったのか?

寺に当時の記録は残っているのか? いないのか? それとも、秘仏として、極々限られた関係者だけに伝わっているのか?

謎は暫く残しておいた方がよさそうです。寺に電話して聞けば、直ぐ謎は解明されるでしょうが、それでは詰まらないのです。

たぶん、当時の記録も、日蓮上人の像も何も無く、まったく判りませんとの返答が推測されます。


本堂脇の供養塔? まだ新しいです。
 

裏は墓地になっています。


江戸川区登録有形文化財である“田口初右衛門筆子塚”見るのを忘れました。


妙光寺を後に、次のお寺を目指します。


通りに戻り、一つ先の交差点を左折します。


交差点で、左手前方を望むと、何と、何と、驚きです! こんな処に、東大寺大仏殿のような大屋根が見えたのです。


目指すお寺の本堂に間違いありません。


予想外のお寺のようです。楽しみです。


それでは、また明日。


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“勝守り” で評判?“亀戸香取神社”

2008年06月16日 | お寺・神社
先週の続きです。

“浅草通り”を東武亀戸線「東あづま駅」に向かって歩いています。

この辺り、地理的には東京の外れと云うほどでも無いのですが、何故か私のなかでは“千葉の匂い”が漂い始めます。

JR総武線の駅で云えば、秋葉原、浅草橋、“隅田川”を渡って両国、錦糸町、亀戸、“旧中川”を渡って平井、“荒川”を渡って新小岩、“新中川”を渡って小岩、“江戸川”を渡って千葉県の市川となります。

ここは、駅で云えば亀戸付近なのですが、これまでの感覚として、錦糸町あたりから“千葉”の匂いが漂い始めます。総武線が千葉の匂いを運んでいるようです。

下町には“似つかわしくない”花王の大きな工場ビル。


浅草通りと明治通りが交差する“福神橋交差点” 中途半端な車の往来、中途半端な人通り、中途半端で地味な町並み。


地味な町並みを一層地味にしている“田中ロープ株式会社” ロープ屋さんのイメージは、ホントに裏方、地味、堅実、確実、真面目、そんな感じがします。

“田中ロープ”って昔、エレベーター関係の仕事をしている時に聞いたような気がしてきました。

交差点を右折して、明治通りを亀戸方向に歩いていると、


ありました! 始めて見ました! “オリンピックを東京に2016年!”の横断幕。

「東京都水道局亀戸増圧ポンプ所」の柵では、背景が地味です。とても寂しげに見えます。それにしても、“石原オリンピック”に都民は賛成なんですかね?


確かにオリンピックは観ていて面白いです。でも、東京でなくても、シカゴでも、リオでも、マドリードでも、プラハでも、何処でやっても面白いのです。

他の都市でやれば、開催に税金を使わないで済みます。経済効果を云うならば、オリンピックでなくても、いろいろあるはずです。

神社が見えてきました歩道橋を渡ります。


“スポーツの神”香取神社? テレビで評判“勝守り”?


テレビで評判を謳っています。どんなモンなのか覗いてみます。

普通の境内です。それなりに整備されています。


玉踏みつけ狛犬に、


子供踏みつけ狛犬。


狛犬の写真を撮っていると、上品で、昔は“美人だった”と思われる、素敵なお婆ちゃんに、微笑み小首を傾げる様な挨拶を受けました。

私も、口元で笑顔を作り軽く会釈を返します。一人でお参りする後ろ姿は寂しそうでした。この境内に何か想い出があるのでしょうか。


正面の鳥居から本殿への石畳。しっかり、神の正中線から曲げています。人はこの正中線の上を歩いてはいけないのです。


テレビで評判“勝守り”の“スポーツの神”香取神社をもう少し見学します。


それでは、また明日。


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牛久市“得月院”と“小川芋銭”と“宇宙人”

