この手の作品を観に行く人は、何を期待して行くのでしょうね。
何て、他人事のようですが、わたしがこの作品を観に行った動機は、何となく、映画を映画館で観たくなったからです。
そして、前日にネットで上演作品と、上映時間を見ていたら、是枝監督で、綾瀬はるかで、11時25分からで、これが丁度いいとなったのです。
是枝作品は、前回の、何だったっけ?子供の取り違えの?・・・・・・・。そうでした!『そして父になる』でした。あの時は、見終わって、“それらしく的”で、消化不良的で、何ともつまらん作品でした。
それで、この日、他の上映作品はオジサンには関係無い作品ばかりで、オジサン的な作品は『海街diary』だけでした。と、云う訳で、かなり、かなり、消去法的選択の結果でした。
『海街diary』のタイトルを見たのもその時が初めて、テレビで作品の広告を見た記憶もありません。まあ、最近はテレビはあまり見ないし、特にフジテレビ(制作に一枚噛んでいる)はまったく見ません。
それで、当日は日曜日で観客は10名ほどで、一日一回だけの上映でした。この手の作品は、“綾瀬はるか”をもってしても、この程度の観客動員数なのでした。
それで、パンフレットを読んでみて、えッ!そうだったの!、そんなの見ていて分かるか?的で、やっぱり作品の意図と、一般人の見方はすれ違うようです。
それなりの批評家にも評価され、それでいて一般人も分かり、楽しませる作品、大衆娯楽作品であって、芸術作品なんて、そんな事は、とても、とても、いまでは無理難題?
昔の、小津や成瀬の作品も、当時は娯楽作品であって、後の批評家が、いろいろと作り手の意図を、拘りを、読み取り、高く評価したものと考えますが、ホント!それって!一回見ただけで分かったの?
やっぱり、映画も、小説も、何度も、何度も、見直し、読み返して、理解するものもの?
1回目は、それなりに感覚的に、第一印象的に、さらりと流し見?して、よかったら、何度も、何度も、見直して、味わい尽くし、しゃぶり尽くして、楽しむ?
そうか、そうか、そう言うことなんだ。と、只今、ひとり納得。
そう言うことで、この作品は、何度も、何度も、くり返し観たい作品なのです。見直して、味わい尽くし、しゃぶり尽くすことのできる、いろいろと、いっぱい詰まった作品です。
何か、結論めいて、これでお終い的ですが、まだ話しは続くのです。
それで、パンフレットで是枝監督は作品の意図を、
『この作品は父親やすずの母親、三姉妹のおばあちゃんといった、いなくなった人たちをめぐる話しとしてできあがっています。回想シーンではなく、仕草やセリフ(しらすトーストもそうですね)などを通じて、いなくなった人たちの痕跡を表現し、いなくなった人への想いが彼女たちにどう影響しているかを描こうと考えました。アジフライのエピソードを入れたのは、消えていくものもあれば受け継がれていくものもあるということを表したかったからです。そのように未来の時間まで視野に入っているところがこの作品の大事な部分だと思います』
と述べています。
それで、この“回想シーンではなく、仕草やセリフ(しらすトーストもそうですね)などを通じて”と云うところですが、「仕草やセリフ」と云うよりも、私としては、仕草やセリフ、そして、そして、“食い物”を通してと、強く言及される、と、思っていたのです。
いなくなった人の想い出は、わたしにとって、なんと云っても“食い物”と繋がっているのです。そして、作品でも、そんなシーンが多くあり、それなりに“食い物”に拘っていると思っていたら、それほどでもなかったようです。
やっぱり、当日、昼飯前で腹を空かして観ていたのがいけなかった?
それと、“アジフライのエピソードを入れたのは、消えていくものもあれば受け継がれていくものもあるということを表したかったからです”と云ってるのですが、そう云うシーン、そう云うセリフがまったく、記憶に、印象に、残っていません。
それと、次女のベッドシーンから始まったのは、“もちろん全体が死で覆われた作品なので逆にベッドシーンからはじめたかったこともありますが、これが、彼女たちの居場所にかんする物語だからです”は、よく分かりません。
わたし的には、長澤まさみの足の爪のアップに、ペイントに、それなりの伏線が、と、思っていたのですが、関係無かったのです。でも、とても意味ありげに描かれていたのですが・・・。わたしの見間違い、思い違いでした。
全体が死で覆われている印象も抱きませんでしたし、それと、法事や葬式やお墓は好きだし、居場所なんてあまり気にすることなく生きてきたし、よく判らないのです。
自分の居場所とか、生きることの意味とか、ホント、あまり考えないのです。いい加減で、お気楽で、♪そのうちどうにかな~るだろう~的人間なのです。
それで、父も母も、他に好きな人をつくり、娘を捨て、家族を捨て、家を捨て、出て行った理由は特に語られていません。その理由が三姉妹の生き方に大きく影響したと思うのですが、理由それ自体に重きを置いていないようです。
と、まあ、今日はここまで。
兎に角、それでも“海街diary”イイ作品です。
皆さん、観に行きましょう。もう、やってない?
