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⑪『どうする家康』"伊賀を越え" は〈神君家康の物語作り〉で真実は海上コース!

2023年08月09日 | NHK大河ドラマ

"どうする家康"です。

本日は、『伊賀を越えろ』の回となります。

家康の話も、本日で連続11回目となり、そろそろ飽きてきました。

何を隠そう、私、とても、飽き易い質なのです。長続きしないのです、熱中しないのです、諦めが早いのです、極めることができないのです。

そういう質の人間には、世を極め、天下人となる、偉大な人物の話は、段々と、重たくなり、疲れるのです。

でも、しかし、そもそも、"どうする家康"を、ブログを、綴る一番の目的は、ボケ防止ですので・・・。兎に角、飽きずに励みます。

因みに、このブログは開設が2006年9月からで、来月で17年となります。我ながら、よくも、まあ、飽きずに続けてこられたもんだ、と思います。この際ですから、あと17年やッてみッか ァ! 何て、今、突然、思って、見たり、しているのです。

ハィ、話は家康に戻ります。

ドラマの冒頭、

『岡崎まで、距離にして250㎞。神の君、一世一代の逃避行が始まったのでございます。』

のナレーション。

この、堺から岡崎までの逃避行のコースはいろいろな説があるようで、それによって距離も変わってくるのです。

そも、そも、信長が、光秀に殺された事を、家康が知った時点で、咄嗟に、次は自分だァ!と、身の危険を感じる筈です。でも、ドラマでは、周りから言われて、それなりに感じるのです。

史実によれば、家康は逃げられないと諦め、自害を決意したと言われています。しかし、家臣の説得で諦めたようです。

それにしても、家康は逃避行でいろい危険な目にあうのですが、史実として、その後、家康が天下を取った事を知っていますから、あまり、見ていて、ドキドキハラハラはしないのです。

突然、話は戻ります。

前回、お市の方が、

「あなた様は、兄のたった一人の友ですもの・・・兄はずっとそう思っております。こころを許すたった一人の友には憎まれている・・・あれほど哀れな人はおりませぬ。兄の人生で楽しかったのはほんのひととき・・・竹殿(幼き頃の家康)と相撲を取っていたあのころ・・・。いずれ誰かに討たれるのであれば、あなた様に討たれたいと、兄は、そう思っているのではと・・・兄が遠い昔に捨てさせられたものを、あなたは、ず~っと持ち続けているから」

この相撲を取っていた話ですが、ドラマの前半でも描かれていました。

家康が、織田家に人質として預けられていたのが、天文16年からの2年間です。

家康が生まれたのは天文11年(1542年)で、干支は寅年、寅の日、寅の刻、とされています。しかし、史実としては、天文12年だそうで、この年は卯〈うさぎ〉年なのでした。

このことが、ドラマでは、家康の内面を、生き方を、想いを、悩みを、迷いを、そして、決断を、読み解く、鍵となり、ストーリーは展開されていくのです。

信長に、度々、耳元で「白うさぎ」と云われ、挑発され、屈辱感を味合わされ、そして、最後に、"安土城の決闘"の回、信長の耳元で「兎が狼を食らうのじゃ」と反撃するのです。

それで、話は相撲の話になるのですが、信長は家康より8歳年上です。家康が6~8歳まで織田家の人質でした。ドラマでは二人は相撲を取ったことになっていますが、真ん中をとって、家康7歳、信長は15歳として。

家康は、一歳サバを読んでいますので、6歳対15歳の対決となります。小学校の1年生と中学3年生の闘いです。相手になりません。設定に無理があります、古沢さん。

またしても、ドラマにケチを付けてしまった。でも、こういうの、好きなんです。昔、むかし、品質管理で糊口を凌いでいたので、職業病かもしれません。あら捜しが好きになってしまったのでした。

話を『伊賀を越えろ』に戻します。

兎に角、結末を知りながらの視聴ですから、それなりです。

それにしても、捕らえられた家康と家臣たち、家康は家臣を庇い、家臣は家康への忠誠心を叫び、互いに信じあう姿。

まあ、何とも、美しい人間愛と云うか、主従愛と云うか、人間として、指導者として、後の天下人としての家康への、賛歌を歌い上げるような、美化し過ぎで、気持ち悪かったです。

殿様が「わしを先に殺せ!」何て、あの戦国の世に、云う筈ありません。もし、言ったとしても、それは、かなりの計算ずく、そろばんずく、打算です。

ドラマでは、そんな打算を感じさせるような描き方はしていません。もしかして、していたの? 家康の”タヌキ親爺的面”が顔を出しつつ有る、としての表現?

う~~ん、やっぱり、もっと素直にドラマの世界に浸っていた方が、心と身体の健康の為にも良いのかも・・・反省。 

あッ! 最後に忘れていました。堺から岡崎までの逃避行ですが、一番安全なのは、堺の港からの海上コースだと思います。

最終日は海上を船で渡っていますが、これは、ホントは、堺の港から、ずっと、ずっと、船だったのでは、と、これが一番安全です。

当時の操船技術では、時間が読めないとか、気候的に、どうの、こうの、いろいろ言われていますが、ここは、家康の命が一番ですから、真実は海上コースでは、と、思ったりしています。

“伊賀越え“は、やはり〈神君家康の物語作り〉としての、後の創作だと思ったりしています。わたしの新たな視点です。

うん、まあ、兎に角、そんな、あれ、これ、でした。

 

それでは、また。

 


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