2008年05月02日 | お寺・神社
先日、牛久に行って来ました。

“小川芋銭”の雲魚亭、芋銭のお墓のある“得月院”を見物してきました。“イモ・ゼニ”と書いて“ウセン”と読みます。

東京からこちらに移って、いろいろ歩き回り、雲魚亭には何度が訪れています。始めて、案内看板に書かれた“小川芋銭”の文字を見て、

“い・も・ぜ・に? いくら何でも、そうは?、読まないよなァ~”と思ったのですが、“芋”を“う”と読むのを知りませんでした。

兎に角、こちらに来るまで“小川芋銭”の名前はまったく持って知りませんでした。教科書とかクイズとかに出てくる名前ではありません。

私の“有名故人独自ランキング”としては“青木昆陽”の一つ下に位置します。

先ずは、道順から得月院を参拝します。寺の構えとしてはイイ感じです。残念なのが本堂の屋根です。

茅葺き屋根にトタンを被せ、朱色のペンキが塗ってあるのです。これは、明らかに財政上の理由からでしょう。


門前の案内板です。一に芋銭、二に榧、三に五輪塔です。芋銭が一番の売りになっております。


無宗派のようで、本堂の看板には「得月禅院」と書かれています。禅寺のようです。


本堂から山門の眺めもいいです。


“汚れ”が付着し、一部に“曇りガラス化”が進行した“透明ガラス”越しに“密かに撮った”本堂の内部です。ふつうの田舎の、ふつうの本堂です。


これが2番目の売り“榧”です。太く、高く、立派で、確かに四、五百年は生きているようです。


墓地に居た三毛猫です。とても愛想が良く、「ミャーゴ」と声を掛けると、こちらを向いて「ミャーゴ」と返事をしてくれました。


こちらが、3番目の売り「五輪塔」です。“まぁ。そうか”と云った処です。


これが、得月院の一番の売り「小川芋銭」の墓です。墓に刻まれた“小川芋銭墓”の書体は何処かで見たような、律儀で、優しく、ゆったりとして、懐かしい感じがします。


芋銭の戒名 “潮光院清淵芋銭大居士”
        
俗名「小川茂吉」。昭和13年に71歳で亡くなっています。奥さんの「こう」は昭和41年91歳で亡くなりました。女性は長生きです。

奥さんは旦那より13歳年下だったようです。奥さんは丈夫で働き者で、芋銭は虚弱体質だったそうです。

画号の『芋銭』は、『自分の絵が芋を買う銭(金)になれば』という思いによるとの説明を何処かで見ました。

得月院から雲魚亭までは車で5分、歩いて7分ぐらいです。細くてくねくねの道は車では大変なのです。ホントに右折、左折が、連続する道です。

対向車とのすれ違いはかなり困難です、片方が少し広い処を見つけ待機していなければなりません。

得月院の駐車場(20~30台は駐車できそうです。満車になるほど観光客は来ません)に車を置いて歩いた方が賢明です。

雲魚亭です。


3組ほどの見学者が居りました。ここはいつ来ても静かです。来訪者が少ないのです。

ベンチに腰掛け、弁当を食べるのも良いかもしれません。私も以前に二人で来た時は、ここで昼食を摂りました。

     【向かい側が牛久沼方向です】

牛久沼は庭先の林の先なのですが、樹が繁り沼を見渡すことはできません。眼を凝らして見つめれば、梢えの隙間から水面がのぞく程度です。

七重、八重、花は咲けども“山吹”の・・・・・・。綺麗です! 爽やかです! 見事な山吹色です。


芋銭を詠った歌碑です。これは数年前?、十数年前? だったか、たまたま行ったその時に、除幕式に接近遭遇したのでした。


雲魚亭から“カッパの碑”へ続く路です。夏は涼しくて快適ですよ。


芋銭が描いた“カッパの絵”を彫ったものです。芋銭と云えば河童です。河童に“特化”したことで、後世にその名を残したのです。

“河童の芋銭”


ここに刻まれている書ですが、

『誰識古人画龍心』と書いてあり、描いた絵に書き入れる「画賛」です。

【昔は龍を画いて宇宙の尊厳を表したように,私は河童を画いて宇宙太陽系の偉大さに感激し,その不可思議さ大自然の大切さを世に訴えようとしているが,誰かこれを理解してくれる人がいるだろうか】

と、云うような意味なのだそうです。龍で「宇宙の尊厳」は、それなりに理解できるのですが、河童となると・・・・・・世間では、なかな理解し難いところがあります。

でも、しかし、今では、龍よりも河童の方が、宇宙と繋がりをイメージするのは容易だと思います。

河童の“地球外知的生物説”とか“宇宙人説”は、“ある層”に“それなりに”受け入れられています。

背中に背負っているのは「甲羅」ではなく、「生命維持装置」の可能性があります?

     【アヤメ園近く三日月橋の河童】


芋銭も“河童宇宙人説”を密かに抱いていたのかも知れません。こんなことを想像すると、芋銭がぐっと身近に感じてきました。

兎に角です。得月院から雲魚亭、そして、牛久アヤメ園コースはおすすめです。雲魚亭から徒歩10分くらいです。

アヤメの季節には少し早いです。

     【牛久観光アヤメ園】

今週は、我孫子シリーズを中断して、ゴールデンウィーク特集でした。

来週からはシリーズ再開です。

それでは、また来週。


コメント
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