それでは、また。
何て、他人事のようですが、わたしがこの作品を観に行った動機は、何となく、映画を映画館で観たくなったからです。
そして、前日にネットで上演作品と、上映時間を見ていたら、是枝監督で、綾瀬はるかで、11時25分からで、これが丁度いいとなったのです。
是枝作品は、前回の、何だったっけ?子供の取り違えの?・・・・・・・。そうでした!『そして父になる』でした。あの時は、見終わって、“それらしく的”で、消化不良的で、何ともつまらん作品でした。
それで、この日、他の上映作品はオジサンには関係無い作品ばかりで、オジサン的な作品は『海街diary』だけでした。と、云う訳で、かなり、かなり、消去法的選択の結果でした。
『海街diary』のタイトルを見たのもその時が初めて、テレビで作品の広告を見た記憶もありません。まあ、最近はテレビはあまり見ないし、特にフジテレビ(制作に一枚噛んでいる)はまったく見ません。
それで、当日は日曜日で観客は10名ほどで、一日一回だけの上映でした。この手の作品は、“綾瀬はるか”をもってしても、この程度の観客動員数なのでした。
それで、パンフレットを読んでみて、えッ!そうだったの!、そんなの見ていて分かるか?的で、やっぱり作品の意図と、一般人の見方はすれ違うようです。
それなりの批評家にも評価され、それでいて一般人も分かり、楽しませる作品、大衆娯楽作品であって、芸術作品なんて、そんな事は、とても、とても、いまでは無理難題?
昔の、小津や成瀬の作品も、当時は娯楽作品であって、後の批評家が、いろいろと作り手の意図を、拘りを、読み取り、高く評価したものと考えますが、ホント!それって!一回見ただけで分かったの?
やっぱり、映画も、小説も、何度も、何度も、見直し、読み返して、理解するものもの?
1回目は、それなりに感覚的に、第一印象的に、さらりと流し見?して、よかったら、何度も、何度も、見直して、味わい尽くし、しゃぶり尽くして、楽しむ?
そうか、そうか、そう言うことなんだ。と、只今、ひとり納得。
そう言うことで、この作品は、何度も、何度も、くり返し観たい作品なのです。見直して、味わい尽くし、しゃぶり尽くすことのできる、いろいろと、いっぱい詰まった作品です。
何か、結論めいて、これでお終い的ですが、まだ話しは続くのです。
それで、パンフレットで是枝監督は作品の意図を、
『この作品は父親やすずの母親、三姉妹のおばあちゃんといった、いなくなった人たちをめぐる話しとしてできあがっています。回想シーンではなく、仕草やセリフ(しらすトーストもそうですね)などを通じて、いなくなった人たちの痕跡を表現し、いなくなった人への想いが彼女たちにどう影響しているかを描こうと考えました。アジフライのエピソードを入れたのは、消えていくものもあれば受け継がれていくものもあるということを表したかったからです。そのように未来の時間まで視野に入っているところがこの作品の大事な部分だと思います』
と述べています。
それで、この“回想シーンではなく、仕草やセリフ(しらすトーストもそうですね)などを通じて”と云うところですが、「仕草やセリフ」と云うよりも、私としては、仕草やセリフ、そして、そして、“食い物”を通してと、強く言及される、と、思っていたのです。
いなくなった人の想い出は、わたしにとって、なんと云っても“食い物”と繋がっているのです。そして、作品でも、そんなシーンが多くあり、それなりに“食い物”に拘っていると思っていたら、それほどでもなかったようです。
やっぱり、当日、昼飯前で腹を空かして観ていたのがいけなかった?
それと、“アジフライのエピソードを入れたのは、消えていくものもあれば受け継がれていくものもあるということを表したかったからです”と云ってるのですが、そう云うシーン、そう云うセリフがまったく、記憶に、印象に、残っていません。
それと、次女のベッドシーンから始まったのは、“もちろん全体が死で覆われた作品なので逆にベッドシーンからはじめたかったこともありますが、これが、彼女たちの居場所にかんする物語だからです”は、よく分かりません。
わたし的には、長澤まさみの足の爪のアップに、ペイントに、それなりの伏線が、と、思っていたのですが、関係無かったのです。でも、とても意味ありげに描かれていたのですが・・・。わたしの見間違い、思い違いでした。
全体が死で覆われている印象も抱きませんでしたし、それと、法事や葬式やお墓は好きだし、居場所なんてあまり気にすることなく生きてきたし、よく判らないのです。
自分の居場所とか、生きることの意味とか、ホント、あまり考えないのです。いい加減で、お気楽で、♪そのうちどうにかな~るだろう~的人間なのです。
それで、父も母も、他に好きな人をつくり、娘を捨て、家族を捨て、家を捨て、出て行った理由は特に語られていません。その理由が三姉妹の生き方に大きく影響したと思うのですが、理由それ自体に重きを置いていないようです。
と、まあ、今日はここまで。
兎に角、それでも“海街diary”イイ作品です。
皆さん、観に行きましょう。もう、やってない?
それでは、また。